ボードレール 「七人の老人」 Baudelaire « Les Sept Vieillards » 2/2

「七人の老人」の後半、第8詩節からは、老人の数が増え始める。そして、不思議な雰囲気が漂うようになる。
(朗読は1分45秒から)

Son pareil le suivait : // barbe, oeil, dos, bâton, loques,
Nul trait ne distinguait, // du même enfer venu,
Ce jumeau centenaire, // et ces spectres baroques
Marchaient du même pas // vers un but inconnu.

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ポン・ジュノ監督 「パラサイト」 映画と倫理観

映画の本質はストーリーでもなければ、物語の背景にある倫理観でもない。映画の中で殺人が起こっても現実の殺人ではないし、どんなに荒唐無稽な出来事でもフィクションとして受け入れることができる。
映画としての本質がそこにないことはわかっている。

ストーリーや倫理観を取り上げるのであれば、映画でも小説でも、理解する内容が同じことは多くある。映画を見るときには、映画的な表現を体感することが最大の楽しみとなる。

それはわかっているのだけれど、しかし、どうしても倫理的な価値観でつまずいてしまうことがある。
例えば、西部劇は、どんなに名作と言われても、見る気がしなくなってしまった。
アメリカ西部の未開拓地に進出したヒーローが、無法で野蛮なインディアンと戦い、勝利を収めるのが基本的なパターン。しかし、西部が未開拓、インディアンが野蛮というのは白人側からの視点。現代の視点からすると、ヒーローは侵入者でしかなく、インディアンは自分たちの土地を守るためにカーボーイたちを襲わざるを得ない状況に置かれている。

それは単なる状況設定であり、西部劇の傑作は、現代的な価値観を超えて永遠の価値を持ち続けていると言われるかもしれない。しかし、開拓者精神を賛美する視点につまずくために、西部劇が楽しめないようになってしまった。

カンヌ映画祭のパルム・ドール、アメリカのアカデミー賞の4部門で受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト」は、批評家からも高い評価を受け、私の個人的な価値判断など意味を持たないことはわかっている。
ただ、この映画を全面的に楽しめない理由が、倫理観にかかわっていることがわかっているので、その点について考えてみたい。

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ボードレール 「七人の老人」 Baudelaire « Les Sept Vieillards » 1/2

シャルル・ボードレールは1859年5月の手紙の中で、「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」と題され、その後「七人の老人(Les Sept Vieillards)」という題名を与えられる詩について、新しく試みている連作の最初のものであり、これまで詩に定められてきた限界を超えるのに成功したと記している。

それは、1857年に出版した『悪の華(Les Fleurs du mal)』が裁判で有罪を宣告され、6編の詩が削除を命じされた後、第2版の出版に向け、新しい詩を模索している時のことだった。

4行詩が13節連ねられ、全部で52行から成る「七人の老人」は、前半の7詩節と後半の6詩節に分けて理解することができる。
前半は、パリの情景と一人の老人の出現。
後半は、その老人が7人にも8人にも見える幻覚症状。

詩法としては、一行の詩句や一つの詩節に意味を収めることとされてきた伝統的な詩法に対して、新しい詩を模索するボードレールは、あえて意味と詩句の対応を破壊した。すると、そのズレた部分が詩句のリズムを変え、特定の言葉にスポットライトを当てることになる。

内容的には、「美は常に奇妙なもの」とか「美は常に人を驚かす」とするボードレールの美学が、「七人の老人」の中で具現化されていると考えることができる。

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ドライブ・マイ・カー 濱口竜介監督の芸術

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」は、原作とされる村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を超えて、大変に素晴らしい作品に仕上がっている。

その証拠は、約3時間の上映時間の間ほとんど退屈することなく、一気に見ていられること。それほど明確なストーリーがないにもかかわらず、映像と音の世界に熱中していられることは、映画作品として優れていることを示している。

ストーリーに関して言えば、村上春樹の作品の中でどちらかと言えば凡庸な短編小説「ドライブ・マイ・カー」を骨格としながら、「シェーラザード」と「木野」という別の短編小説からいくつかの要素を取りだし、俳優兼演出家である家福悠介(西島秀俊)を中心にして展開する。

一方には、家福(かふく)の私生活が置かれる。
その中で、妻である音(おと:霧島れいか)が俳優の高槻耕史(岡田将生)と浮気している現場を目撃しながら、幸福を演じようとした家福の心の葛藤に焦点が当てられる。「僕は悲しむべき時にきちんと悲しむべきだった。」

もう一方には、家福の演出するチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演が置かれる。
こちらは、村上春樹の小説とはあまり関係なく、滝口監督が大幅に付け足した要素。日本語、ロシア語、中国語、韓国語の手話といった多言語で演じられる演出は、滝口監督が自らの作品論、芸術論、世界観を語っているとも考えられ、しかもそれが家福の私生活と関係しているという、非常に工夫された構造になっている。

それら二つの部分をつなぐのが、渡利みさき(三浦透子)の運転する家福の車、赤いサーブ900の内部空間で交わされる会話。
そこでは、死んだ妻・音が「ワーニャ伯父さん」のセリフを読む声が流れ、家福の知らない音の夢の最後を高槻が語り、ドライバーみさきが過去を語り、そして家福も自己を語る。
映画の題名「ドライブ・マイ・カー」が、映画の全ての部分を一つにまとめている。

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ネタバレはあり? 映画の場合

ネット上では、「ネタバレあり」とか「ネタバレ注意」とかいうように、「ネタバレ」という言葉にしばしば出会う。
映画であれば、あらすじを最後まで語るとか、とりわけ最後に準備されている大どんでん返しをバラしてしまうと観客の楽しみが損なわれると考えられ、「ネタバレ注意」と言われることがある。

しかし、ふと振り返ってみると、好きな映画ならば、2度、3度と見ることはよくある。その場合には、ネタはバレている。でも楽しむことができる。

そんなことを考えながら、ネタバレについて考えてみよう。

出発点は、ビリー・ワイルダー監督の「情婦(原題:Witness for the Prosecution」)。
アガサ・クリスティの短編小説「検察側の証人」が原作で、最後の最後に大々どんでん返しがあり、本当に面白い。
そして、映画の最後に、次のクレジットが入る。

The management of this theater suggests that, for the greater entertainment of your friends who have not yet seen the picture, you will not divulge to anyone the secret of the ending of Witness for the Prosecution.

要するに、映画をまだ見ていない友だちが最大限に楽しめるように、映画の最後に置かれた秘密を漏らさないようにして下さい、という内容。

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