私たちは花を見ると花だと思うし、人間を見れば人間だと思う。しかし、そのように認識することで、一本一本の花、一人一人の人間の具体的な姿に注目しなくなるようである。
それに対して、画家の目は、それぞれの対象の形態や色彩に注意が引かれるらしい。
エドゥアール・マネの「エミール・ゾラの肖像」に関して、画家オディロン・ルドンの言った言葉が、そのことをはっきりと教えてくれる。


ルドンはこの絵のエミール・ゾラを見て、「人間の性格の表現であるよりも、むしろ静物画」だと感じる。
私たちは直感的に、人間の形態があればそれを人間だと思う。しかし、画家はそれとは違う目を持つため、人と物の区別の前に、形と色に敏感に反応する。
この絵が発表された1868年当時の絵画の批評家たちも、室内に置かれた物とゾラを描く筆触に違いがなく、静物はよく描けているが、ゾラの姿は人間的ではないと見なしていた。
全体に肉付けが欠け、色彩が一面的で、遠近もなく平坦に見える。
実際、髭や服を髭や服だと思わずに見ると、そうした批判に納得がいく。
次の部分が何かわかるだろうか?



1は髭、2は上着、3は頭上の壁だが、3つともほぼ黒一色で、ベタに塗られているにすぎない。
このように、人物も物体も同じ描き方が用いられているために、「この絵のあらゆる部分は同じ価値を持っている。そのために、変化も空気もない、一言で言えば生命のない、重い全体を形作っている」という、ある批評家の激しい非難を招く結果にもなった。
ただし、この黒は、実はマネの絵画の特色でもある。
ヨーロッパの絵画の伝統では、黒は色として認められていなかったのだが、マネは黒を色彩として絵画に導入したのだった。
それ以外の色彩表現にしても、テーブルの上に置かれた数々の本や、ゾラの座る椅子の装飾、背後に置かれた日本の金屏風など、優れた表現が見られる。
全体の色調は、背後に掛けられた浮世絵(歌川国明「大鳴門灘右エ門」)と近いものになっているが、その色彩はゾラが施したものであることが、歌川国明の実物との比較から分かってくる。


最初に取り上げたルドンにしても、色彩の調和や斬新さについては高く評価し、静物画としての価値は認めている。
そうした対象の感覚的な表現や質感の美を認めた上で、人物の性格、人間の精神が発する内的な生命感を伴った人間が描けていないと非難したのだった。
そうした批判は、「エミール・ゾラの肖像」だけではなく、マネの多くの絵画の特色を的確についている。というのも、当時の批評家たちは、マネの最も大きな問題点は、「物と人を等しく扱う」ことだと見なしていたからである。

その一つの例として、「オランピア」を取り上げ、次のような非難の言葉が投げかけられた。
マネの悪徳の一つは、一種の汎神論であり、時として女性の顔の形よりも、花束に重きを置いたりする。例えば有名な「黒猫」の絵がそうである。
しかし、その一方で、描写の方法を評価する少数の批評家もいた。その代表が、肖像画に描かれたエミール・ゾラである。
君にとって絵画とは単に分析のための口実である。裸の女が必要になりオランピアを選び、それが最初にやってきた。明るくて光のある部分がいるから花束を置き、黒い部分が欲しくて黒人女性を置き、隅に黒猫を置いた。それらが何を意味するかなど君はほとんど知らないし、ぼくもそうだ。ぼくが分かっているは、君が素晴らしい画家の作品、偉大な画家の作品を作り上げたいということであり、(中略)、特殊な言語で、光と影の真実、物と生物の現実を力強く伝えようとしたことである。
ゾラによれば、マネが追求したのは、人と物を区別する表現ではなく、「光と影の真実」「物と生物の現実」だということになる。
そして、マネを批判する者たちさえ、マネの静物画の素晴らしさは認めていたと、ゾラは言う。
このマネの傾向は、彼が最も偉大な画家と見なしたヴェラスケスに由来する。
ヴェラスケスこそが、スペインでボデゴン画と呼ばれる静物画を最高の水準に引き上げた画家であり、人間と同様に物にも興味を抱き、絵画の価値が、歴史画や宗教画といったテーマの選択ではなく、表現自体にあることを示したのだった。


そのスペインの画家の後を追いながら、マネは、明暗法や中間色の使用によって色調を繊細に変化させる伝統的な絵画表現を捨て、色彩が弱まらない純色を用い、斑点のような色の塊で大胆なコントラストを生み出す画法を開発した。
こうした革新的な表現法が、様々な絵画の中にちりばめられている。




これらは、花束やリンゴやレモンである前に、色の塊にすぎない。そして、そこにこそ、絵画の筆触が感じられる。
絵画を観賞する最初の一歩は、その筆触を感じるところにある。

ポール・セザンヌにとってそれは当たり前のことだっただろう。
彼は、オランビアの花束や、草上の昼食の果物にとりわけ注意を払い、それらがモネの絵画を最も純粋な形で表現していると考えた。
私は、描き始める時には、いつでもマネのように絵具をたっぷりと塗って、絵筆によって形態を生み出すことを求めています。
このセザンヌの言葉は、絵具の作り出す形と色が絵画にとって最も重要な要素であると語っている。

形と色を捉えることについて、マネに親しく、詩人であり美術批評家でもあったボードレールは、日常的でありふれた事物を新しい視線の下に置く「子ども」と関係させて、現代的な美を解明するための糸口にする。
子どもは全てを「新しいもの」として見る。彼は常に「酔っている」。インスピレーションと呼ばれるものに何よりも似ているものは、形と色を吸収する時の子どもの喜びである。(ボードレール「現代生活の画家」)
絵画から物語性を取り去り、絵画表現そのものに意義を見出す絵画観は、「絵画のための絵画」あるいは「純粋絵画」などと呼ばれることになる。
私たちはどうしても、絵画の主題に注目し、それにまつわる物語を語ってしまう。あるいは、人物を見て、感情や性格に想像を巡らし、感情移入して、自分の思いを吐露することもある。
そうした途端に、絵具の動きや形が片隅に追いやられてしまいがちになる。
エドゥアール・マネが求めたことは、物語や性格の前に、絵そのものに注目させるような絵画だった。だからこそ、人と物の区別を表現するのではく、静物も生物も同様な描き方をしたのだと考えられる。

伝統的な絵画観とは異なるものとしてエドゥアール・マネが試みた絵画観は、小林秀雄の「美を求める心」と響き合っている。
その中の有名な一節。
例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だとわかる。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるのでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。スミレの花という言葉が、諸君の心のうちに這入ってくれば、諸君はもう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。
目に入ってくるものがスミレだとわかると、花の形も色も見るのをやめてしまう。
モネはそうした人間の自然な認識を混乱させるため、どんなに「物と人を等しく扱う」が悪徳だと非難されたとしても、「ゾラの肖像画」の中のゾラを静物的に描いたと考えてもいいだろう。
そして、そのことが理解できてくると、「美を求める心」の最初の呼びかけが、すっと理解できるようになる。
若い人達からよく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難しくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるにはどういう勉強をしたらいいのか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は何も考えずにたくさん見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。
極端に言えば、絵や音楽を、解るとか解らないとかいうのが、もう間違っているのです。絵は、眼で見て楽しむものだ。音楽は、耳で聴いて感動するものだ。頭で解るとか解らないとか言うべき筋のものではありますまい。まず、何を措いても見ることです。聞くことです。
「何を措いても見ることです。」
これは小林秀雄の言葉だが、エドゥアール・マネの絵画が私たちに訴え続けていることでもある。
「理解」はその後からゆっくりとやってくる。