ボードレール 「七人の老人」 Baudelaire « Les Sept Vieillards » 1/2

シャルル・ボードレールは1859年5月の手紙の中で、「パリの亡霊たち(Fantômes parisiens)」と題され、その後「七人の老人(Les Sept Vieillards)」という題名を与えられる詩について、新しく試みている連作の最初のものであり、これまで詩に定められてきた限界を超えるのに成功したと記している。

それは、1857年に出版した『悪の華(Les Fleurs du mal)』が裁判で有罪を宣告され、6編の詩が削除を命じされた後、第2版の出版に向け、新しい詩を模索している時のことだった。

4行詩が13節連ねられ、全部で52行から成る「七人の老人」は、前半の7詩節と後半の6詩節に分けて理解することができる。
前半は、パリの情景と一人の老人の出現。
後半は、その老人が7人にも8人にも見える幻覚症状。

詩法としては、一行の詩句や一つの詩節に意味を収めることとされてきた伝統的な詩法に対して、新しい詩を模索するボードレールは、あえて意味と詩句の対応を破壊した。すると、そのズレた部分が詩句のリズムを変え、特定の言葉にスポットライトを当てることになる。

内容的には、「美は常に奇妙なもの」とか「美は常に人を驚かす」とするボードレールの美学が、「七人の老人」の中で具現化されていると考えることができる。

Les Sept vieillards
À Victor Hugo

Fourmillante cité, // cité pleine de rêves,
Où le spectre en plein jour // raccroche le passant !
Les mystères partout // coulent comme des sèves
Dans les canaux étroits // du colosse puissant.

「七人の老人」
ヴィクトル・ユゴーに

蟻のように人々がうごめく街、街は夢に満ちている、
そこでは、亡霊が、真昼、通行人に付きまとう!
数々の不思議なことが、至るところに流れる、ちょうど樹液のように、
逞しい巨体の、狭い血管の中を。

第1詩節では、12音で構成される一行の詩句は、6/6と規則的なリズムを刻み、意味の塊もそのリズムに収まっている。従って、この詩節は伝統的な詩法に則っている。

最初の詩行では、« cité (街)» という単語が反復し、その語を展開点として、合わせ鏡のような作りになっている。« — cité / cité — »

fourmillantの語幹には蟻(fourmi)があり、その一語で、ボードレールの時代のパリの街が雑踏であふれかえる姿が連想される。
そして、そこを行き交う人々は、様々な夢、つまり欲望や願望を抱いている。

ただし、夢は真昼に見る夢。そのことが、2行目の« en plein jour »で明示される。
そこに現れる「亡霊(le spectre)」は、後に出てくる「一人の老人(un vieillard)」を予告する。
「通行人(le passant)」も、後に出てくる「私(je)」だと考えられる。以下の展開では、私が老人を見かけ、彼の後をついていくのだが、詩人の意識では、亡霊が売春婦のように「私」の袖を引き、付きまとうように感じられている。

そこで起こる出来事が「ミステリアスなこと(mystères)」なのは、住人が亡霊と呼ばれるから自然なことだともいえる。街中の「至るところ(partout)」に不思議なことがある。

「逞しい巨体(colosse puissant)」とは、「街(cité)」を言い換えた表現。
「細い血管(canaux étroits)」は、街を縦横に走る細い道。
肉体、血管という言葉を使うことで、パリの街が生命を持った存在に感じられる。

その中で、人々のうごめきは心臓の脈動のように、亡霊たちの営みは樹木の生命を支える「樹液(sève)」のように感じられる。

ここで注意したいことがある。それは、街を巨人と表現したとしても、「擬人化」という用語で片付けないこと。
様々な道が行き交う街は、細い血管が走る人体でもあり、樹液が流れる巨木でもある。つまり、一つのものが、街、体、木と様々な様相で捉えられる。その多重性が言葉によって生み出されるのである。

この第1詩節は、後に続く12の詩節全体の前提であり、詩を最後まで読み通した後で振り返ると、その重要性がはっきりとわかるようになる。


第2ー3詩節は、詩節と詩節の間で文章が繋がっており、伝統的な詩法に反している。

Un matin, / cependant // que dans la triste rue
Les maisons, / dont la brume // allongeait la hauteur,
Simulaient les deux quais // d’une rivière accrue,
Et que, / décor semblable // à l’âme de l’acteur,

Un brouillard sale et jaune // inondait tout l’espace,
Je suivais, / roidissant // mes nerfs comme un héros
Et discutant / avec // mon âme déjà lasse,
Le faubourg secoué // par les lourds tombereaux.

ある朝、その悲しい通りで、
家々が、靄(もや)に包まれ高くなったように見え、
水嵩の増した小川の両岸に似ていた時、
そして、あの役者の魂に似た背景として、

黄色く汚れた霧(きり)が、あたり一面を浸していた時、
私はたどっていた、英雄のように神経を緊張させ、
すでに疲れた自分の魂と議論しながら、
重い積み荷を載せた荷車に揺れる街並みを。

「ある朝(un matin)」は、なんらかの出来事が始まるサインとなる。
その後に「その時・・・(cependant que… et que…)」と続き、その朝の様子が5行に渡り描き出される。
さらに、第3詩節の2行目に至り、「私はたどっていった(je suivais)」と主文が現れ、そこで中心になるのが「私」であり、「街並み(faubourg)」を歩いている姿が浮き彫りにされる。
街並みが馬車で揺れるのは、早朝、市場に様々な荷物が運びこまれる状況を思い起こさせる。

では、朝の街並みはどんな様子だったのだろうか?
「靄(brume)」や「霧(brouillard)」がかかり、街全体がおぼろげとしている。
そして、「小川(rivière)」や「浸す(inonder)」という言葉から、湿気が多く、じめっとした感じが伝わってくる。

最初に出てくる「通り(rue)」という単語に定冠詞« la »が付いているので、「その悲しい通り(la triste rue)」が読者にも既知のものである、という前提で話が進められていることがわかる。
そのために、読者は詩の描く街並みに一気に入り込むことになる。

家々は靄に包まれ、輪郭がぼやっと膨張しているために、「上に伸びた(allongeait la hauteur)」ように見える。
通りの両側に家々がずらっと並ぶ様子は、小川の「両岸(deux bords)」のように感じられる。つまり、「道(rue)」と「小川(rivière)」が重ね合わされ、さらに、小川には「増水した(accrue)」という形容詞が付加され、霧や靄がますます色濃くなる。

Cependantの後の最初のqueに続く詩句がそうした水気の多い街並みを描き出す一方、二つ目のqueの後では、外の世界から内面の世界へと移行する記述が行われる。

まず、その街の情景を「背景、書き割り(décor)」と見なし、その情景が「あの役者の魂(âme de l’acteur)」に似ているとする。
この詩句がとりわけ強調されていることは、従来の詩法であれば4行目で完結すべき詩句が、次の詩節に続いていることから理解できる。

では、「役者(acteur)」とは誰か?
「悲しい通り」と同じように、その単語にも定冠詞が付けられている。また、最初に出てきた「通行人(passant)」にも定冠詞が付けられていた。
とすると、この役者も、「私」(詩人、ボードレール)だと考えていいだろう。
さらにいえば、その「私」は読者にもなりうる。人間は誰しもある種の「演技」をして生きているのだから。

そのようにして、ボードレールは、靄に包まれた街と人間の魂を同格に置くことで、外の世界(=物質)と内面(=心)の対応にスポットライトを当てる。
とすれば、街全体を包む「汚れ、黄色い(sale et jaune)」靄は、「私」の心の状態でもある。

だからこそ、街全体の様子を描いた後で、そこから「私」が姿を現すのである。
その時、« je suivais »という動詞の直説法半過去形が示すように、歩く姿が絵の中の人物のように描き出される。

その時の「私」は、「神経を緊張させ(roidissant mes nerfs)」、「英雄(héros)」のような様子をしている。
また、「自分の魂(mon âme)」と対話しているのだが、その魂は「すでに疲れている(déjà lasse)」。


第4ー5詩節では、二つの節の関連がさらに密になる。
文章の主語となる「一人の老人(un vieillard)」は第4詩節の一行目に出てくるが、動詞「出現した(m’apparut)」は第5詩節の冒頭に置かれ、強く印象に残る詩句を形成している。

Tout à coup, / un vieillard // dont les guenilles jaunes
Imitaient la couleur // de ce ciel pluvieux,
Et dont l’aspect aurait // fait pleuvoir les aumônes,
Sans la méchanceté // qui luisait dans ses yeux,

M’apparut. / On eût dit // sa prunelle trempée
Dans le fiel ; / son regard // aiguisait les frimas,
Et sa barbe à longs poils, // roide comme une épée,
Se projetait, / pareille // à celle de Judas.

突然、一人の老人が、彼の黄色いボロ着は、
雨模様の空の色をまね、
彼の姿は、施しの雨を降らせたかもしれない、
もし彼の眼の中に輝く悪意がなければ、

(その老人が)私の前に現れた。彼の瞳は浸っているようだった、
黄胆汁の中に。彼の眼差しは、濃霧の雨氷を尖らせていた。
彼の顎髭は長く伸び、剣のように硬く、
前に突き出していた、ユダの顎髭のように。

第3詩節まで、最初に人や物に言及されるときにも定冠詞が付されていた。それに対して、第4詩節に至り、初めて不定冠詞に先導された名詞、「一人の老人(un vieillard)」が出現する。そのために、老人の出現が衝撃的なものになる。

しかも、その主語に対して、動詞「私の目の前に現れた(m’apparut)」は次の節の冒頭に置かれ、直説法単純過去形に置かれた「出現」に強く焦点が当てられている。
ボードレールの詩人としての巧みさは、見事というしかない。

第4ー5詩節のそれ以外の要素は全て、出現した老人の描写に当てられている。

「ぼろ着(guenilles)」が「黄色い(jaunes)」のは、現実的に汚れているという以上に、街を覆う「黄色く汚れた霧(brouillard sale et jaune)」と対応する。
老人も、「私」と同様、街から析出された存在なのだ。

老人の「見た目(aspect)」は、哀れなものなので、施しの「雨を降らせたかもしれない(aurait fait pleuvoir)」。その際、雨という単語が用いられていて、道が小川でもあることを思い出させる。

ただし、老人は、彼の眼に光る「悪意(méchanceté)」のため、施しを受けることができなかった。その悪意の出所は、「黄胆汁(fiel)」。

古代から続く四体液説によれば、人間の性格は、血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液という4種の体液の混合によって決められるとされた。
血液が優勢だと陽気で快活な「多血質」、黒胆汁が優勢なら陰気で憂鬱な「メランコリー気質」、粘液が優勢ならば鈍感で冷血な「粘液質」が生ずる。
「黄胆汁(fiel)」が優勢の場合には,短気で怒りっぽい「胆汁質」になる。

老人の眼差しは鋭く、「濃霧に含まれる雨氷を研ぎ、尖らせた(aiguisait les frimas)」。その結果、辺り一面に立ちこめる霧は、事物をおぼろげにするだけではなく、危険なものにもする。
そうしたことは、老人の眼差しの中に燦めく悪意のもたらすものの一つだと考えてもいいだろう。

「長く伸びた顎髭(barbe à longs poils)」が「前に突き出している(se projetait)」様子は、「ユダの顎髭」と似ているとされている。
ユダはここでは「呪われた存在」の代表であり、ボードレールの時代には、「さまよえるユダヤ人」と同様に見なされることもあった。

「さまよえるユダヤ人」は、手に棒を持ち、長い顎髭を生やした姿でしばしば描かれた。その姿は、続く詩節で展開されるスフィンクスの謎かけの準備になっている。


第6-7詩節でも、再び、二つの詩節の文章がつながり、伝統的な詩法に対する挑戦が行われ、第7詩節の最初の一行に焦点が合わされていることが、詩の形式によってはっきりと示されている。

II n’était pas voûté, mais cassé, son échine
Faisant avec sa jambe un parfait angle droit,
Si bien que son bâton, parachevant sa mine,
Lui donnait la tournure et le pas maladroit

D’un quadrupède infirme ou d’un juif à trois pattes.
Dans la neige et la boue il allait s’empêtrant,
Comme s’il écrasait des morts sous ses savates,
Hostile à l’univers plutôt qu’indifférent.

彼は背中が丸まっているのではなく、壊れていた。彼の背骨は、
足と完全に直角をなしていた。
その結果、杖が、顔の先端を形作り、
彼の姿と不器用な歩き方は、

体が不自由な四本足の動物か、三本脚のユダヤ人のようだった。
雪や泥の中を、彼は足をもつらせながら歩いていた、
ちょうど、死者たちをボロ靴の下で踏み潰すように、
世界に対して敵意を抱いていた、無関心である以上に。

第6詩節は、老人の姿の描写に当てられている。
「彼の背中(son échine)」は地面に対して垂直に曲がり、手に持った「杖(bâton)」の先端が、ちょうど鉛筆の「芯(mine)」のように、頭から突き出している。

そして、前の詩節で言及されたように、顎髭が垂直に前に突き出しているため、二本の足、杖、顎髭があることになる。
そのために、「四本足の動物(quadrupède)」のようにも、「三本脚(trois pattes)」の「ユダヤ人(juif)」のようにも見える。

その姿は、スフィンクスの有名な謎を思わせる。
「朝に四つ足、昼に二つ足、夜に三つ足となるものは何か?」

スフィンクスは、岩の台座に座り、テーバイを通りかかる人々にその謎を出し、解けない者たちを食べてしまう。
最後にオイディプスが現れ、謎を解く。
答えは人間。
なぜなら人間は、幼時には四つ足で這い、成長すると両足で歩き、年老いてからは杖をついて歩くからだ。
謎を解き明かされたスフィンクスは恥じて台座から飛び降り、谷底へ身を投げて死ぬ。

スフィンクスの謎に匹敵する「老人(un vieillard)」は、降り積もる雪と泥の中を、「足を紐で縛られたかのように歩いていた(s’empêtrant)」。
その様子は、「死者たち(des morts)」がごろごろと転がっている中をつまずきながら歩いているようだ。死体は、スフィンクスの謎に答えられなかった人々なのかもしれない。

そして、老人は世界全体に対して敵意を抱いている。「悪意(méchanceté)」に満ち、「眼差し(son regard)」がとげとげしいのも、そのためだろう。

こうして、第4詩節から第7詩節までの合計16行の詩句を通して、突然姿を現した老人の姿が描き出される。


「七人の老人」の前半部分で起こる出来事は、「私」が街路を歩いているとき、一人の老人が目の前に現れたということだけ。

では、それ以外に何が描かれていたのか?
まず、街の様子。黄色い靄がかかり、物の輪郭はおぼろげとしていた。
その霞の中から「私」が浮かび上がってくる。「私」の神経は緊張し、魂は疲れ果てている。
突然、「私」の目の前に、一人の老人が出現する。意地悪そうな目、体は二つに折曲がり、黄胆汁質で、全てに対して敵意を持っている。

第1詩節で、ボードレールは、この情景には「神秘的なこと(les mystères)」が流れているとしていた。
しかし、ここまでの詩句で神秘を感じることはあまりない。
としたら、ミステリアスなことは、詩の後半部分で明らかになるのだろうか?
もしそうであるなら、どのような神秘なのだろう。(2/2に続く)

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