
ボードレールは、「現代生活の画家(Le Peintre de la vie moderne)」の第11章「化粧礼賛(Éloge du maquillage)」の中で、ナチュラルな美を良しとする傾向に対し、美とは人工的に作り出すものであるという美学を明確に表現した。
彼にとって、ファッションや化粧は、芸術や詩に匹敵する美を生み出す技術なのだ。
「化粧礼賛」の結論部分で、ボードレールは次のように言う。
Ainsi, si je suis bien compris, la peinture du visage ne doit pas être employées dans le but vulgaire, inavouable, d’imiter la belle nature et de rivaliser avec la jeunesse. On a d’ailleurs observé que l’artifice n’embellissait pas la laideur et ne pouvait servir que la beauté. Qui oserait assigner à l’art la fonction stérile d’imiter la nature ? Le maquillage n’a pas à se cacher, à éviter de se laisser deviner ; il peut, au contraire, s’étaler, sinon avec affectation, au moins avec une espèce de candeur.
以上のように、もし私の言うことがしっかりと理解されたのであれば、顔に化粧するのは、人に告白できないような俗っぽい目的、つまり、美しい自然を模倣し、若さと対抗するといったことのために、なされるべきではない。すでに考察したことだが、人工的な手段は、醜い物を美しくはしないし、役に立つのは美しいものだけに対してだけである。誰が、芸術に、自然を模倣するという不毛な機能を与えようとするだろう? 化粧は隠すべきではなく、化粧だと思われるのを避けるべきでもない。反対に、化粧は、気取ってとはいわなくても、一種の無邪気さをもって、はっきりと見せることができるものである。

化粧の目的は、自然の美を「模倣(imiter)」することでないし、若さと「対抗する(rivaliser)」する、つまり若く見せるようにすることでもない。
ボードレールによれば、化粧が役立つのは自然に美しいものだけであり、「醜いもの(laideur)」を「人工的な手段(artifice)」で美しくすることはできない。
例えば、蛾が化粧をして、蝶のように見せることはできない。化粧していることを隠そうとしても、蛾は蛾に見える。
そうではなくて、蛾には蛾の美しさがある。その固有の美しさを確かなものにするのが化粧なのだ。
従って、化粧を隠す必要はない。人工的な手段を無邪気に晒していれば、それでいい。人工的な美は、人工的な美として美しいのだ。
ここでボードレールは、化粧も一つの芸術であり、芸術が目指すものは、いかにも自然に見える美を作り出すのではなく、芸術には芸術の美がある、ということを主張している。
こうした美学を提示するにあたり、最初に、自然について次のように語る。
La plupart des erreurs relatives au beau naissent de la fausse conception du XVIIIe siècle relative à la morale. La nature fut prise dans ce temps-là comme base, source et type de tout bien et de tout beau possibles.
美に関する多くの誤りは、道徳に関する18世紀の間違った考えから生まれている。あの時代、自然は、潜在的なあらゆる善と美の基礎であり、源であり、型であると見なされた。
ここでボードレールは、自然に関する18世紀的な考え方、つまりルソーのように自然を理想的な状態と考える自然観は誤っているとする。
そして、以下の部分では、自然の状態におかれた人間は、寝ることや食べることだけを考え、自然災害に対して身を守るといった、動物的な行動を行うだけであり、自己のために他者に対して悪を働く存在であるとする。
そうした自然状態における人間の悪を正すのが、理性である。理性は、人間の利己的な行動を改善し、悪を抑制する働きをする。
Tout ce qui est beau et noble est le résultat de la raison et du calcul. (…) Le mal se fait sans effort, naturellement, par fatalité ; le bien est toujours le produit d’un art.
美しく高貴なものは全て、理性と計算の結果である。(中略) 悪は努力なしに、自然に、運命に従って、行われる。善は常に、アート(行為)の結果である。

この一言で、ボードレールは、自然が善であり美であるという考え方を逆転してしまう。
人間は、努力して悪いことをするのではなく、自然に、あるいは運命的に、そうしてしまう。
それに対して、よいことは、「アート(un art)」の結果だとする。つまり、意識的に努力し、成し遂げようとする。
「アート」という言葉は、ここでは人為的な行為を意味するが、話題が芸術論であることを示す役割も果たしている。
芸術の目的は、自然の美を模倣し、いかにもナチュラルに美しく見えるものを作り出すことではなく、自然を超えた美を人工的に生み出すことだと主張される。
化粧にしても、芸術にしても、人工的であることを隠す必要はない。
Il importe fort peu que la ruse et l’artifice soient connus de tous, si le succès en est certain et l’effet toujours irrésistible. C’est dans ces considérations que l’artiste philosophe trouvera facilement la légitimation de toutes les pratiques employées dans tous les temps par les femmes pour consolider et diviniser, pour ainsi dire, leur fragile beauté.
細工や技巧がみんなに知られても問題ではない。その成功が確実であり、その効果が常に抗いがたいものであればいいのだ。そのように考えて、哲学的な芸術家は、女性たちがいつの時代においても用いたあらゆる手段を正当なものだと、容易に認めるだろう。女性たちは、自分たちの脆い美しさを定着させ、こう言ってよければ、神聖なものにしようとするのだ。

問題は、結果であり、その及ぼす効果。
技巧の結果だとわかるかどうかは、問題ではない。
ボードレールによれば、女性は、いつの時代にも、自分の美しさが「壊れやすい(fragile)」ものだと考え、それを「補強する(conosolider)」ために、「あらゆる手(toutes les pratiques)」を尽くす。
「神聖なものにする(diviniser)」という言葉はわかりにくいかもしれないが、脆い美が化粧によって固定化されるその時には、その美は永遠に続くように思われるといった意味であろう。
時間が経てば化粧はくずれてしまうかもしれない。しかし、化粧をしてこれでよしと思った瞬間には、いったん美は永遠に感じられる。
ここで注意したいことは、強化し、固定化しようとするのは、一人一人の女性の持つ固有の美だということ。決して、借り物の美を作り出すのではない。
「化粧の目的は模倣ではない」というのは、その意味である。
次に、より具体的に化粧についてボードレールが語る部分を読んでみよう。
Quant au noir artificiel qui cerne l’œil et au rouge qui marque la partie supérieure de la joue, bien que l’usage en soit tiré du même principe, du besoin de surpasser la nature, le résultat est fait pour satisfaire à un besoin tout opposé. Le rouge et le noir représentent la vie, une vie surnaturelle et excessive ; ce cadre noir rend le regard plus profond et plus singulier, donne à l’œil une apparence plus décidée de fenêtre ouverte sur l’infini ; le rouge, qui enflamme la pommette, augmente encore la clarté de la prunelle et ajoute à un beau visage féminin la passion mystérieuse de la prêtresse.
目の周りを囲む人工的な黒と、頬の上部に付けられた赤に関して言えば、それらの使用は、同じ原則、つまり自然を超越する必要性から来ているけれど、その結果は、まったく反対の必要性を満足させることになる。赤と黒は生命を表現する。超自然で過激な生命だ。黒い色の輪郭は、視線に深みと独自性を付け加え、無限に対して開かれた窓の明確な外見を与える。赤い色は、頬を燃え上がらせ、瞳の輝きをさらに強くし、女性の美しい顔に女司祭の神秘的な情念を付け加える。

「自然を超越する(surpasser la nature)」という言葉は、自分のナチュラルな美を化粧によって別の美に変えようとする、という意味だと考えたい。
目に黒いアイラインを引き、頬に赤い紅をさすことで、自分とは違う美を引き出そうと考える。
しかし、ボードレールは、赤と黒は生命を「表現する(représenter)」色であり、その女性自身の固有な美に生命感を与えるものだと言う。
そのおかげで、目は、「無限(infini)」に向かって開かれた「窓(fenêtre)」の「はっきりとした外見(une apparence plus décidée)」を持つようになる。
赤い色は、女性の美に、「神秘的な情念(passion mystérieuse )」を付け加える。
つまり、その女性の持つ美を「固定する(consolider)」ことで、自然さを超えた、深い魅力が生み出される。
黒いアイラインや赤い頬紅を自然に見せかける必要はない。それらは意図して行われた化粧であり、芸術なのだ。
こうした考えを揶揄する人々も数多くいたに違いない。ボードレールは、最後に、そうした判断をする人々はどうでもよく、彼が訴えかけるのが、どのような人々なのか明らかにする。

je me contenterai d’en appeler auprès des véritables artistes, ainsi que des femmes qui ont reçu en naissant une étincelle de ce feu sacré dont elles voudraient s’illuminer tout entières.
私は、真の芸術家たち、そして、生まれながらにして神聖な炎の輝きを受け取け、全身を輝かせたいと望んでいる女性たちに呼びかけることで満足することにしよう。
ボードレールによれば、「技巧(artifice)」によって「自らを輝かせる(s’illuminer)」ことを望む女性は、真の芸術家と並べられる存在という位置を与えられる。
彼女たちは、生まれた時に、「神聖な炎の輝き(une étincelle de ce feu sacré)」を受け取った存在なのだ。
「化粧礼賛」を通して、ボードレールは、芸術とは自然の産物ではなく、人間が理性の計算に基づき、厳密に構築したものでなければならないことを、化粧という行為を例に取りながら、具体的に説明した。
自然と人工の関係についての考察は、現在の美について考える場合にも、非常に示唆的ではないだろうか。