歌のちから ー 外国語学習から詩の観賞まで

私たちは好きな歌を何度も聴く。歌詞はすでに知っていて、聞く前から言葉の意味はわかっている。それにもかかわらず、何度聴いても飽きることがない。
その理由はどこにあるのだろう?

ある研究によると、言葉をほとんど話すことができない子どもでも歌を聞いてある程度反復できるが、しかし歌詞だけを取り出すことは難しいという。

歌は、「メロディー」「リズム」「調性」「歌詞」「音色」などの要素から構成される。
実験に参加した2歳の子どもたちは、「メロディー」は上手でなくても「リズム」に乗って「歌詞」を口ずさむけれど、「歌詞」の「言葉」だけを話すように頼むと途端に発音できなくなった。
この実験が教えてくれるは、歌詞の意味がわからなくても、音楽と一緒であれば言葉の音声を記憶できる、ということである。

母語を習得する過程においても、幼児は身近な大人たちの音声を聞き、聞こえた音を反復する。
言語に「表現(文字、音声)」と「内容(意味)」という2つの側面があるとすると、最初に反復の対象になるのは「音」にすぎない。
それが「意味」と繋がるのは、「マンマ」という音の塊が、食べ物と連動することを記憶した時でしかない。
まず「音」があり、次に「意味」が来る。

このようなことを考えると、言語における「音」の重要性がはっきりと理解できる。

言葉の音楽

日本語は漢字という「表意」文字に多くを負っているために、文字を見て意味を理解するというシステムが私たちの中に出来上がっている。漢字の読み方(音)を知らなくても、意味が分かることさえある。そのために、言語における音の役割を忘れがちになることがある。

しかし、声に出さなくても、何かを考える時には、頭の中で言葉は音として表現されている。
私は今この文章を書きながら、口から声は出していないが、しかし頭の中では音声が続いている。それを消すことは決してできない。

その音の繋がりは、音楽と同様に、個人的なリズムや音色があり、メロディーにも違いがある。
こう言ってよければ、言葉を使うことは、一人一人が音楽を演奏し、歌を歌うことでもある。

実は、人と人の相性も、言葉の内容だけではなく、リズム感や音色、メロデイーラインに左右されるところが大きいかもしれない。好きな歌と好きになれない歌があるように。

面白いのは、私たちが好きな歌を聞く時、ある程度ではあるが、幼児の状態に戻っているのではないかと考えられること。
好きな歌は、何度で聞いても飽きない。歌詞が好きだと思っていても、言葉の意味は聞く前から知っている。歌詞の意味を理解するためであれば、歌を聞く必要などない。それにもかかわらず聞き続ける。
そのことは、私たちの求めているものが、歌詞も含めた音楽そのものであることを明らかにしている。

外国語を歌う

別の視点から見ると、音楽として言葉を聞く場合には、あまり意味がわからなくても、音としてある程度反復できる可能性がある。
外国語をマネできないとしたら、母語の音声体系がすでに出来上がってしまっているので、それ以外の音声を聞き取ったり、発声できないことによる。
しかし、そうした場合でも、歌としてメロディーやリズムを反復することは可能だろう。

そしてこの点が、外国語学習では結構大きな役割を果たすのではないかと考えられる。
というのも、言葉の音声という場合、一つ一つの音だけのことを考えてしまい、メロディー(イントネーション)やリズムのことを考えないことが多いからである。

例えば、英語の母音は12以上、フランス語では16の母音があると言われている。それに対して日本語はアイウエオの5つ。そのために多くの母音はうまく発音できないし、聞き取ることも難しい。だからこそ、できないことを強く意識し、習得しようと努める。

それに対して、音と音の流れ、メロディーライン、イントネーション、リズム等は意識されることが少ない。しかし、幼児の実験が示しているように、音の流れであれば意味がわからなくても、多少音が違っていても、反復できるはずである。
言葉は音の繋がり(構文)から成り立っているのだから、SVOCの分析をする前に、体に言葉の音楽性を感じる方が外国語の習得には有効なはず。
歌を聞き、一つ一つの音にはこだわらず歌ったり、音の流れを体に覚えさせることで、外国語の音楽性を身につけることは可能になるだろう。

繰り返しになるが、幼児は言葉を音のつらなりとして受信し、「マンマ」という音と食べ物が一緒に示されることで、自然に音と意味がつながる。「マンマ」という音を発信すると、食べ物がもらえることを体で覚える。
その後、「マンマ」と言うと、「オナカスイタノ?」という音のつらなりが何度も聞こえるとする。すると、今度は幼児の方から、「オナカスイタ」と言うようになるかもしれない。
その際にも、「オナカスイタ」という音声の流れ全体が問題であり、SVOCといった言語分析などできなくても、言語運用能力は身に付いていく。

いわゆる文法の中で、最も欠けているのが、こうした音の流れを体の中に作り出す練習に他ならない。英語やヨーロッパの言葉を母語とする人たちにとって、音の流れはほぼ同じなために、外国語であってもすでに似たような音の流れが体の中に出来上がっている。そこで、単語を入れ替え、多少母語と違う規則を覚えるだけで、ある程度話せるようになるし、聞き取ることができるようになる。
それに対して、日本語は流れが全く違うために、いくら文法の規則を覚えても、容易に話すことができないし、聞き取りも悪いままでいることが多い。
そのように考えると、歌を使って言葉に親しむ学習法の有効性が理解できるに違いない。

私たちが歌を聞いている時、歌詞の意味と同時に音楽そのものを楽しんでいるのであり、言語習得時の音と意味の関係と近いものがあると見なすこともできる。
要するに、言葉によってコミュニケーションをする時、意味をやり取りしているようでいながら、それと同時に、言葉のメロディー、リズム、音色などを総合的にやり取りしている。全てを含めて、言語コミュニケーションなのだ。

その意味で、歌と非常に近い関係にある文学のジャンルが、詩である
そして、詩においては、意味だけではなく、言葉の流れ、メロディー、リズムが大きな役割を果たす。

その際に、日本語では、5/7/5という拍子が決定的な重要性を持ち、そのリズムが「歌」を感じさせる。多少意味がはっきりしなくても、歌=詩としての美しさを生み出す。

例えば、中原中也の「ブランコ」の一節。

サーカス小屋は(7)/高い梁(5)
そこに一つの(7)/ブランコだ(5)
見えるともない(7)/ブランコだ(5)
(中略)
ゆあーん(4)/ゆよーん(4)/ゆやゆよん(5)

言葉の意味は特別に重要ではないが、しかし、口調がよく、歌っているようで、思わず何度でも口にしてしまう。
詩においては、意味と同等か、あるいはそれ以上に、音の流れやリズムといった音楽性が重要な役割を果たすことが、この例から理解できるだろう。
その意味で、詩は歌に等しいといえる。

詩において、言葉の音的表現が大きな意味を持つことは、俳句の英訳や仏訳を読むとよくわかる。

古池や 蛙飛びこむ 水の音
A sound of a frog / jumping into water / the old pond
Un vieil étang / une grenouille y plonge / le bruit de l’eau 

英語でも、フランス語でも、意味を読み取れば、蛙が池に飛び込むという状況は描かれている。しかし、それだけで芭蕉の俳句といえるだろうか?
kaeruという音と、frogやgrenouilleという音が違うのだし、翻訳がたとえ短い3行の詩句で構成されているとしても、芭蕉の俳句の感覚を感じることはできない。
理解できるのは、内容だけであり、言語表現そのものは翻訳不可能である。

同じように、ランボーの« L’Éternité »でも、フランス語の詩句の音楽性は詩の価値の半分を占めている。

Elle est retrouvée ! (5)
Quoi ? (1)/l’éternité.(4)

この詩句を、「それが見つかった! /何が? 永遠だ。」と日本語にした時に伝わるのは、意味だけであり、音楽性は失われている。

それにもかかわらず、日本では、詩を読む際に、音声や音楽性を考慮しないことが多くあった。
19世紀後半の詩人マラルメの詩は、文章構文を故意に混乱させ、言語そのものの根底を問い直そうとするもので、フランス人にもほとんど理解不可能なほどだと言われている。しかし、詩句の奏でる音楽は大変に美しい。

例えば、« Salut »の冒頭の詩句。

Rien, cette écume, vierge vers
À ne désigner que la coupe ;

無、この泡、純潔の詩句
杯だけを指し示す

芭蕉の俳句の音楽性が翻訳不可能なのと同様に、マラルメの詩句の音楽は翻訳では表現できない。
翻訳で伝えることができるのは、せいぜい意味の一端でしかない。

かつてマラルメに関しては、日本では鈴木信太郎が絶対的な権威であった時代があり、彼の翻訳は漢和辞典を引かないとわからないような、難解な日本語で綴られていた。
その時代、鈴木の翻訳を声に出して読むなど冒瀆に近いと考えられていたという。つまり、詩の音楽性などまったく考慮されていなかったことになる。
そうした状況の中では、フランス語の詩句の音楽性を感じることなど、思いも寄らないことだったに違いない。
しかし、それでは、芭蕉の詩句のリズムや音色を感じないで、芭蕉の句を理解すると主張するのと同じになってしまう。

詩を読む場合には、歌を聞く時と同じように、意味と同時に音楽性を感じ取りたい。
としたら、好きな歌を聴く時と同じように、何度も何度も言葉の音波に身を委ね、自分でも詩句を声に出してみるのが、一番いい方法になる。

私的には、耳にも口にも最も心地よいフランス語は、ヴェルレーヌの「クリメーヌに」の詩句をおいて他にない。

Mystiques barcarolles,    
Romances sans paroles,   
Chère, puisque tes yeux,   
Couleur des cieux,  
https://bohemegalante.com/2021/06/11/poeme-agreable-a-la-bouche/ 
https://bohemegalante.com/2019/03/05/verlaine-a-clymene/   


フランス語の音楽性を楽しめるかどうかは、フランス語のレベルの問題ではなく、習慣の問題に過ぎない。意味にこだわらず、好きな歌を聞き、詩句を口にするようにしていると、いつの間にかフランス語も親しいものになってくる。

幼児のように言葉に接する。
これが、外国語の習得から出発し、詩を味わうところまで、ずっと共通する姿勢だといえる。

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