ボードレール 「小さな老婆たち」 Baudelaire « Les Petites Vieilles » 1/5

「小さな老婆たち(Les Petites Vieilles)」は、「七人の老人(Les Sept vieillards)」と共に、ボードレールが1869年9月にビクトル・ユゴーに送った詩。
その際、二つの詩には「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」という総題が与えられていた。

その手紙の中で、ボードレールはとりわけ「小さな老婆たち」に関して、次のように書いている。

二番目の詩(「小さな老婆たち」)は、「あなたを模倣することを目指して」書いたものです。(私のうぬぼれを笑って下さい。自分でも笑っています。)あなたの詩集から何編かを読み返しました。素晴らしい慈悲の心が、感動的な親密さと混ざり合っているものです。私は時々、絵画展で、惨めな画学生が巨匠の作品を模写するのを見てきました。巧みに描かれたものも、稚拙なものもありました。でも、彼らの模写の中に、彼らの知らないうちに、時に、彼ら自身の性質に由来する何かが含まれていることがありました。優れたもののことも、卑俗なこともありました。

ここでボードレールは、「模倣」にも、模倣した人間の「性質(nature)」が反映すると考えていることがわかる。
としたら、ユゴーの詩の模倣の試みである「小さな老婆たち」にも、ボードレールの気質の反映が見られるはずであり、それが1860年前後のボードレールという詩人の特質になっているかもしれない。

「模倣」について考えるために、絵画の例を見ておこう。

海の女神ネレイスの肉体が力強く描かれている姿を見て、ヨーロッパの絵画をある程度知っていれば、ルーベンスが描いたものと推測できるだろう。(連作「マリー・ド・メディシスの生涯」の中の「マルセイユ上陸」)

その横にある模写は、19世紀フランスの画家のもの。この力強さや躍動感は、ドラクロワを思わせる。
実際、模写ではあるけれど、そこにはドラクロワのタッチがかなりはっきりと感じられる。

そのドラクロワの「ダンテの小舟」。
小舟の下に浮かぶ男の肉体は、模写のタッチと変わらない。

右側の模写は、エドワール・マネのもの。
ほとんど同じ構図、同じ色彩でありながら、全体のエネルギー感や細部のタッチがドラクロワとは違っている。

そのマネの「オランピア」。
オランピアの裸体は、浮かぶ男の肉体とは違うが、力の抜けたタッチにはかなり近いものがある。

模写はポール・セザンヌのもの。これはもう完全にセザンヌだといってもいい。

模写をしながら、すでに模写ではなく、自分の作品にしている場合もある。例えば、ゴッホの「種蒔く人」。ミレーの模写と言われているが、模写を超え、ゴッホのオリジナルになっている。

ボードレールは、模写と創造について、次のように考えていた。

「創造(クリエーション)」とは、何もないところから全く新しいものを作り出すことではなく、すでに存在するものを「想像力(イマジネーション)」によって変形すること。

従って、「模倣(イミテーション)」は、クリエーションの最初の一歩と考えることもできる。
その場合、「独創性(オリジナリティ)」とは、創造者(クリエーター)の気質に応じてイマジネーションがある物を変形する際の、変形する力を意味する。

ボードレールが「パリの亡霊たち」に関して、ユゴーの模倣という場合、とりわけ『東方詩集』に収められた「亡霊(Les Fantômes)」を頭に置いているのではないかと考えられる。

その明確な関係については、「小さな老婆たち」を構成する4つの部のうち、第2部と第3部に見られるが、ここでは第1部から順番に詩句を追って読んでいこう。


Les Petites Vieilles
À Victor Hugo
I

Dans les plis sinueux des vieilles capitales, 
Où tout, même l’horreur, tourne aux enchantements, 
Je guette, obéissant à mes humeurs fatales, 
Des êtres singuliers, décrépits et charmants.

「小さな老婆たち」
ヴィクトル・ユゴーに

I

古い都市の曲がりくねった襞の中、
全てが、醜悪さえもが、魅惑に変わるところで、
私は待ち伏せする、不吉な体質に従い、
特別な存在たち、老いさらばえ、魂を魅了する生き物たちを。

古い都市の中では、細く曲がりくねった道が入り組んでいた。
革命の際の暴動でバリケードが張られるそうした街並みは、パリでは1850年を超えたあたりから取り壊され始め、オスマンの大改造で知られる新しい街並みに生まれ変わった。

ボードレールは、改造前の不衛生で薄汚い道を「襞(plis)」と呼び、そこで起こる不思議な現象に言及する。
「醜悪さえもが、魅惑に変わる(même l’horreur, tourne aux enchantements)」のだ。

しかし、どうしたら、醜悪な物、おぞましい物が、人を喜ばせ、魅了するものに変化するのか?
別の言い方をすれば、非金属を黄金に変える錬金術など存在するのか?
「小さな老婆たち」という詩が挑戦するのはその秘術であり、醜悪から魅惑を生み出す変形を読者の中に引き起こすことにある。

そこで、「私」は、「特別な生き物(singuliers êtres)」を「待ち伏せする(je guette)」。
それは、「私」の意志によるのではなく、「私」の中を流れる「体液(humeurs)」のせい。
古代ギリシアから続く「四体液説」の中で、「七人の老人」の老人は「黄胆汁」の体液に浸っていた。
「小さな老婆たち」ではどの体液か明示されていないが、いずれにしても「不吉(fatal)」であり、自然に「醜悪さ(horreur)」を探してしまう。

その「私」の追い求めるものが、「特別で唯一な(singulier)」の存在。
その理由は、「老いさらばえ(décrépits)」ていながら「魅惑的(charmants)」でもあるという、矛盾する特性を同時に持っているからだ。

そして、その二重性こそが、醜悪が魅惑へと変化する秘密であり、その変形は魔術でもある。
そのことをボードレールは、2行目と4行目の最後で韻を踏むenchantementsとcharmantsという言葉によってはっきりと示している。
二つの単語の語源はほぼ同じであり、enchantementは「魔法の呪文(formules magiques)」を「歌う(chanter)」というのが元の意味、charmantは魔法の「歌(carmen)」から来ている。
men-manの音だけではなく、chの音が共鳴し、「曲がりくねった襞(plis sinueux)」の中で、全てが魔法にかかり、心を魅了するものに変わる世界が予告される。

このようにして、第1詩節は、「小さな老婆たち」全体を予告し、ボードレール「自身の性質に由来する何か」を凝縮していているのである。


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