エドゥアール・マネ の 「フォリー・ベルジェールのバー」 は絵画の専門家だけではなく、哲学者や文学者たちの分析対象になることも多く、驚くほど数多くの言葉が費やされてきた。
その理由の一つは、カウンターの中央にいる女性と、後ろにある大きな鏡に写った彼女の背中や男性の位置が不自然なところにある。

最近の研究では、こちら側の現実と鏡像との関係が不可能なものではなく、実際にありうる位置関係であることが証明されている。(Malcolm Park, « Ambiguity, and the engagement of spatial illusion within the surface of Manet’s paintings », Ph.D. diss., University of New South Wales, Sydney, 2001, pp. 208-242.)


男性はカウンターの中の女性バーテンダーの正面にはいるが、少し横を向いている。それをviewpointから撮影すると、現実の彼の姿は見えないけれど、鏡に映った姿は見え、絵画の構図と同じになる。


一度そうしたことが「発見」されると、絵画の解釈が付け加えられる。
男性の視線が向かうのは、鏡の中の左端の女性の方向。彼女はマネのモデルになったこともあるメリー・ローランに似ている。
フォリー・ベルジェールで働くカウンターの女性は、モーパッサンの小説『ベラミ』にも書かれているように、飲み物だけではなく、春を売る女性でもあった。そこで、男性の視線が他の女性(メリー・ローラン)に向けられていることに気を悪くして、愛想のない、気の抜けた表情をしている、等々。
こうした解釈を考えるのは絵画を見る楽しみの一つではあるが、しかし科学的に現実にありうると証明された構図が、私たちの感覚に自然に受け入れられるわけではない。
むしろ、マネの非科学性を弁護するよりも、描かれた映像をそのまま感知することが、マネの意図に叶っていると考えられる。というのも、「フォリー・ベルジェールのバー」が生み出す不自然さは、マネがあえて選択した構図から生まれるからである。
この絵画には、習作が残されていて、現実と鏡像の関係は自然なものになっている。

また、X線を通して見ると、完成品の前の段階も見えてくる。

こうした段階があることがわかると、マネが何も考えずに不器用な絵を描いたわけではなく、1882年のサロンに出品した際にも、観客や批評家たちの反応を予想していたはずだと推測できる。
フォリー・ベルジェール(Folies Bergère)は、1869年5月2日に開業された。そのニュースは、翌日の「フィガロ」紙で約1段のスペースを使って紹介されたほどで、オペレッタ、パントマイム、アクロバットなど様々なショーが行われるパリで人気の娯楽施設だった。
(ちなみに、Foliesとは豪華な別荘のような建物を意味する。Bergèreは建物のあった近くの通りの名前。)


もし「フォリー・ベルジェールのバー」に描かれたホール内の描写に間違いがあれば、すぐに指摘されたに違いない。
実際、構図が変だと揶揄する雑誌記事が残っている。

「フォリー・ベルジェールの女性バーテンダー ——— 彼女の背中が鏡に写っている。しかし、画家の気が散っていたためか、彼女が話をし、鏡の中に姿が映っている男性が、絵画の中には存在しない。——— その欠点を補正しなければならないと我々は考える。1882年のサロン。」
実際、上に描かれた素描には背中を向けた男性が描かれていて、欠点が補正されている。
マネが不自然さを求めたことは、カウンターの女性を中心にして、非常に均整の取れた構図が作り出されていることからも、逆説的に証明される。
空間に補助線を引くと、画面が見事に縦と横に配置され、三角形の頂点が彼女の鼻にあることがわかる。


こうした均整の取れた構図が明確であるために、女性の背中と不在の男性の鏡像がますます強い違和感を抱かせることになる。
そしてその違和感は、鏡に写ったホールの映像がカウンターと近くにありすぎ、奥行きがないことも気づかせる。
鏡の前の描写と、鏡に写った世界の描写が随分と違っている。
前にある世界は、静物に質感が感じられる。

それに対して、鏡像の筆使いはかなり粗い。


このように、マネは現実の世界と鏡の中の世界を、別の世界として描き分けている。
現実は本物であり、鏡像は現実のコピーなのだから、それはごく普通のことだといえる。
では、なぜ現実と鏡像の関係を不自然にしたのか?
あるいは、不自然な印象を生み出すことで、どのような効果が生まれるのか?
この問題を考えることが、「フォリー・ベルジェールのバー」の根底に横たわる時代性を理解するための第一歩になる。
科学的に不自然ではないと証明できたとしても、日常的な経験の次元で不自然であれば違和感を抱く。マネを揶揄したデッサンがそれを証明している。
それと似た不自然さを感じる絵画が、19世紀後半に描かれたことを思い出そう。その典型は、セザンヌのリンゴ。


ただのリンゴの絵のように見えるが、何かがおかしい。居心地が悪くて、ギクシャクしている印象を与える。
その理由は、リンゴの塊が一つの平面に置かれているのではなく、いくつかの視点から見られたもので、そのようにして捉えられた複数の平面が重ねられているからだ。
その際に、どれか一つの平面が支配的な位置を占めるのではなく、それぞれの平面が同じレベルで存在している。どれが正しい平面で、どれが偽りの平面ということはない。
そこにポール・セザンヌの革新性があった。
鏡を描いた絵画の場合には、現実と鏡の中の像ははっきりと区別されるのが普通だった。
マネ以前にも、絵画の歴史の中で、鏡は数多く描かれてきた。
http://uchuronjo.com/art/miroir/manet_miroir_1986.html
「フォリー・ベルジェールのバー」との関係でしばしば言及されるヴェラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」でも、画面の中央に鏡が置かれ、不在の王夫妻を映しだしている。

画面の中の画家が描いているのは、王夫妻の肖像画。ヴェラスケスは画布の横に立ち、二人をじっと見つめている。そして彼の視線の先にあるのは、絵画を見る鑑賞者の場所でもある。
さらに、王夫妻は絵画の手前にいるので、絵画の中では不在のはずだが、中央にかけられた鏡の中に姿が留められている。

このように「ラス・メニーナス」は複雑な構造に基づいているのだが、しかし、いくら現実と鏡の関係が複雑になったとしても、王夫妻の鏡像は映像であって、決して現実とはならない。
二つの世界は決して混同されることがない。現実と虚構(空想、夢など)を混同すれば、狂気と見なされることにもなりかねない。
肖像画や静物画がいくら本物に似ていようと、映像にすぎない。
従って、鏡像を普通に鏡像として描けば、現実と鏡像の関係は本物とコピーの関係になる。それは現在でも通用し続けるごく常識的な考えであり、絵画の世界でも疑問の余地なく受け入れられる。
だからこそ、マネは、意図的に二つの世界のつながりを不自然にし、鏡像の世界が現実世界に従属する状態から解放しようとしたのではないだろうか?
別の言い方をすれば、鏡像を現実とは異なるもう一つの現実とし、鏡の上のイメージの世界を自立させようとしたのではないだろうか?
その試みは、伝統的な現実/模倣の区分けを前提にしながら、本物と複製の支配従属関係を覆すものだったと考えることができる。
マネは伝統に基づきながら、新しい世界像へと歩みを進めたのだ。
その新しい芸術像とは、一元論的世界像あるいは現前性の世界像だといえる。
伝統的な芸術観においては、本物をモデルとして、それを再現(ミメーシス、模倣)することが基本だった。
伝統的な絵画においては、再現は「美的」なものであることが原則であり、19世紀の半ばの写実主義では、「現実に忠実」であることが求められた。
しかし、どちらの場合にしても、作品はあくまでも現実のコピーということになる。
19世紀半ば以降、こうした二元論的世界観を覆し、芸術を再現ではなく、それ自体で一つの創造と見なす芸術観が出現する。
人を欺く虚構(イメージ)と考えられてきた想像力(イマジネーション)の生み出す世界にも、現実と同じ次元のリアリティーを認め、もう一つの現実として扱う。
その結果、現実とコピーという二元論によるのではなく、作品をそれ自体で自立したものと考える一元論に基づくようになる。
作品の世界が「現前」するものとして捉えられる。
「フォリー・ベルジェールのバー」が描かれた時代の芸術観をこのように振り返ると、作品が表現しているものが垣間見えてくる。
鏡像が現実と不自然な関係にあることは、現実から鏡像が自立したことを静かな形で宣言するものだった。
そのことは、「フォリー・ベルジェールのバー」という絵画自体が、現実のミュージック・ホールに基づいているとはいえ、その再現を目指しているのではないことも告げている。作品自体がそれだけで自足し、一つの現実だと見なされうる。
そして、絵画内の現実に鑑賞者を引き込むのが、カウンターの女性だろう。彼女は何も見ていない。

この眼差しは、「ラス・メニーナス」のヴェラスケスの眼差しとも、マネの「草上の昼食」の裸婦の眼差しとも違っている。


ヴェラスケスも裸婦も、鑑賞者をじっと見つめている。鑑賞者はその眼差しに射すくめられ、その場に立って絵画を見る。
他方、フォリー・ベルジェールの娘の眼差しはおぼろげで、ぼんやりとしている。彼女の表情は鑑賞者の感受性に応じて、どのようにでも読み取ることができる。そこで、鑑賞者は自分から一歩進み出て、絵画の世界へ入っていくことになる。
そこに広がるのは、19世紀後半の市民生活の情景であり、空中サーカスなどが行われる人気スポットで酒を飲み、会話を楽しむ人々の姿。
男に声を掛けられている背中しか見えない娘は、おぼろげな眼差しの娘の空想なのか、思い出なのか。とにかく、それも当時の風俗の一部なのだ。

芸術作品が現実から自立しているように、「フォリー・ベルジェールのバー」を見てどのような印象を持ち、何を感じ取るかも、鑑賞者の知識、感受性、それまでの体験などにより、自由に展開することができる。
その解読の豊かさが作品の豊かさを証明するとすれば、これまで驚くほど数多くの解読へと鑑賞者を誘ってきた「フォリー・ベルジェールのバー」は、この上もなく豊穣な絵画だということができる。
現実と虚構の区別を曖昧にする試みは、現代芸術においては、現実そのものに対する働きかけによって行われることがある。

この鏡の迷宮は、人間の知覚を混乱させ、現実と鏡像の区別があいまいな世界を生み出している。
「フォリー・ベルジェールのバー」のかなり専門的な解説を、youtubeで見ることができる。
英語の翻訳が付けられたビデオ。
?芸術が虚構を表現するとは何?そもそも芸術とは、その表現する対象の本質を抉り出し、あらゆる側面から魅せるものではないのか?あなたの論説だと、芸術とは虚構そのものだという事になりますね。虚構とは嘘の世界。芸術の本質にはイデアがある筈なのに、この文章では本質までもが単なる幻だと言っている様なものです。あなたは少々疲れ気味の様ですので、ゆっくり休暇などを取って好きな事や睡眠の時間を摂る事をお勧めします。お気に障る様なら私の言葉はどうか聞き流して下さい。また次回、是非拝見させて貰います。
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虚構、フィクションも現実とは区別しないとか、イデア論に対する反論は、19世紀中葉から起こり、少し前のフランス思想でも、多く主張されたことでした。
そうした思想は常識的思考とはかなり違いますので、なかなか理解されにくいようです。そのために、ボードレール、フロベール、マネを通して、ここのところ集中的に説明しています。最新のフィクション論なども考慮すると、また違った説明ができるのかもしれません。
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