
映画の本質はストーリーでもなければ、物語の背景にある倫理観でもない。映画の中で殺人が起こっても現実の殺人ではないし、どんなに荒唐無稽な出来事でもフィクションとして受け入れることができる。
映画としての本質がそこにないことはわかっている。
ストーリーや倫理観を取り上げるのであれば、映画でも小説でも、理解する内容が同じことは多くある。映画を見るときには、映画的な表現を体感することが最大の楽しみとなる。

それはわかっているのだけれど、しかし、どうしても倫理的な価値観でつまずいてしまうことがある。
例えば、西部劇は、どんなに名作と言われても、見る気がしなくなってしまった。
アメリカ西部の未開拓地に進出したヒーローが、無法で野蛮なインディアンと戦い、勝利を収めるのが基本的なパターン。しかし、西部が未開拓、インディアンが野蛮というのは白人側からの視点。現代の視点からすると、ヒーローは侵入者でしかなく、インディアンは自分たちの土地を守るためにカーボーイたちを襲わざるを得ない状況に置かれている。
それは単なる状況設定であり、西部劇の傑作は、現代的な価値観を超えて永遠の価値を持ち続けていると言われるかもしれない。しかし、開拓者精神を賛美する視点につまずくために、西部劇が楽しめないようになってしまった。
カンヌ映画祭のパルム・ドール、アメリカのアカデミー賞の4部門で受賞したポン・ジュノ監督の「パラサイト」は、批評家からも高い評価を受け、私の個人的な価値判断など意味を持たないことはわかっている。
ただ、この映画を全面的に楽しめない理由が、倫理観にかかわっていることがわかっているので、その点について考えてみたい。


「パラサイト」で中心になるのは、社会の上層階級(パク家)と半地下に住む家族(キム家)。
両家とも、父、母、子ども二人(男女)という4人で構成されている。
物語は、失業中のキム一家が、様々な手段を使って裕福なパク家に入り込み、一時は全てがうまくいくように見えるが、最後は破綻するというもの。
恵まれた階層の人間はかなり単純で騙されやすく、半地下人間は知恵に富み、経済的な格差とは逆の力関係で、彼らを手玉に取る様子がユーモラスに描かれている。

私にとって問題になるのは、富裕層と半地下層以外に、もう一つの層が存在し、半地下人間が、より下の階層の人々に対してひどく残酷なこと。
パク家の邸宅には地下室があり、家政婦ムングァンの夫オ・グンセが隠れ住んでいる。
キム家の人々の策略によって解雇されたムングァンは、パク一家が家を留守にし、キム一家がやりたい放題しているところに突然現れ、家に入れて欲しいと懇願する。そして、何とか中に入り込み、夫に食料を与えるため地下室に降りる。
そこに社長一家が戻って、ドタバタ劇が続く。その部分はリズミカルに進行し、映画的にとても楽しく見ていられる。

しかし、個人的にどうしてもひっかかるシーンがある。
頭を強打され、ふらふらになっていた元家政婦ムングァンが地下の階段から上がって台所に出ようとする瞬間、キム家の母親チュンスクが、彼女を足で蹴り落とす。その結果、ムングァンは命を落とすことになる。
その後も、キム家の父親ギテク、娘ギジョン、息子ギウがパク一家から見つからないようにするコミックなシーンが続くのだが、自分たちよりも弱い立場にいるムンガァンやオ・グンセを攻撃する姿には、どこか釈然としないものが残る。

物語の最後、オ・グンセ、ギジョン、パク社長という三人が刺し殺されるという凄惨なシーンが展開する。
その結果、富裕層から1人、半地下層から1人の死者が出るが、地下層では二人とも死亡する。
リアルと言えばリアルなのだが、ムングァンを策略によって解雇させたのも、オ・グンセを逆上させ暴力と死に至らせるのも、上層階級の人間ではなく、半地下のキム家に他ならない。
彼らは、自分たちよりも下の層の人間を抑圧する方に回る。
パク社長や夫人がギテクに階級差を感じさせるような行為を取ったとしても、決して攻撃性はなかった。それに対して、半地下一家は、地下室の二人に対して攻撃的な振る舞いをする。
チャンスクを階段の上から蹴落として殺したとしても、オ・グンセを縄で縛り付け、妻を救えないようにしたとしても、ほとんど意に介する風がない。
そうしたストーリーや倫理観は映画の本質とは関係ないとわかっていても、「パラサイト」を気持ちよく見ることができない自分がいる。
物語の最後、主人公の一人キム家の息子ギウが、将来金持ちになり、パクの邸宅を買い取るという夢がユーモラスに描かれるとしても、母チュンスクが穏やかに暮らしている姿を見ても、彼らに感情移入することができない。

「パラサイト」が、貧富の格差という社会問題を扱うリアルな映画でありながら、ブラック・コメディの部分やどんでん返しのあるサスペンスが調和し、面白いといった感想を持てない。
社会的な格差が、家のある位置の上下(パク邸は丘の上、キム家は半地下)や階段の上下といった映像によって表現されていると解説されても、半地下の中でもトイレは上にあるとか、色々と反論できる点に目がいってしまう。
「パラサイト」の観客の多くは、映画に登場しない階層、つまり、パク家とキム家の間に位置する中間層に属していると考えてもいいだろう。
そうした中で、弱者の視点に立ち、知恵を使い強者を出し抜くストーリーに快感を覚えることは、ごく自然なことだといえる。
主人公はキム家の人々なので、彼らの言動を楽しみながら追っていくことになるだろう。
それに対して、私は、半地下より下に位置する地下の住人にも視点が向かってしまい、映画としての楽しみをあまり感じられないでいる。
映画の中の倫理観については、小津安二郎監督が戦後に製作した映画について考えたことがある。
映画の倫理と時代の倫理 終戦直後の小津安二郎作品
その中での一本「風の中の雌鶏」では、夫が妻を突き飛ばし、階段から真っ逆さまに落としてしまうシーンにどうしても反感を持ってしまうことを記した。