「七人の老人」の後半、第8詩節からは、老人の数が増え始める。そして、不思議な雰囲気が漂うようになる。
(朗読は1分45秒から)
Son pareil le suivait : // barbe, oeil, dos, bâton, loques,
Nul trait ne distinguait, // du même enfer venu,
Ce jumeau centenaire, // et ces spectres baroques
Marchaient du même pas // vers un but inconnu.
彼と似た者が、後ろに続いていた。顎髭、目、背中、杖、ボロボロの服、
どんな特徴でも区別できなかった、同じ地獄からやって来た
その百歳の双子を。そして、そのバロック的な亡霊たちは、
同じ歩調で歩いていた、未知の目的地に向かい。
まずここで注目したいことは、1行12音節の詩句が、6/6のリズムで区切られ、意味もそのリズムに対応し、伝統的な詩法に従っていること。
その点では第一詩節と同様であり、それ以降、第7詩節までは一つの詩句だけではなく、詩節と詩節の区切りをまたぐ詩法が使われてきた。それが、第8詩節になり再び6/6に戻ることで、詩句が後半に入ったことを詩句の形によって示している。
内容の点からすると、最初の行の前半(「彼と似た人が彼の後ろに続いていた(son pareil le suivait)」)は、どこにも不思議なところはない。動詞は直説法半過去で、男が老人の後ろを歩いていたという状態が描かれているだけである。
しかし、老人と似ていて、「どんな特徴からも区別できない(nul trait ne distinguait)」という部分から、あまりリアルとはいえない記述が見られるようになる。
彼は老人と「同じ地獄(même enfer)」からやって来た。
「双子(jumeau)」であるのはともかく、「百歳(centenaire)」になる。
比喩的あるいは誇張的表現と見なせば言葉の彩ということになるが、しかし、それらをきっかけにして、少しづつ未知の領域に入っていく。
彼ら二人は「亡霊(spectres)」と呼ばれ、第1詩節の「亡霊が、真昼、通行人に付きまとう(Le spectre, en plein jour, raccroche le passant.)」と対応する。
「バロック的(baroque)」は、19世紀後半の辞書によると、「ショックを与えるほど奇妙な(D’une bizarrerie choquante)」と定義されている。
そして、彼らは「同じ歩調で(du même pas)」歩いているのだが、どこに向かっているのか、「目的地(but)」はわからない。「未知(inconnu)」だ。
この第8詩節の記述では、現実に留まりながら、どこか不安定な、不思議な雰囲気が漂い始める。
二人の老人が似ていて、双子のようだというのは普通のこと。
老人の目には悪意が輝いていたので、彼らが地獄から来ている、百歳と思えるほど年老いて見える、亡霊のようだ、というのは、比喩表現と見なしてもいい。
知らない人がどこに行くのかわからないので、行き先が未知なのは当たり前。
このように考えると、不思議なことは何もない。
しかし、言葉そのものが、どこか現実的ではなくなっている。
そして、まさにそこにこそ、詩人としてのボードレールの巧みさが秘められている。
いきなり非現実的な出来事を語り、幻想世界を描くことはしない。現実から出発し、現実に留まりながら、現実と少しズレた何かを感じさせる。
そこから、ボードレール的「神秘(mystère)」が発生する。
第9ー10詩節。
À quel complot infâme // étais-je donc en butte,
Ou quel méchant hasard // ainsi m’humiliait ?
Car je comptai sept fois, // de minute en minute,
Ce sinistre vieillard // qui se multipliait !
Que celui-là qui rit // de mon inquiétude
Et qui n’est pas saisi // d’un frisson fraternel
Songe bien que malgré // tant de décrépitude
Ces sept monstres hideux // avaient l’air éternel !

いかなるおぞましい陰謀の的に、私はなっていたのだろう?
いかなる底意地の悪い偶然が、こんな風に私を卑しめたのだろう?
私は数えたのだった、七度、刻々と、
その不吉な老人を。彼は倍加していくのだ !
私の不安を笑いものにする者、
友愛に満ちた震えに捉えられていない者は、
よく考えてほしい、あれほど衰えていたにもかかわらず、
七人のおぞましい老人が、永遠の様相をしていたことを!
「陰謀(complot)」、「底意地の悪い偶然(méchant hasard)」とは何か?
何か特別なことが起こったわけではない。
「私は数えたのだった、七度(je comptais sept fois)」。しかも、「一分一分、刻々と(de minute en minute)」という短い間に。
何を数えたのか?
答えは、「その不吉な老人」。その老人が、「倍加して(se multiplier)」いく。
この現象こそが、「七人の老人」という詩の中核に位置する「神秘」にほかならない。
その老人は単数、つまり一人しかいない。
では、似ていると思った老人は誰なのか?何なのか?
彼は、実在の存在ではなく、幻覚(hallucination)の中で見える幻(spectre)あるいは亡霊(fantôme)なのだ。
その幻覚は、それが見えている「私」にとっては現実の存在。従って、第8詩節でも動詞は全て直説法で書かれている。
しかし、他者の視点から見ると、7人の老人は、実際には1人であり、7人と思うのは幻覚にすぎない。
もし少しでも自分の認識の現実性に疑いを持てば、不安に襲われる。「私」のそうした不安を笑う人がいるかもしれない。
第10詩節は、そうした人びとに対する呼びかけである。
「友愛に満ちた震え(frisson fraternel)」という表現が少し分かり難いかもしれない。
震えとは、自分が幻覚を見ているのではないかと思った時に感じる心の動揺。友愛に満ちたとは、その震えに共感を抱くという意味。
「七人の老人」を献呈されたヴィクトル・ユゴーは、ボードレールへの返信の手紙の中で、「あなたは新しい震え(un frisson nouveau)を生み出したのです。」と記した。ユゴーはまさにボードレールの震えと共振したのだといえる。
その不安、震えを共有しない者に対して、ボードレールは「よく考えてみてくれ(Songe bien que…)」と呼びかける。
そして、一人が多数に見える現象は二重の様相を有すると解き明かす。
老人は、「衰えている(décrépitude)」が、しかし、「永遠(éternel)」なのだ。
その二面性は、ボードレールの考える「新しい美」の二面性に他ならない。
あらゆる美は、潜在的な全ての現象と同じように、永遠なものと束の間のもの、— 絶対的なものと固有なもの、を内蔵している。(『1846年のサロン』)
都市の街並みの中に突然出現した醜い老人。彼は百歳に見えるほど衰え、束の間の存在だといえる。
しかし、その老人が複数に倍加することで、永遠の存在になる。ただし、現実に複数化するのではなく、一人でありながら多数になる感覚を持つ。(たとえそれが幻覚であったとしても。)
その時、おぞましい老人は美になる。それは、旧来の美ではなく、現代的な美だ。
次の詩節では、さらにこの思考を続ける。
第11詩節
Aurais-je, / sans mourir, // contemplé le huitième,
Sosie inexorable, // ironique et fatal
Dégoûtant Phénix, / fils // et père de lui-même ?
— Mais je tournai le dos // au cortège infernal.
死ぬことなく、八人目を見ることができただろうか?
情け容赦なく、皮肉で、不吉な双子、
嫌悪感を抱かせる不死鳥、彼自身の息子でありながら父でもある存在を。
——— とにかく、私は背を向けた、その地獄の行列に。
7人目までは数えた。では、8人目まで見ることになれば、「私」はどうなるのだろう? 死んでしまうのではないか?
そんな自問にとらわれ、老人がどのような存在なのか、言葉を重ねる。
「うり二つ(sosie)」であることは、すでに言及されていた。
老人が多重化するのは、「情け容赦なく(inexorable)」、「皮肉で(ironique)」、「不吉な(fatal)」なことだ。
そして、彼は決して死ぬことなく、「不死鳥(Phénix)」のように永遠に生まれ変わる。たとえそれが「嫌悪感を抱かせる(Dégoûtant)」現象だったとしても、父から子、子から孫へと、命は繋がっていく。
ここまで考えると、「私」はもうそれ以上思考を進めることなく、老人(たちの群れ)に背を向ける。
その行為を示す動詞は直説法単純過去に置かれ、幻覚から醒め、明確な現実に回帰することが示されている。
第12ー13詩節
Exaspéré comme // un ivrogne qui voit double,
Je rentrai, je fermai // ma porte, épouvanté,
Malade et morfondu, // l’esprit fiévreux et trouble,
Blessé par le mystère // et par l’absurdité !
Vainement ma raison // voulait prendre la barre;
La tempête / en jouant // déroutait ses efforts,
Et mon âme dansait, // dansait, vieille gabarre
Sans mâts, / sur une mer // monstrueuse et sans bords !
ものが二重に見える酔っ払いのように、いらいらしながら、
私は家に戻り、扉を閉めた。恐れおののき、
病み、落胆していた、精神は熱を帯び、混乱し、
傷ついていた、神秘と馬鹿馬鹿しさによって!
私の理性は舵を取ろうとしたが、だめだった。
嵐が荒れ狂い、理性の努力を道から逸らせた。
そして、私の魂は、古い貨物船、踊った、踊った、
マストもなく、岸辺の見えない怪物のような海の上で!
第12詩節では、家に戻り、扉を閉めた時の「私」の状態が描写される。
「私」の見たものが幻覚だったという自覚は、「ものが二重に見える酔っ払い(un ivrogne qui voit double)」という言葉によって示される。それは、幻覚から醒めたサインだといえる。
現実的な視点から見れば、彼が見たのは一人の老人であり、多重化したのは酔っていたからにすぎない。
そして、「私」は、「傷ついて(Blessé)」いた。
その原因である幻覚を、をボードレールは2つの視点から表現する。
一方では、「馬鹿馬鹿しい(absurdité)」と見なす。これは現実的な視点。
もう一方では、「神秘(mystère)」だと見なす。こちらがボードレールの詩的視点。
第1詩節で「数々の不思議なことが、至るところに流れ(Les mystères partout coulent )」と記されていた。その具体的な内容の一つが、酔いの中で7人の老人を見ることなのだ。
そうした時、理性の制御は効かず、大海原で嵐に揺られ、マストを失い、ただ波に翻弄される「貨物船(gabarre)」のように、漂うしかない。
最後の詩節は、「魂(âme)」のそうした状態を、「踊る(danser)」という言葉で表している。
酔った魂の舞踏。それが、ボードレールの探求する美の世界の姿だといえる。


「七人の老人」は、『悪の華』の第2版の中で、「白鳥(Le Cygne)」「小さな老婆たち(Les Petites Veilles)」とともに、ヴィクトル・ユゴーに捧げられている。
その3つの詩を読み解いていくことで、1860年付近のボードレールの求める「美」の姿を捉えることができるはずである。
19世紀後半、彼の求めた美が詩人たちに大きな影響を与えたことは、ランボーの「酔いどれ船(Le Bâteau ivre)」や『イリュミネーション』に記された無題の一節、そしてマラルメの「海の微風(Brise marine)」などに目をやるだけで理解できる。
J’ai tendu des cordes de clocher à clocher ; des guirlandes de fenêtre à fenêtre ; des chaînes d’or d’étoile à étoile, et je danse. (Rimbaud, Les Illuminations)
ぼくは伸ばした、たくさんの紐を、教会の鐘から鐘へ。花飾りを、窓から窓へ。金の鎖を、星から星へ。そして踊る。
Et, peut-être, les mâts, invitant les orages
Sont-ils de ceux qu’un vent penche sur les naufrages
Perdus, sans mâts, sans mâts, ni fertiles îlots … (Mallarmé, « La Brise marine »)
そして、おそらく、マストは、嵐を招き、
一陣の風が傾けるものだ、その下には難破船、
跡形もなく、マストもなく、マストもなく、肥沃な小島もない。。。
https://bohemegalante.com/2020/04/02/mallarme-brise-marine/
Hiibou様
フランス詩の脚韻について調べたくて検索したらこのサイトに出会いました。知りたかったことが要領よくまとめられていて感心しました。
読みたい記事がたくさんあるので今後 fréqunter することになりそうです。
Scoronconcolo
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コメントありがとうございます。
このサイトでは、意味的な次元を主にして、脚韻についてあまり細かく説明していないのですが、もし専門的に興味をお持ちでしたら、次の文献をご覧になることをお勧めします。
概論
L. Quicherat, Petit traité de versification française.
ロマン主義時代の詩法
W. Teint, Prosodie de l’école moderne.
19世紀後半の詩法
Th. de Banville, Petit traité de poésie française.
それ以外に、Dictionnaire des rimesを見ると、一つの韻にどの単語が使われるのか理解できます。
フランスの詩人たちは、こうした韻の辞典を見て、言葉を選択していたはずです。
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