
石川啄木には、故郷である渋民村(しぶたみむら)を歌った美しい歌がいくつもある。
ふるさとの 山に向かひて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな
故郷を遠く離れ、子ども時代を過ごした故郷を思えば、懐かしさが湧き上がってくる。
かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川
思い出の山、思い出の川は美しく、懐かしい。
目の前にあり、手を伸ばせばいつでも届くものよりも、時間的にも空間的にも距離があり、 すぐに手に触れられないもの、見ることができないものに憧れる。
そのように考えると、望郷の念を作り出すのは、「思い出」だということに気づく。
実際、夢を描いて故郷から旅立ち、都会暮らしの中で夢破れ、身も心も傷ついて戻った故郷は、思い出の中の故郷とは違っている。
幼い頃人からもてはやされていればいるほど、戻って来た時の屈辱感は大きくなるだろう。人がどうこうよりも、自分自身の視線が厳しい。
そのかみの 神童の名の かなしさよ ふるさとに来て 泣くはそのこと
そうなると、懐かしさは消え去ってしまい、心がどんよりと重くなる。
ふるさとの 土をわが踏めば 何がなしに 足軽(かろ)くなり 心重(おも)れり
現実にどっぷり漬かってしまうと、何かしら問題は起こるし、いいことばかりとはいかない。
再出発を期してもう一度故郷を離れる時には、実際にはどうあろうと、追われるような気分になることもあるだろう。
石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出(い)でしかなしみ 消ゆる時なし
現実の故郷は、思い出の中の故郷とは違っている。

中原中也も、故郷に戻ったとき、「都会で何をしてきたのか」と、詰問されたような気分になったらしい。「帰郷」の第3連には、次のような詩句が綴られている。
ああ おまえはなにをして来たのだと
吹き来る風が私に云う
しかし、一端故郷を離れると、遠くの町で、故郷の面影を探してしまう。
啄木は、懐かしい訛りを耳にしたくて、故郷の人々がやって来る汽車の駅へと足を向ける。
ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
現実に接するとどんなに辛くなることがあるとしても、思い出の中の故郷は懐かしい。
その秘密は「思い出」にある。

室生犀星は、「小景異情(その二)」の中で、その秘密を明かしている。
ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして悲しく うたふもの
今ここにないものを思うことは、決して手の届かないものに憧れることであり、到達できない現実は、「悲しみ」を掻き立てる。
逆に言えば、ロマンチックなノスタルジーを生み出すためには、今ここにないものが必要となる。
その不在の保証となるのが、「思い出」なのだ。
だから、室生犀星は、こう続ける。
よしや
うらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰るところに あるまじや
故郷に帰ったら、遠くで何をしてきたのかと現実に引き戻され、再び出て行くときには石を持って追われるかもしれない。
「思い出」の中であれば、人はいつまでもまどろんでいられる。淡い悲しみが人を優しく包み込み、繭のように外の世界から守ってくれる。
「ふるさとの山は ありがたきかな」と心の中で繰り返していると、しばしの間時間を忘れ、思い出の故郷に身を置くことができる。
啄木も中也も犀星も、そんな思い出の力をよくわかっていた。
だからこそ、三人とも、それぞれに抒情的な歌を歌い、読者の心に思い出の力を響かせるのだ。