
佐伯祐三は、フランスに留学して絵画を学んだ日本人画家の中で、パリの街の詩情を最も美しく表出した画家といっていいだろう。
彼の描く数多くのパリを見ればすぐにわかるように、佐伯は決して観光名所となるような建物や場所を対象としなかった。彼の眼が引き寄せられ、彼の眼が捉えたのは、普段着のパリの街並みだった。
最初のパリ滞在は、1924年(大正13年)1月から1926年1月までの約2年。二度目の滞在は、1927年(昭和2年)8月から翌年8月に病死するまでの約1年。そんなわずか3年の滞在で、花の都としてのパリではなく、ごく当たり前の街並みの発する魅力を感じ取り、日本的な感性をとりわけ主張することなく、一人の画家としてパリの美を表現した佐伯祐三。
彼の描いたパリの絵画が私たちに伝えるのは、穏やかだが生き生きとした抒情性。こんな街並みの中を歩き、呼吸したいと、誰もが憧れるだろう。




佐伯祐三は1898(明治31)年に大阪のお寺に生まれ、現在の北野高校を卒業後、東京藝術大学西洋画科で学び、1923(大正12)年3月に卒業した。
当時の日本の洋画界は、フランスに留学した黒田清輝たちがもたらした外光派的な画風が支配的であり、佐伯もルノワールを中心とした印象派から大きな影響を受けた。
また、武者小路実篤を中心にして創刊された文芸・美術雑誌『白樺』は、ルノワールだけではなく、セザンヌやゴッホたちも積極的に紹介し、若い画家たちのフランスへの憧れを掻き立てていた。

佐伯祐三もそうした流れの中で絵画を学び、1923年11月、画家である妻・米子と一人娘・弥智子を伴い、神戸港からフランスに向かう船に乗船したのだった。
ヴラマンクの教え
翌1924年1月にフランスに到着後、最初は絵画塾に通いながら、ルノワール風の作風で描き続けていたが、その年の初夏に転機が訪れる。
佐伯は友人に連れられ、ゴッホが最期の時を迎えたオーヴェル=シュル=オワーズに行き、モーリス・ド・ヴラマンクと面会し、絵を見てもらう。その際、ヴラマンクが「アカデミック!」と大きな声を上げ、1時間以上にわたり非難したというエピソードはよく知られている。
大きなショックを受けた佐伯は、その後、作風を大きく変化させた。
その違いは、ブラマンク前とブラマンク後の絵画、例えば「ノートル・ダム寺院遠望」(左)と「パリ郊外近郊」(右)を並べてみると、すぐにわかる。


ヴラマンクが非難するのは、どちらのタイプの絵だろう?
モーリス・ド・ブラマンク(1876-1968)は、ゴッホを高く評価した。左下の「シャトゥの家々」では、原色の絵具の力強い動きがゴッホを思わせると同時に、色彩豊かなフォーヴィスムと呼ばれる絵画の特色をはっきりと示している。
そうしたフォーヴィスムの絵画だが、1910年代になると原色がほとんど使われなくなり、色彩は寒色が中心になり、全体的にかなり暗い雰囲気が醸し出されるようになっていた。灰色を主にしたどんよりとした空気感におおわれた「雪の村」(下右)も、そうした例の一つである。
その一方で、「シャトゥの家々」に劣らない生命感や空や建物の質感が、「雪の村」にも感じられる。


1924年の初夏に佐伯たちが会ったブラマンクは、色彩を押さえながら、素早く大胆な筆致で事物の生命感や物質感を表現する方向に進んでいた。
この二枚の絵画を通し、先に見た佐伯の二枚を見直すと、「ノートル・ダム寺院遠望」はルノワール風の穏やかなタッチであり、アカデミックで生命感に欠けると非難されそうだと推測がつく。
それに対して、「パリ郊外近郊」になると、画面全体に躍動感があり、ゴッホを思わせさえする。
佐伯祐三がフランスで学んだ最初の成果は、静的な美を離れ、物の手触りを感じさせる質感と生命の躍動感を表現する方向に進んだことだった。
ユトリロの発見
1924年12月、佐伯はモンパルナスのシャトー通りのアパルトマンに居を構え、翌1925年1月初めにはユトリロ展に足を運んだ。
そのことは、パリを再発見するために、とても重要な一歩となった。
モーリス・ユトリロ(1883-1955)は、モンマルトルを中心にパリの街並みそのものを画題にし、その詩情を抒情的に描き出した画家だった。
フランスに到着以来ほぼ一年を過ぎた日本の画家は、ユトリロから、日常の街の姿が絵画の題材になることを学んだに違いない。
ユトリロは10代の頃からアルコール依存症で不安定な生活を送っていたが、1902年にモンマルトルのコルトー街に住み始めた頃から、精神的な安定を求めて絵を描き始めたらしい。そして、画家である母スザンヌ・ヴァラドンの手ほどきを受けながら、印象派の巨匠ピサロやシスレーのように描くことを夢見るようになっていった。
しかし最初の頃はまったく売れず、居酒屋で酒代として描いたばかりの絵を渡すといった始末。そうした悲惨な生活を続けながら、1908年から1914年くらいまで、白色を基調にパリの下町であるモンマルトルの街並みを描いた。その時期は「白の時代」と呼ばれている。



その後も売れない絵描きの荒れた生活が続いたが、1921年にヴィイル画廊でヴァラドン=ユトリロ展が開かれ、爆発的な人気を博すようになる。翌1922年には「白の時代」展も開かれるなど、一気にユトリロの人気が高まった。

1925年1月に開催されたユトリロ展を佐伯祐三が見たのは、そうした時代だった。その時、佐伯は次のような感想を友人の一人に手紙で書き送っている。
「ユトリロの70枚くらいの素晴らしい展覧会を見た。すっかりユトリロを好きになってしまった。ブラマンクより好きな点もあるほど好きになった。ブラマンクがセザンヌの気持ちを持つなら、ユトリロはゴッホだね。絵を描く事が嬉しくてたまらないというような、趣味というか、そんなものがあまりに大きくって、力になっているような気がする。ドランやピカソより自分はユトリロが好きになった。」(1925年6月14日付け山田新一宛の手紙。現代的な表記に変換した部分あり。)
ユトリロからの影響は、街並みを捉える構図にもはっきりと現れている。
ユトリロの描いた「パリ郊外ーサン・ドニ」(下左)と佐伯祐三の「パリの風景」(下中)や「エッフェル塔の見える通り」(下右)を並べて見てみよう。
右から左へと伸びる対角線に沿って建物が一列に並んでいる構図は、佐伯がユトリロから借用したものに違いない。



これら3枚を見ていると、類似だけではなく、違いもはっきりとしてくる。
ユトリロの絵は輪郭線が明確で、幾何学的な世界像に揺るぎがない。
それに対して、佐伯の建物からはブラマンクの影響と思われる物質性が感じられ、ユトリロとは違う抒情性が漂っている。
「シャトー通りの入り口」(下左)や「ブランシオン通り」(下右)を見ると、構図は違っても街並みの全体像を捉えることではユトリロ的だが、建物の重厚感は大きく違っていることがわかる。


佐伯自身の言葉を借りれば、「物質的な点ではブラマンクから教わったことを外さないが、今の作品はブラマンクではない。ユトリロに近いものを描いている。アンシアン(古い)パリを描いて、日本に持ち帰りたいと思っている。」(1925年11月下旬、山田新一宛の手紙。)
こうして、ブラマンクやユトリロから吸収した絵画的滋養をベースにしながら、佐伯は徐々に独自の世界を作り上げていった。
例えば、「壁」(下左)や「門と広告」(下右)。
街並み全体ではなく、壁や門だけを対象とする構図は佐伯祐三の世界だ。その中では、文字が言葉としてではなく、デザインとして独特の役割を果たしている。


「壁」はテーマが壁自体であり、壁の黄土色が画面の大部分を占めている。しかし、黄土色に微妙な色合いの変化が加えられ、長い間風雨に晒されて変色し今に至った様子がしっかりと描き込まれている。
さらに、壁の上には、大きな文字で3箇所にDEMENAGEMENTS(引っ越し)と描かれると同時に、半分消えかかった小さな文字もあちこちに書かれ、外国人である佐伯にとってグラフィックデザインのように感じられたのではないだろうか。
そして、壁の下には、赤い文字で、UZO SAEKI LE 5 OCT 1925と、佐伯の署名が描かれている。
「門と広告」では、テーマは門であるよりも、門に張られた広告だといえる。
門の上に張られた数多くのポスターは、どれも傷みがひどく、古くなっている。しかし、赤、青、白と多色のポスターが組み合わされ、その上を数多くのアルファベットが踊るように埋め尽くし、独特の活気を生み出している。
私たちが実際にパリの下町を歩き、こうした壁やポスター類を見ても、さびれた雰囲気を感じるだけだろう。しかし、佐伯の眼はそこに美を読み取った。そして、それらのありのままの姿を描きながらも、過ぎ去った歳月が生命の動きを感じさせる表現に達したのだった。
「佐伯祐三のパリ」の抒情性がそこから生まれる。
その一つの到達点が、「コルドヌリ(靴屋)」(下)といってもいいだろう。
この「コルドヌリ」と同種の作品が、1925年9月に開催されたサロン・ドトンヌ(秋のサロン)に入選し、ドイツの絵具会社によって購入されたのだった。

サロン・ドトンヌは、絵画、彫刻等の新進芸術家を世に送り出すことを目的として1903年に設立された展覧会であり、フォービスムやキュビスムの誕生と発展のために大きな役割を果たした。

1922年には、藤田嗣治の「寝室の裸婦キキ」が入選し、大評判となっていた。
そのサロンに、わずか1年数ヶ月しかフランスに滞在していない佐伯が入選し、しかも出典作に買い手が付いたのだった。
(ちなみに、佐伯は藤田と同時期にパリ、しかもモンパルナスという限られた空間に暮らしていたが、藤田のグループとは接触を持たなかったらしい。)
「コルドヌリ」は、ユトリロの白を思わせる白が全体を占める中、構図は街並みを広く捉えるのではなく、一軒の靴屋の正面だけに限られ、佐伯的なものになっている。
グラフィックを見ると、CORDONNERIEは太くはっきりと描かれている。その両横には小さく細い文字で、REPARATION、RESSEMLAGEと書かれているらしいが、はっきりと判読できない。
入り口の扉が開かれ中が少しのぞいて見え、扉の両横には靴が2列になって掛けられている。また、入り口の右隣には鉄の格子が見え、垂直の動きが補強される。
その垂直な線に対して、壁の前に置かれた板の上の靴の並びは水平の線を作り、灰色の屋根と地面の水平の動きとともに、画面全体に安定性を作り出している。
パリの下町のさびれた靴屋を写実的に描いたようなこの作品も、しっかりとした構図があり、白をベースに微妙な色彩の変化が加えられ、グラフィックも含め、静止した画像の中に生命の動きが感じられ、閑かな抒情性が生み出されている。
この時期、佐伯が、「自分の境地をたいぶ見つけてきた」と考えたとしても、当然のことだろう。
しかし、彼はフランス滞在を断念せざるを得なくなる。彼の体を心配する母の願いもあり、兄がフランスを訪れ、佐伯に帰国を促し、仕送りを止める旨を告げる。
なんとか滞在を延ばそうとしたのだが、結局、佐伯一家は、1926年1月にフランスを出発し、イタリア経由で3月に日本に戻ってくる。
佐伯は帰国する際、「日本に帰るのでなく、東洋を学びにいくのです。」と述べていたという。
第2次フランス滞在
日本に戻り、東京や大阪で風景画を中心に創作活動は続けたのだが、佐伯にとって、フランスで描き続ける夢を捨てることはできなかった。
そのための資金を調達するために借金をしたり、絵の頒布会を開くなどし、1927年7月にやっとフランスに向けて再出発することができる。ただし、船で行くよりも安くすむために、シベリア経由の鉄道の旅となった。
1927年8月にパリに着き、最初はホテル住まいをし、10月からモンパルナスのアパルトマンで暮らし始める。
それから翌年の8月に亡くなるまでの約1年の間、猛烈なスピードで絵筆を動かし、ある時期には一日2枚のペースで作品を制作したといわれている。
では、最初の滞在と二番目の滞在で、佐伯の絵画に何か変化があるのだろうか?
それを知るために、1927年に制作された「テラスの広告」(下左)と「レストラン(ホテル・デュ・マルシェ)」(下右)を見てみよう。



レストランの壁を埋め尽くすポスターとその上に踊るアルファベットは第一次滞在時の作品を思わせる。
その一方で、テーブルや椅子の脚の細い線や、空間を区切る衝立の黒い線は、新しい要素。
「レストラン(ホテル・デュ・マルシェ)」の右側に小さく描かれた一人の男性も、ジャコメッティの彫刻を思わせる細い姿で描かれている。
この線の表現こそ、佐伯が日本の絵画の伝統から持ち帰り、新たに付け加えたものだといえるだろう。
テーブルや椅子の脚はダンスを踊るようであり、画面全体に躍動感を与えている。
先に見た「門と広告」と、1927年に描かれた「ガス塔と広告」を比べると、ほっそりとした二人の人物がいかに絵画全体を生き生きとさせているのか、はっきりと感じられる。


垂直に並ぶポスターに対し、下の地面と上の柵はやや右上がりの水平線を形作る。
その中で、一本の街灯が細い線で垂直に伸び、そこに向かって歩いている二人の人物もやはりほっそりとしている。
色彩の濃淡だけではなく、線的な人物の存在によって、絵画に生命感が吹き込まれていることが、「門と広告」と比較することでよく理解できる。
こうした生き生きした線が、第2次フランス滞在時の佐伯の絵画の至る所に現れている。
例えば、「広告貼り」(上左)、「ヴェルダンの広告塔」(上中)、「ラ・クロッシュ」(上右)、そして「オプセルヴァトワール附近」(下)。




第1次滞在のおりに発見したポスターのグラフィクが、第2次滞在では線の表現としてさらに命を持ち、レストランの椅子の脚や、人間や、木々となり、パリの何気ない街並みの中で命の温かさを伝えていると言っていいかもしれない。
その後、第2次滞在が後半になるに従い、繊細な線が消え、太く重厚な線で輪郭が描かれるようになる。その変化に伴い、華やいだ活気が消え、画面から動きが消えていく。
そうした印象は、「レストランの入り口」(下左)のように、画面全体を一つの建物が占める場合でも、「白い道」(下中)のように、街並みに沿って一本の道が奥へと伸びている場合でも、変わらない。
また、最晩年に描かれた「黄色いレストラン」(下右)では、一人の人物が描かれているが、そこにも動きは感じられない。



「黄色いレストラン」は、1928年の初春に描かれた最期の時期の一つ作品と考えられているが、その頃の佐伯は寒い戸外での写生のために無理を重ねて風邪をひいたり、結核で吐血したり、精神的にも変調をきたすなどし、入院を余儀なくされる。そして、8月16日、入院先の病院で息を引き取った。
佐伯祐三の30歳の短い生涯のうち、憧れのパリで活動できたのは約3年。
その短い時間の中で、ブラマンクやユトリロの影響を通り抜け、彼の描くパリは微妙に表情を変化させながらも、「佐伯祐三のパリ」としか言い様のない詩情を生み出したのだった。

2023年の前半、「佐伯祐三 自画像としての風景」が東京と大阪で開催される。
https://saeki2023.jp
パリの街だけではなく、日本の風景、肖像画等も展示されるということなので、佐伯祐三の幅広い活動を知ることができるだろう。
佐伯のパリ滞在をドキュメンタリー風のドラマにしたテレビ番組もある。