ランボー マラルメ 詩句の仕組み

フランス文学において言葉の音楽性が重視されるが、とりわけ詩に関しては、意味と同等の重要性を音が持つ。

そうした中でも、19世紀後半の二人の詩人ランボーとマラルメの詩句は音楽的に大変に美しく、意味を理解するのはしばしば非常に困難だが、それにもかかわらず高く評価されている。
というか、最初は理解が難しくても、音楽的に美しいおかげで、なんとか意味の深みにまで到達したいという気持ちにさせられる、と言ってもいいかもしれない。

当たり前のことだが、翻訳では詩句の音楽性を感じることができない。翻訳された詩の最も大きな問題はそこにある。詩の理解にはフランス語で読む必要があるのはそのため。

ただし、一口に音楽性と言っても、ランボーとマラルメの音楽はかなり違っている。ランボーの曲はすぱっとした直線を感じさせるが、マラルメの曲は柔らかく丸みを感じさせる。

その点を前提にした上で、詩句の意味的な理解を考えてみると、二人の詩句の難しさが別のところから来ることがわかってくる。
ランボーの詩句では語彙の不整合が、マラルメの詩句ではそれに加えて構文の破壊が、意味の伝達を妨げる。

詩とは何かという問い

フランスでは19世紀半ばまで、詩は韻文で書かれるものであり、その規則も明確に定められていると考えられていた。
その規則では、一行の音節数と、韻(行の最後の母音を二つ以上の行で重ねる)を踏むこと。その二点を中心としていた。
また、一定の数の音節の塊が、意味の塊と対応していることも、19世紀の初めまではきっちりとしていた。

少し分かりずらいかもしれないので、日本の和歌で考えてみよう。
音節数は、5/7/5といった拍にあたる。
韻は踏まない。
拍の塊(5/7)と意味が対応する。

願わくば(5)/花の下にて(7)/春死なむ(5)/その如月(ささらぎ)の(7)/望月のころ(7)

5拍、7拍といった区切りと、意味が対応していることがわかる。

日本語を母語としていると、このリズムは自然に身に付いている。
明治維新以降、外国の詩が知られるようになり、日本でも新しい詩を作ろうという運動が起こったときも、5/7のリズムが採用された。(新体詩)
そして、その影響は後の時代まで続くことになる。
例えば、藤村の「初恋」。

まだあげ初めし(7)/前髪の(5)
林檎のもとに(7)/見えしとき(5)
前にさしたる(7)/花櫛の(5)
花ある君と(7)/思ひけり(5)

以前こうしたことを教えていて、俳句を作ったら帰ってもいいと言った途端に、俳句なんか作れないと叫びながら、最初に帰っていった一人の’作品’。
「ああいやだ 俳句なんて 作れない」
日本語母語者にとって、5/7のリズムはこれほど体の中に染みついている。

フランス語母語者にとっても、かつては同じような言語感覚が身に付いていたと思われる。
リズム感の基本は、偶数の音節数。6音節とか8音節の塊と意味が対応する。

J’étais seul près des flots (6) / par une nuit d’étoiles (6).
私は一人、波の近くにいた。/星の夜空の中。
Pas un nuage aux cieux (6) / sur les mers pas de voiles (6).
空には雲一つない/海に帆船はいない。
Victor Hugo, « Extase » ヴィクトル・ユゴー「恍惚」

一行は12音節、二つの行の最後の母音は« oi »で、韻を踏んでいる。
一行は6/6のリズムで区切れ、音の塊と意味が対応している。

6/6のリズムに関しては、意図的に少しだけずらすこともある。
その目的は、リズムに変化を付け、ずれた部分を作り出すことで、その部分の語句の意味にスポットライトを当てること。

L’empereur se tourna (6) // vers Dieu (2) ; l’homme de gloire (4)
皇帝は振り返った、神の方に。栄光の男は
Trembla (3), Napoléon (3) // comprit qu’il expiait…(6)
体を震わせた。ナポレオンは/報いを受けていることを理解した。
Victor Hugo, « L’Expiation » ヴィクトル・ユゴー「贖罪」

L’empereur se tourna vers Dieuxと意味は連続するが、6/6のリズムからすると、vers Dieuは後半に置かれている。
l’homme de gloireは次の行のtremblaへと続き、一行の中のリズムの塊と意味が対応するという規則から完全に外れている。
Napoléonは前の6のリズムに入るが、意味的には後ろの6とつながる。

従って、6/6/6/6の形式は守りながら、意味の塊で見ると、8/7/9。
そのリズム感のズレによって、定型のリズムに変化が付けられる。そしてそれと同時に、vers Dieu(神の方に)、trembla(震えた)、Napoléonという言葉が強調される。

定型を守りながら、その内部で多様な変化を付け加えるのに最も成功したのは、19世紀前半の詩人ヴィクトル・ユゴーだった。
彼の詩句の扱いの巧みさは、天才としかいいようがない。

ところで、19世紀前半にこうした詩句の内部における様々な試みが行われるようになると、「詩とは何か?」という問いかけが行われることになった。
詩法の規則を守ってさえいれば、それで詩と言えるのか、という問いである。

例えば、上で見た「贖罪」の詩句を行分けせずに書けば、散文と変わらない。

L’empereur se tourna vers Dieu : l’homme de gloire trembla, Napoléon comprit qu’il expiait…

この文を詩と見なさない理由が行分けをしないことだとしたら、詩とは何か?という問いは正当なものと言える。

しかも、19世紀前半には、韻文ではない詩、つまり散文で詩を書く試みもなされつつあった。
1850年代後半になると、シャルル・ボードレールが散文詩というジャンルを主張し始める。

日本では、和歌、俳句、詩が別のジャンルと見なされることが多く、詩においても韻文がなく、定型詩と非定形詩の区別もあまり意識されない。そのために、フランスにおける韻文詩の形式の強固さを、日本の読者がはっきりと実感することは難しいかもしれない。

他方、19世紀のフランスでは、詩が何を意味するのかを考える際に、表現の方法が大きな問題となった。
同じ内容であれば韻文でも散文でも詩と言えるのかという問いは、異なる表現が同じ意味を生み出しうるのか、という問いでもある。
どのように言うかで、受ける印象は変わる。そうした経験は誰もが持っているだろう。としたら、詩においても、表現法で意味は変わるはず。

ランボーやマラルメは、詩とは何かという問いかけの中で、詩法によって定めされた規則をはずれ、詩句そのものの変革を試みたのだった。
そして、そうして書かれた彼らの詩句が、一般的な意味の理解を妨げる要因となっているのだと考えることができる。

語彙の選択と統合

私たちが言葉を話したり書いたりするときに、意識しないままにしている作業がある。
一つは語彙の「選択」。どの言葉を使うのか、意味や音を基準にし、適切な言葉を選んでいる。
もう一つは「統合」。選んだ言葉を文の構造の規則に従い、順番に並べていく。

「統合」に関して、日本語では、語順よりも、「てにをは」が重要な役割を果たす。単語に助詞を付けることで、その単語が主語になったり、目的語になったりする。つまり、語順ではなく、助詞によって、私「が」花「を」見るのか、私「を」花「が」見るのか、意味が違ってくる。

フランス語では、最初の統合として、主語+動詞があり、この塊が核となり、他動詞の場合には後ろに目的語が続く。
語順に関しては、基本的に言えば、前に来る要素は話題を提示し、後ろになるに従ってポイントになる要素が置かれる。
J’ai vu / cette fleur / hier. 私が見たのは、その花。見たのは、昨日。
Hier, / j’ai vu / cette fleur. 昨日、私が見たのは、その花。

選択に関しては、「見る」ではなく、「眺める」「観察する」「折る」などを動詞の系列を変えることも、「花」ではなく、「空」「太陽」等々、名詞系列で選択できる語彙も数多くある。

言葉を使う時、選択と統合を瞬時に行うのだが、その際、私たちは、文章が不自然にならないように自動的にできてしまう習慣がついている。
あえて不自然な文章を作ろうとすると、けっこう難しい。今、例文を考えているのだが、すぐに浮かんでこない。無理をしないとなかなかナンセンスな文が作れない。それほど、自然な意味の文を作ることが、私たちの中で「自動化」されている。

ランボーとマラルメが実践したことは、まず第1に、言語システムの自動化を停止することだった。
自動的に生み出される言葉の連なりは、既存の言葉の意味に基づいて選択と組み立てが行われている。その動きに従う限り、既存の意味しか生み出すことができない。
新しい意味を生み出すためには、言語の自動化を止めることが必要になる。

ランボー:「選択」の系列を混乱させる

ランボーが手をつけたのは、「選択」の系列だった。
彼の詩句では、「統合」つまり構文は単純で、明快なことが多い。
その一方で、意味と意味の繋がりが唐突で、びっくりさせられたり、意味不明すぎて面食らわせられることがある。

まず、語彙の選択が普通で、単語と単語の意味のつながりがほぼ自然な場合を見ておこう。

Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
ぼくは去ろうとしていた、破れたポケットに手を突っ込んで。
Mon paletot aussi devenait idéal ;
ぼくのジャケットも、理想的になっていた。
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
ぼくは空の下を歩いていた。詩の女神よ! ぼくはお前の召使いだった!
Oh ! là là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !
あーあ! なんてたくさんの輝かしい愛を、ぼくは夢見たんだろう!
« Ma Bohême » (「ぼくの放浪」)

この詩句は、単語さえ知っていれば、内容をほぼ理解することができる。

構文的には、主語+動詞が基本となり、最後の詩句で、韻のために、主語・動詞の j’ai rêvéesと、目的語のque d’amours が倒置されているが、それほど理解が難しくはない。

単語の選択によって意味的に多少わかりにくいのは、二行目で、「ジャケットが理想的」という部分かもしれない。
日本語の訳を見ると、一つは「目もあてられぬありさま」(宇佐見斉)、もう一つは「見事なくらい摺り切れていた」(中地義和)となっている。要するに、「破れたポケット」と繋がりで、「理想的」という形容詞を、ひどい状態と解釈したことになる。
こうした解釈は、ジャケットと理想的という言葉の選択に際して、意味のレベルのズレがあることを示している。だから、二人の訳者はあえて「意訳」をしたのだろう。

逆に考えると、「破れたポケットに手を突っ込み」とか、「空の下を歩く」とかでは、意味のズレはなく、誰にとっても理解はスムーズである。
従って、いわゆる「意訳」をする余地はない。

少し余談になるが、訳語の選択は常に非常に難しい。
例えば、paletot。上の日本語では「ジャケット」としておいたが、「外套」(宇佐見)や「半コート」(中地)を選ぶこともできる。
翻訳の読者は、選択された言葉によってイメージを膨らませる。ランボーはどんな服で彷徨っていたのか、それによって詩の理解が変わることもある。

次に、ランボーがランボーになってからの詩句を検討してみよう。
つまり、「言葉の錬金術」などと言い出し、選択する言葉と言葉の自然なつながりを乱し、そのぶつかりあいや融合によって、新しい意味を生み出そうとした詩句。

Quelqu’une des voix
いくつかの声の中の一つ
Toujours angélique
常に天使的
— Il s’agit de moi —
— ぼくのことだ —
Vertement s’explique :
生硬に自らを説明する。
« Âge d’or » 「黄金時代」
https://bohemegalante.com/2020/12/04/rimbaud-age-dor-musicalite/

構文としては、主語+動詞(Quelqu’une des voix s’explique)であり、そこにil s’git de moi(ぼくのこと)という挿入句がはめ込まれている。

もう少し進んで見ていくと、quelqu’uneにはtoujours angéliqueという形容詞が、s’expliqueにはvertementという副詞が付く。
構文的に考えると、この詩句は散文とほぼ変わらず、理解を妨げるものはない。

それに対して、意味のレベルでは、理解が難しい。というか、何が書いてあるのかは分かるのだが、何を言いたいのかよくわからない。
「いくつかの声の内で、常に天使のような声」とは何を指すのか? それが「生硬に自らを説明する」、「きびしい見解を表明する」(宇佐見訳)、あるいは「きびしい調子で意見する」(中地訳)、とはどういうことか?
そして、それが「ぼくのこと」なのはなぜか?

言葉の意味としては理解できるのだが、この詩句から何を読み取ることができるのかということになると、漠然としか考えしか浮かんでこない。あるいは、非常に恣意的な解釈になりかねない。

そこにランボーの難しさがあるし、面白さもある。
例えば、引用した詩節に続く詩節には、「枝分かれする」という言葉があるので、そこから緑色(vert)という言葉を含むvertementとの関連が考えられる。
その言葉の意味を、「きびしく」とするだけではなく、「緑的に」と考え、s’explique(自らを説明する)がどのようになされるのか考えるなどすることができる。

こうすることで、自動化に従って作られ、自動化に基づいて消費される文章や詩句の流れを留め、言葉それぞれの意味を見直し、新しい意味を見出す可能性ができあがる。

同じことは韻文だけではなく、散文でも行われる。

D’un gradin d’or, – parmi les cordons de soie, les gazes grises, les velours verts et les disques de cristal qui noircissent comme du bronze au soleil, – je vois la digitale s’ouvrir sur un tapis de filigranes d’argent, d’yeux et de chevelures.
金の階段から、—— 回りには、絹の綱、灰色の薄布、緑色のビロード、水晶の円盤。それらは、陽に当たると、青銅のように黒ずんでいく。—— ジギタリスが花開くのが見える、銀と眼と髪の透かし模様の絨毯の上に。
« Fleurs » 「花々」
https://bohemegalante.com/2021/04/19/rimbaud-fleurs-poetique/

フランス語で読んでも、日本語にしてみても、正直よくわからない。

構文的には、主語+動詞(je vois)に目的語(la digitale)が続く。(SVO)

どこから見えるのかが、d’un gradin d’or(金の階段から)で示され、ジギタリスがどうなるのかはs’ouvire(開く)という動詞の原形で告げられる。
つまり、D’un gradin d’or, je vois la digitale s’ouvrir. (金の階段から、ジギタリスが花開のが見える)
後は、金の階段のある場所がparmi以下で、ジギタリスの開くの場所がsur 以下で描写される。

問題は、それらの場所を描くために選択された単語の繋がりが自然ではないこと。
絹の網、灰色の薄布、緑色のビロード、水晶の円盤。しかも、水晶の円盤は、太陽の光に当たり青銅のように黒ずんでいく。
一つ一つのものはイメージできたとしても、それらが横に並べらる時、なんらかの情景を思い描くことがなかなかできない。

ジギタリスが花開く場所に関して、透かし模様の絨毯を織る糸は、銀と目と髪の毛。どんな絨毯なのか想像もつかない。
文の構造も使われている単語も明晰で、字義的な意味は理解できる。しかし、描かれた情景の像が結ばない。

このように見てくると、ランボーの詩を理解する難しさが、単語の選択軸にあることがわかってくる。選択された単語それぞれは理解できるのだが、それらが統合されると、自動化された連なりとはあまりに違うので、何を言いたいのかわからない。

マラルメ :「統合」の系列も混乱させる

マラルメの詩においては、単語の選択と並んで、単語と単語を連結する規則の自動性を破壊する動きが見られる。
主語+動詞を中心とした構文が明確でないどころか、存在しないこともある。

日本語でも、ただ単語が並んでいるだけで、助詞がないという言葉の塊を考えると、同じことになる。
例えば、日本語、考える、単語、並ぶ、だけ、助詞、ない、言葉、塊、考える。

マラルメは、私たちの中にある言語活動の自動化作用を混乱させ、意味が伝われば役目を終える日常的な言語行為をストップさせる。そして、私たちが言葉そのものに意識を集中し、新しい意義を見出すように導びこうとした。

「乾杯(Salut)」の最初の詩句は、「統合」の仕組みを示す印がない文の典型といえる。

Rien, cette écume, vierge vers
無、この泡、手つかずの詩句
À ne désigner que la coupe ;
指し示すのは、杯だけ。

rien, écume, versという3つの単語が並列されているだけ。
それらの単語は、文法的には同格と見なされることはできるかもしれない。しかし、たとえ同格であり、3つが互いの説明になっていると言われても、はっきりとした意味はわからない。
つまり、「統合」の仕方(=構文)が示されず、単語が羅列された状態でしかない。

2行目では、前置詞 àが現れ、前の名詞を説明する働きをする文法的な機能を持つ言葉が初めて現れる。
ただし、今度は「選択」の系列に問題があり、「詩句の示すものが杯だけ」と言われても、単語の「選択」の系列に問題があるために、「詩句」と「杯」の意味的な関係が不自然なものになっている。
従って、何の情報もなくこの2行を読んだ場合、意味を理解することは難しい。

「マラルメ夫人の扇(Éventail de Madame Mallarmé)」の第2詩節では、統合を示す文法的な印が不明な例が見られる。

Aile tout bas la courrière
翼(を与えよ)、小さな声で、文を運ぶ女(に)
Cet éventail si c’est lui
この扇は、もしそれがまさに
Le même par qui derrière
同じものなら、それによって 
Toi quelque miroir a lui
お前の後ろで なんらかの鏡が輝いた

最初の単語 aile をどのように理解すればいいのだろうか。

続くtout bas(小さな声で)は副詞であり、la courrière(手紙を運ぶ女性)は名詞。
その「統合」から考えると、aileは動詞ailer(翼を与える)の命令形と見なされる。
実際、アルチュール・ランボーの「酔いどれ船」に、ailerという動詞が使われた例がある。
Et d’ineffables vents m’ont ailé par instants. 
心地よい風が、時々、ぼくに翼をつけてくれた。
従って、この詩句は、命令形の動詞、副詞、目的語という構文と見なすことができる。

ところが、フランスで出版されている解説でも、多くの日本語訳でも、aileは名詞と見なされている。
その後、副詞(tout bas)と名詞(la courrière)が続くが、その接続は構文として成立しない。そこで、非文法的な文、あるいは文法に問題があると見なされる。

一つの日本語訳を見てみよう。

翼は 声をひそめて 伝令の
この扇こそは もし それが
同じものなら 君の 姿の
後ろに何か 鏡は 煌(きら)めき  (「扇 マラルメ夫人の」渡辺守章訳)

この訳では、「翼」が主語になり、「声をひそめる」が動詞と理解することができ、それらが「伝令(la courrière)」を説明し、伝令が「扇」の同格となるのだろうか。
あるいは、フランス語の詩句のaileを éventailの同格と見なすとすれば、この訳でも、「翼」は「扇」の同格なのだろうか。
とにかく、フランス語の構文が不明であるために、解釈もかなり踏み込んだものになっている。

この翻訳は一つの例だが、文法的な「統合」を示す印がなく、非文法的と見なされる文は、理解が困難になり、読者は言葉そのものに神経を集中し、なんらかの理解を強いられる。
マラルメの狙いは、まさに、言語活動の自動化を妨げ、一つ一つの言葉に意識を向けさせることに他ならない。

「マラルメ夫人の扇」の第1詩節の詩句では、構文は整合的であるが、ある程度の神経の集中を要求する。

Avec comme pour langage
手にするのは、言語としてであるかのように
Rien qu’un battement aux cieux
空に向かってあおぐことだけ、
Le futur vers se dégage
未来の詩句が発散する
Du logis très précieux
非常に貴重な住まいから

主語+動詞(le futur vers se dégage)が中心となり、avec …とdu logisという副詞句(状況補語)が付いた構文が確認できる。

構文的に複雑化しているのは、avec以下の部分。
まず、「言語としてであるかのように(comme pour langage)」という副詞句が挿入され、その後に、「仰ぐことだけ(rien qu’un battement)」 という、avecの対象となるものが続く。

この複雑さが、単語の「選択」での問題と重なり、理解の難しさにつながる。
手に持つのは何なのか? 最も単純化すれば、avec un battement(打つこと、扇を仰ぐこと)。
それが、「言語としてのようだ」とは、どういう意味なのか。(pour + 無冠詞名詞は、「・・・のように」といった意味であることが多い。)

語彙の選択の系列に関しては、最後の行の、「住まい(logis)」も問題になる。
未来の詩句が発散する「住まい」とは何か?

このように、マラルメの詩句では、「選択」と「統合」の二つの系列で、自動化した言語活動が混乱させられている。
そのために、読者は、理解を諦め、理解不可能として読むのをやめてしまう可能性も多い。フランス人の文学研究者もマラルメは難しいと言う。

他方、困難が大きければ大きいほど読み取る富みも大きいに違いないと考え、マラルメの言葉を通して通常では得られない思考を読み取り、美を感じようと努める読者もいる。

例えば、「マラルメ夫人の扇」では、扇を仰ぐ夫人をイメージし、その扇が作り出す風を詩の言葉だと考える。
彼女がひと仰ぎすると、言葉たちが飛び立つ。
その源には扇を握る夫人の手がある。とすれば、「貴重な住まい」とは、夫人の美しい手を指しているに違いない。
また、ゆらゆらと揺れる扇は、鳥の翼のようにも見え、その羽ばたきから、詩の言葉が放たれる。
その扇を以前すでに見たことがあった。夫人の後ろには鏡があり、美しく光ったのだった。

扇を仰ぐ夫人の姿と詩作とを重ねる読み方は比較的単純ではあるが、そこから扇や鏡に関する思索を続け、マラルメの考える「未来の詩句」とは何か、探っていくことも可能だろう。

マラルメは韻文だけではなく、散文に関しても、選択と統合で故意に混乱を引き起こす作業を行った。
「詩の危機(crise de vers)」の最後に置かれた、「韻文=詩的言語」とは何かを提示する文を読んでみよう。これ全てで一文になっている。

Le vers qui de plusieurs vocables refait un mot total, neuf, étranger à la langue et comme incantatoire, achève cet isolement de la parole : niant, d’un trait souverain, le hasard demeuré aux termes malgré l’artifice de leur retrempe alternée en le sens et la sonorité, et vous cause cette surprise de n’avoir ouï jamais tel fragment ordinaire d’élocution, en même temps que la réminiscence de l’objet nommé baigne dans une neuve atmosphère.

「統合」を知る基本は、主語と動詞の確認になる。
この文では、一つの主語に二つの動詞が付き、それぞれの動詞は直接目的語を伴っている。
Le vers (…) achève cet isolement (…) et vous cause cette surprise (…).
詩句は、孤立を完了し、あなた(読者)に驚きを引き起こす。

この構文の理解を妨げるのは、至るところに付加的な要素が挿入されていること。

主語のversには、qui以下の説明がなされる。
動詞 acheverには、現在分詞niantが付加され、完了するとはどういうことかが具体的に示される。
動詞causerに続く目的語surpriseには、前置詞deに伴われた説明が付けられる。
さらに、en même temps que以下、causerと同時に発生する事態が記される。

こうしたことを頭に置いた上で、前から少しづつ意味を確認していこう。

Le vers qui de plusieurs vocables refait un mot total, neuf, étranger à la langue et comme incantatoire,
詩句は、いくつかの語彙を、一つの言葉にする。(つまり、使われている語句の全体が一つの言葉になる。)その一つの言葉は、全体的で、新しく、一般的な言語とは異質(étranger)で、呪文(incantatoire)のようである。

次に、最初の動詞(achever)と関係する部分。

le vers (…) achève cet isolement de la parole :
詩句は、発話(日常会話の文)の孤立を完了する。

「発話の孤立」の意味はここだけではわからない。
:(「つまり」)以下の文で、その内容が具体的に説明される。

niant, d’un trait souverain, le hasard demeuré aux termes malgré l’artifice de leur retrempe alternée en le sens et la sonorité
堂々とした振る舞いで(d’un trait souverain)、最終段階まで(aux termes)残っていた偶然(le hasard)を否定する。その否定は、複数の語彙(leur=vocables)を、意味と音に交互に浸して鍛えるという技巧にもかかわらず、行われる。

通常の言語使用においては、(詩的言語と同じように)言葉は意味(sens)と音(sonorité)の組み合わせによって形成され、それなりに工夫(artifice)されて行われる。
しかし、そうした時の語彙と語彙の繋がりは「偶然」にすぎない、つまり意図したものではなく、自動化されているために偶然発せられる。

詩句は、そうした日常会話的な文を孤立させ、終わりにする。
そうすることで、詩の言葉は、それまでの言語とは異質の新しいものとなり、通常の言葉というよりも、呪文のように神秘的な力を持つ。

次に、2つ目の動詞(causer)以下の部分を見ていこう。

le vers (…) vous cause cette surprise de n’avoir ouï jamais tel fragment ordinaire d’élocution, en même temps que la réminiscence de l’objet nommé baigne dans une neuve atmosphère
詩句は、あなた(読者)に、そうした話し方のごく普通の断片を、それまで決して耳にしたことがなかったという驚きを引き起こす。それと同時に、名指された対象の想起が、新たな雰囲気の中に浸る。

私たちが言葉を使う時、その言葉はすでにどこかで聞いたり、使ったことがある。詩の中では、そうした既知の言葉が、それまでとは違う新しい装いを帯びることになる。

たぶん多くの読者は、「詩の危機」の最後の一文を見ただけで、マラルメは難しくてわからないと、放り出すかもしれない。フランス語を母語とする読者にとってもそうなのだから、フランス語を外国語として学ぶ読者にとっては、それが当たり前の反応だろう。

そうした場合でも、マラルメの難しさが、語彙の選択と統合という二つの系列を同時に混乱させたことから来ていて、その混乱の理由が、新しい考え方や美を生み出すためには、新しい言葉の使い方が必要と考えたことから来ていると知ることは、決して無駄ではない。
なぜなら、理解の困難さにもかかわらず、マラルメは多くの読者を持ち、フランスで最も重要な詩人の一人として認められ続けているからだ。


ここまでランボーの詩句とマラルメの詩句の理解が難しい原因を、言語の「選択」と「統合」という視点から説明してきたが、もし彼らの詩句が音楽的な美しさを持たなければ、これほど高い評価を得られなかったのではないかと思われる。
難しくはあるが、本当に美しい。

その美しさは、日本語母語者が和歌に触れた時の美的感覚を思い描くと、理解できるかもしれない。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ

言葉の奏でる音楽が、意味を心地よく運ぶ。

ランボーの詩句の奏でる音楽は、曇ったところがなく、スパッとしている。

Elle est retrouvé !
Quoi ? – L’Eternité.
C’est la mer allée
Avec le soleil. (« L’éternité»)

マラルメの音楽は、丸みを帯び、柔らかで、口に心地よい。

Ô rêveuse, pour que je plonge
Au pur délice sans chemin,
Sache, par un subtil mensonge,
Garder mon aile dans ta main. («Autre éventail de Mademoiselle Mallarmé»)

これらの詩句は、普段の自動化された言葉遣いから偶然に生まれてきたのではなく、マラルメの表現によれば、「意味と音に交互に浸して鍛える」ことを通して創造されたもの。
そして、そこから、これまで耳にしたことがないような「新しい」音楽が聞こえ、「新しい」意味が伝えられる。

何度もトライしなければその音楽を聞き、意味を把握することは難しいが、トライする価値があることも確かである。

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