日本の歴史から見えてくる日本的なもの

日本の歴史に関して、全体を見直してみると、大まかな塊があることがわかってくる。
(1)無文字文化:縄文、弥生、古墳時代。
(2)仏教の伝来と国家の統一:飛鳥、奈良、平安。(538-1191 : 約650年)
(3)武家の台頭と禅宗の移入:鎌倉、室町。(1192-1573 : 約400年)
(4)武士と町人の時代;織豊、江戸。(1580-1867 : 約300年)
(5)西欧思想と近代文化:明治、大正、昭和、平成、令和。(1868-2022 : 約150年)

このように見直すだけで、気づくことがある。
1.仏教が伝来し、中国大陸からもたらされた文字を応用して日本語の書記言語を作るまで、日本には基本的に文字がなかったこと。

2.あまり意識されないことだが、飛鳥時代から江戸時代までの約1300年の間、漢詩の文化が継続し、和の文化と並立していた。そうした状況は、ヨーロッパにおいて、ラテン語と各国語(フランス語、イタリア語、ドイツ語等)が並立していた文化の様相と類似している。

3.明治維新から現在までの間には、まだ150年程度しか経っていない。中国大陸の文化的影響の長さと比較すると、西洋文化が移入されてからの時間は驚くほど短い。

こんなことを頭に置きながら、それぞれの文化の段階で、現在の私たちと関係ありそうなことを探ってみよう。

(1)無文字文化の時代

縄文文化と弥生文化は対照的な特色を持っているが、残された土器や土偶を見ると、一方が派手で華やか、他方が静謐で穏やかであることがわかる。

こうした二つの美の様相は、その後の日本文化において、例えば、平安朝の宮廷文化と禅宗の簡素な美のように、時代や様式によって様々な現れ方をしながら継続している。

(2)仏教伝来・国家の統一と王朝文化の開花

6世紀に仏教が日本にもたらされて以来、7世紀の大化の改新(645)や8世紀の東大寺大仏の建立(753)に象徴されるように、仏教による国家の統一が図られた。

それと同時に、日本語を記述するために中国伝来の文字を用いるという、日本文化にとって決定的な重要性を持つ作業が行われた。
その際、日本語の音声に表意文字である漢字を当てはめるという、独特な方法がとられた。
その結果は現在にまで続き、一つの漢字に訓読みと音読みがあるという、二重性が継続している。

国家の統一と文字言語の導入は、『日本書紀』(720)を見るとよくわかる。
そこでは、天地生成から神々の登場を経て天皇家へと繋がる「歴史」が語られ、初代天皇・神武天皇から始まる皇室の正当性が図られた。
また、用いられた文字は漢字だったが、100以上の和歌には万葉仮名が用いられた。

日本書紀 9世紀 現存最古写本

漢字と日本語を融合させる努力と並行して、日本古来の神々と仏教とを融合させる神仏習合も行われ、土着の信仰を持つ人々が仏教を受け入れる素地が醸成された。

その後、神道と仏教を分離させる試みも行われたことがあるが、現在でも私たちは、「神様、仏様」と唱えたり、お寺にも神社にも区別なくお参りに行き、手を合わせるなど、神仏が習合したメンタリティを持ち合わせている。
そうした柔軟さはキリスト教にまで及び、宗教に関係なく、キリスト像の前でも手を合わせ、結婚式を行うことさえある。

その理由は、仏教の導入後、土着の信仰と融合して人々に受け入れられた時に日本人が求めたものが、死後の極楽ではなく、現世利益を中心にしていたことにあるのではないかと考えられる。
望みはこの世が平和で、幸せに生きられること。加持祈祷で病気の治癒を、雨乞いで作物の豊作を願った。

現在でも、人々が願うことは変わらない。神様でも仏様でもいいので、開運、家内安全、病気平癒、受験合格などの願いを叶えてくれればいい。
死後に楽園に行くよりも、この世で幸せに生きたい。
こうした現世主義は、仏教が導入されて以来、日本の宗教観の中心を占めてきたと考えてもいいだろう。

それと同時に、日本人の心の底にあるのは、「水に流す」という感受性ではないかと思われる。
ヨーロッパ的な思考では、あるものが主体となって行為をし、結果を作り出す。主体が動作をすると何かができるという、「主語+他動詞」の発想が基本としてある。
その典型がキリスト教の天地創造。神が「光あれ」と言うと、光が現れる。

それに対して、『古事記』は、「天地あめつちはじめておこりしとき」から始まる。創造主がいるわけではなく、天と地はひとりでに出来上がる。
そして、その後、次々に神々が誕生しては姿を消していく。
イザナキ神とイザナミ神が登場して、男女の交わりから国土が生まれる前まで、全ては自然に発生し、水が流れるように自然に移り変わっていく。

そうしたメンタリティは、日本語にも反映し、私たちは他動詞表現よりも、自動詞表現を好む傾向にある。
例えば、「風が吹いてドアが開いた」(自動詞)は自然だが、「風がドアを開けた」(他動詞)と言うと、不自然に感じる。
主語と他動詞表現だと、行為の責任は主語に及ぶ。それに対して、自動詞表現であれば、出来事は自然に起こるので、責任問題は発生しない。
そこで、何か起こっても「水に流す」ことができるし、その方が争いが少なくてすむ。

そのように考えると、一人の神が主体的に私たちの願いを実現するのではなく、一応祈りはするが、何でもいいので願いが叶えばいいという思考と共通しているのかもしれない。

こうした穏やかな思考が、「和」の根底にあると考えることもできるだろう。
平安時代には、漢詩に対して日本の歌が「和歌」と意識され、10世紀初めには「古今和歌集」が編集される。
11世紀には、和歌的な感受性を散文で表現した『枕草子』や『源氏物語』が誕生する。
大陸の絵画の影響を受けながらも、穏やかな表現をした大和絵も成立した。

11世紀の半ばに建立された平等院鳳凰堂は、仏教伝来以来、大陸文化を日本的に受容しながら徐々に出来上がった「和の文化」を象徴していると見なしてもいいだろう。

(3)武家の台頭と禅の移入

平安時代の末期から、末法思想が広がり、平家と源氏の争いの中で、政治権力は京都の貴族から武士の手へと移っていく。
その時期、大陸から禅宗が伝わり、「和の文化」に「無」の概念が付け加えらることになる。

『方丈記』(1216)から『徒然草』(1331)に至る隠者文学、山水画、能、枯山水など、この時期の文化には、平安時代の貴族文化の華やかさとは対照的な、簡潔で質素な表現が多く見られた。
その点では、縄文と弥生の対照と比較しうるかもしれない。

私たちが現在でも、円覚寺舎利殿や竜安寺の石庭を美しいと感じるのは、この時代に出来上がった感受性を引き継いでいるからに他ならない。

カラカラに乾いた石庭に水の流れを見出し、生命の根源を感じるは、禅の「無」の中に、「水に流す」和的な感受性が流れ込んだからかもしれない。

鎌倉、室町時代の文化は、織田信長や豊臣秀吉を経由して、徳川の時代へと続いていく。その意味では武家文化が次の時代にも継承されることになる。

(4)武士と町人の時代

17世紀初頭から始まる江戸時代は、平安の王朝文化と武家の文化が融合したものだが、その担い手になったのは主に町人だった。

江戸幕府は、理性によって情をコントロールし、下の者は上の者を敬うことが重要と説く朱子学に基づき、士農工商という身分制度を定め、身分間の上下関係を固定化した
その一方で、商業が発展し、町人が経済的な力を蓄えたために、江戸や大阪の町人も文化的に大きな役割を果たすことになった。
その二重性は、「建前」を前面に押し出す武士階級と「本音」を吐露する市民階級に対応すると考えることもできる。

学問の分野では、中国大陸から移入された仏教や儒教(朱子学)の思想は、理屈ばかりの堅苦しい「漢意(からごころ)」だと見なし、日本人本来の心は、人間の自然な感情を重視する「真心(まごころ)」だとする思想が生み出された。
そうした中で、本居宣長は、『源氏物語』の中に「もののあわれ」を見出し、女性的で繊細な「たをやめぶり」を日本的感受性の本質と主張した。
こうした思想は、仏教伝来以来日本人の憧れであり続けた大陸文化に対して、「日本的なもの」を見出だそうとするものであり、「国学」と呼ばれる。

絵画の分野では、公式の画家集団である狩野派は時代を経るに従ってマンネリ化していったが、その一方で、関西の町人の側では、平安王朝から続く絵画の伝統を市民的な感覚で表現しなおす試みが行われた。
その代表が、尾形光琳、円山応挙、酒井抱一など琳派の画家、新しく中国から渡来した「唐画」の影響を受けた池大雅や与謝野蕪村、ヨーロッパ絵画の自然主義的な画法を取り入れた円山応挙、独自の画風を切り開いた伊藤若冲など。

関西において、より庶民的な享楽主義を代表するのが、『好色一代女』で有名な井原西鶴の浮世草子や、『曽根崎心中』で知られる近松門左衛門の浄瑠璃など。
「建前」をかいくぐり、現世を「本音」で生きる庶民たちの姿が、生き生きと描かれている。

幕府の所在地である江戸に目を向けると、享楽的な側面を典型的に示すものとして、浮世絵がある。
浮世絵は、貴族や武家の公式画家たちによって描かれた風俗画から派生し、主に江戸の町人を顧客として作成された版画である。(版画であることは、安価で入手可能なことを意味する。)
画題の中心は、二大悪所と見なされた遊郭と芝居小屋。美女や役者を描いた版画は、”憂き世”であるこの世とは別世界の享楽を思わせ、”浮世”を感じさせたことだろう。

さらに進んで、かなりきわどい猥褻な春画も浮世絵の題材の一つだった。
江戸時代にしばしば行われた風俗の取り締まりで、浮世絵師たちが摘発されたことは、浮世絵がどのような性質のものだったかを端的に示している。

こうした享楽主義とは別の精神性を持ち、武士の建前社会から逃れる道を選択することもあった。
それが、「風雅」や「軽み」を美学とした、松尾芭蕉の俳句の世界である。

芭蕉は、滑稽な表現であった俳諧に、鎌倉・室町時代の隠者文学の精神性を取り入れる。
そして、浮世から離れた自然の中に「岩にしみ入る蝉の声」を聞き、「旅に病んで/夢は枯野を/かけ廻る」ところまで、現世を超脱した。

こうした精神性も、実は浮世絵などの享楽性と同様、幕府によって押しつけられた「建前」の流通する江戸社会に対して、アンチとして提示された「本音」であると考えることもできる。憂き世に生きざるを得ないが、本当は全てを捨て、身軽な旅に出てしまいたいのだ、と。

江戸時代の最後に至り、身分の上下を固定化する朱子学が、幕府を倒す方便として作用するという、皮肉なことが起こる。
ペリーの黒船の来航などを通して欧米から開国を迫られた際、反幕府側は、最高の権威として皇室を旗印にする。つまり、武家である徳川家よりも天皇家が上位にあるとして、「尊皇」を主張する。それは、朱子学の趣旨から言えば、当然のことになる。
その上で、外国(夷)勢力を排除する「攘夷」を結び付け、「倒幕」へと向かう動きになった。

その結果、徳川幕府が倒されると開国が一気に進み、1300年以上も続いてきた中国大陸の文化に変わり、西欧の文化が一気に日本に流れ込むことになる。

(5)西欧思想と近代文化

1868年、明治維新によって、徳川家による武家政治が終わり、天皇を頂点とする君主政へと政治形態が変化する。

この改革は、大化の改新(645年)と同じほどのインパクトを持つと言われる。その理由は、飛鳥時代の変革において中国大陸由来の仏教と官僚制度が導入されたのと同様に、明治維新においては欧米の文化と政治体制が移入されたことにある。

ただし、インパクトの大きさに関して、一つ大きな違いがある。それは言語の問題。
飛鳥時代には日本語には書記言語がなく、大陸の文字(漢字)が日本語の書記言語として用いられ、さらに、漢字から平仮名が作られた。
それに対して、明治維新時には書記言語が存在していたために、英語が日本語の書記表現に影響を与えることはなかった。一時、英語を日本の公用語とすることも提案されたが、採用されることはなかった。

さて、明治維新を経て、日本が追いつくべきは、中国大陸ではなく、アメリカやヨーロッパの列強の国家になった。それ以降、日本は、猛烈な勢いで、西欧化を図る。
そこには、日本人の心の底に横たわる「水に流す」という精神性が関係しているのではなかと思われる。
幕府を倒すために「尊皇」と「攘夷」を結び付け、外国勢力の排斥を訴えたにもかかわらず、一度流れが変われば、過去は水に流して、新しい流れに従う。

明治政府は、列強に追いつくために富国強兵政策を取り、明治10年代には鹿鳴館時代と呼ばれるほど西洋の文化が流行し、人々の服装も着物から洋服に変わる。
その典型が天皇の盛装で、明治5年に、国家の行事の際に、和服ではなく、モーニングの着用が定められた。
1853年のペリー来航からわずか20年しか経っていない中で、天皇の正装が洋服と定められたことは、過去を水に流して、現在の状況に順応する日本的な心性によると考えてもいいだろう。

同じことは、第2次世界大戦の敗戦後に起こった。
アメリカ軍によって200以上の市街地が空爆され、970万人以上の人々が被災し、最後に広島と長崎に原爆が投下された。
1945(昭和20)年、天皇による敗戦のラジオ放送に涙した国民は、様々な感情を抱きながらも、過去を水に流したかのように進駐軍を受けいれ、アメリカの文化に対する憧れを抱くようになる。
そして、明治政府が列強の後を追って軍事化を押し進め、日ロ戦争、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだのと同じスピードで、戦後の日本は「経済」戦争に邁進した。

その成果は、1964(昭和39)年の東京オリンピックから1980年代まで続いた高度経済成長という形で結実し、社会学者エズラ・ヴォーゲルは、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979)の中で、日本が世界でトップの経済大国であるという認識を示すほどだった。

このように、明治維新からバブル経済崩壊後の1990年代初頭まで、日本は常に欧米をモデルにし、欧米に追いつくことを目標にしてきたといってもいい。
そして、その際に受け入れた文明の基礎にあるのは、19世紀後半の欧米社会を支配していた実証主義とハーバート・スペンサー的な「適者生存(進化論)」の精神だった。進化の過程で生き残るものは、環境に適応したもの。適応しないものは選択されず、取り残され、消え去っていく。
そうした精神性が導入され、最初は軍国主義を押し進め、敗戦後は高度経済成長に突き進んだのではないか。

しかし、1990年代の初頭にいわゆるバブル経済が破綻して以降、日本社会は進むべき方向を見失っているのかもしれない。富国強兵でも、経済発展でもない、第三の道は今のところ見えてこない。
明治維新から約150年を経て、今の日本は、無理をせず、流れに身を任せ、現世利益で自足する状況にあるのだろう。
その姿は、「適者生存」精神をカッコに入れ、日本的仏教の「現世主義」精神が表面化している状況かもしれない。多くの人々が願うことは、家内安全や健康や受験合格など身近なこと。死後のことは考えず、今をつつがなく幸せに生きたい。それ以上の大きなことは望まない。

このように明治維新からの流れを振り返ってみるとき、日本の社会は表面的にはかなり西欧化したように見えるが、精神性や文化の面で、それをどの程度まで受容してきたのかよくわからない。
約150年という時の流れは、仏教伝来から『古事記』や『日本書紀』が書かれるまでの時間に匹敵する。21世紀の日本文化は、西欧の文化をそれと同じレベルで受け入れ、伝統的な文化と融合させ、新しい何かを生み出したのだろうか?


政治的な出来事を年代順に並べるのではなく、精神性を意識しながら日本の歴史を振り返ってみた。
そこからは、次のような要素が見えてきた。
華やかな美(縄文)と簡素な美(弥生)、現世主義、「水に流す」精神、「無」に生命を感じる心、本音と建前、平安の貴族文化と江戸の市民文化、明治維新以降の「適者生存(進化論)」の精神。
日本語に関しては、漢字と平仮名を使い分ける特殊性、自動詞表現を好む気質。

こうした要素から見えてくる感受性や思考の在り方は、決して一つの時代に特定されるものというわけではなく、ある時にはある要素が強く表れ、別の時には別の思考が強くなるといった具合に、全てが重なり合っている。

そして、それらは、私たち一人一人の中でも、濃淡の違いはあっても、感じられる。
つまり、歴史を知ることは、自分を知ることにもつながる。
そうした視点で、日本の過去を振り返ると、まだまだ様々な発見があるに違いない。

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