ボードレール 「レスボス」  Baudelaire « Lesbos » 3/3 選ばれし詩人の謳うサッフォーの秘儀

第9詩節から第11詩節の間、ボードレールは自らがレスボスによって選ばれた者であり、そこで行われる秘儀の神秘を歌う巫女あるいは詩人であると言う。

Car Lesbos entre tous m’a choisi sur la terre
Pour chanter le secret de ses vierges en fleurs,
Et je fus dès l’enfance admis au noir mystère
Des rires effrénés mêlés aux sombres pleurs ;
Car Lesbos entre tous m’a choisi sur la terre.

Et depuis lors je veille au sommet de Leucate,
Comme une sentinelle à l’œil perçant et sûr,
Qui guette nuit et jour brick, tartane ou frégate,
Dont les formes au loin frissonnent dans l’azur ;
Et depuis lors je veille au sommet de Leucate,

Pour savoir si la mer est indulgente et bonne,
Et parmi les sanglots dont le roc retentit
Un soir ramènera vers Lesbos, qui pardonne,
Le cadavre adoré de Sapho qui partit
Pour savoir si la mer est indulgente et bonne !

(朗読は2分22秒から)

なぜなら、レスボスは、全ての人間の中から私を選んだのだ、この地上において、
花咲く乙女たちの秘密を歌うために、
そして、私は、小さな頃から、黒い秘儀への参入を許されていた、
暗い涙に入り交じった、狂ったように激しい笑いの秘儀への、
なぜなら、レスボスは、全ての人間の中から私を選んだのだ、この地上において。

その時から、私はレフカダ島の頂上で見張りをしている、
鋭く確かな眼差しの、歩哨のように、
夜も昼も、帆船や小舟や軍艦を見つけるために、
それらの姿は、彼方の蒼穹の中で、震えている。
その時から、私はレフカダ島の頂上で見張りをしている、

海が寛容で善良かどうか知るために、
そして、あの岩礁がこだまするすすり泣きの中で、
ある夕べが、引き戻してくれるかどうか、レスボスの方へと、レスボスは許してくれる、
旅立ったサッフォーの愛すべき亡骸を、
海が寛容で善良かどうか知るために!

「選ばれし(choisi)」存在として、レスボス島の「花咲く乙女たちの秘密(le secret des vierges en fleurs)」を歌う「私(je)」は、古代ギリシアのデルフォイの巫女や古代ローマの時代のクーマエの巫女を連想させる。

秘儀が「狂ったような笑い(rires éffrénés)」や「暗い涙(sombres pleurs)」に彩られていることは、酒と豊穣の神ディオニソスの祭りを連想させる。

あるいは、オルフェウスが地獄下りから戻った後、踊り狂う女たちによって八つ裂きにされ、首だけが竪琴に乗って川を下り、最後にレスボス島に流れ付くというオルフェウス教の説話を思い起こしてもいいかもしれない。

「私」が選ばれた理由は、そうした「神秘あるいは秘儀(mystère)」への参入を、「許された(je fus (…) admis )」からだった。
動詞が受動態であることは、「選ばれた」ことと同様に、「私」を超えた力が働いたことを暗示し、単純過去で語られていることは、認められたことが現在とは断絶した物語あるいは伝説の中での出来事といった印象を与える。

第10詩節で言及されるレフカダ島は、サッフォーが断崖から身を海に投じたとされるギリシアの島。
(Leucateと語尾がtになっているが、leucadeの誤りだと考えられる。
また、直接関係ないが、ラフカディオ・ハーンはレフカダ島で生まれた。彼がボードレールに興味を持ち、いくつかの詩を翻訳していることと関係しているかもしれない。)

「レフカダ島の頂上(au sommet de Leucate)」で、「私」が、「鋭く確かな眼差し(l’œil perçant et sûr)」をした「歩哨(une sentinelle)」のように遠くを見張る理由は、第11詩節で語られる。

同性愛者サッフォーは、美少年パオーンとの恋に破れ、レフカダ島の断崖から海に身を投げた。その彼女を海が寛大に受け入れ、再びレスボス島へと「ある夕べが連れ戻してくれる(un soir ramènera )」かどうか、秘儀の巫女あるいは詩人である「私」は知りたいのだ。

そして、その答えは肯定的だと推測される。
レスボス島の「岩(le roc)」では、今でも「啜り泣き(les sanglots)」が「鳴り響き(retentit)」、そして、レスボス島は「許してくれる(pardonne)」。
第5-6詩節で繰り返された「許し(pardon)」の音がこの詩節に反響し、サッフォーと彼女に従う女性たちにとって、エーゲ海は「寛容で善良(indulgente et bonne)」なものだろう。


第12-13詩節では、サッフォーとヴィーナスが比較され、美の女神ヴィーナスよりもサッフォーが上位に置かれる。

De la mâle Sapho, l’amante et le poète,
Plus belle que Vénus par ses mornes pâleurs !
– L’œil d’azur est vaincu par l’œil noir que tachète
Le cercle ténébreux tracé par les douleurs
De la mâle Sapho, l’amante et le poète !

– Plus belle que Vénus se dressant sur le monde
Et versant les trésors de sa sérénité
Et le rayonnement de sa jeunesse blonde
Sur le vieil Océan de sa fille enchanté ;
Plus belle que Vénus se dressant sur le monde !

男性的なサッフォー、恋する女、詩人、
ヴィーナスよりも美しい、陰鬱な蒼白さゆえに!
ー 真っ青な眼差しは、黒い眼差しに打ち負かされる、
数々の苦しみによって刻まれた、暗い輪の滲みのついた黒い眼差しに、
男性的なサッフォー、恋する女性、詩人の!

ー ヴィーナスよりも美しい、世界の上に立ち、
そして、注ぎかける、彼女の静謐さの数々の宝石と
彼女の黄金の若々しさの輝きを
自らの娘にうっとりとする、年老いた海の神オケアノスの上に。
ヴィーナスよりも美しい、世界の上に立つ!

ヴィーナスは、「真っ青な眼差し(L’œil d’azur)」をし、「静謐(sérénité)」で、「ブロンドで、若々しく輝き(rayonnement de sa jeunesse blonde)」、古代ギリシアの時代から美の典型とみなされてきた。
海の神「オケアノス(Océan)」が彼女の父であるのは、ヴィーナスが海の泡から生またとされるから。

他方、ボードレールの描くサッフォーは、「陰鬱な蒼白さ(ses mornes pâleurs)」を持ち、「目(l’œil)」の回りは、「様々な苦しみ(les douleurs)」によって刻まれた「暗い輪(le cercle ténébreux)」の「しみが付き(tachète)」、「黒(noir)」ずんでいる。

しかし、そのサッフォーの方が、「世界の上に立つ(se dressant sur le monde)」ヴィーナスよりも美しい。

サッフォーが「恋する女(l’amante)」であり、「詩人(le poète)」であるというのは、19世紀前半に信じられていた2人のサッフォー説に基づいた上で、レフカダ島の断崖から海に身を投げた女性と、プラトンに十番目のミューズと呼ばれた女性詩人を一人に結び付けたことを意味する。
女性であるサッフォーが「男性的な」と言われるのは、男性と女性という二つの側面の象徴だろう。

そのようにして、レスボス島の秘儀を歌う詩人ボードレールは、二つの性を共有する存在、あるいは性を超えた存在としてのサッフォーが、美の象徴であるヴィーナスよりも美しいと断言する。


第14詩節では、単純過去形の動詞によって、サッフォーとパオーンの出来事が神話や伝説の物語として語られる。そして、最終15詩節に至り、現在形の動詞が現在のレスボス島の様子を描き出す。

– De Sapho qui mourut le jour de son blasphème,
Quand, insultant le rite et le culte inventé,
Elle fit son beau corps la pâture suprême
D’un brutal dont l’orgueil punit l’impiété
De celle qui mourut le jour de son blasphème.

Et c’est depuis ce temps que Lesbos se lamente,
Et, malgré les honneurs que lui rend l’univers,
S’enivre chaque nuit du cri de la tourmente
Que poussent vers les cieux ses rivages déserts !
Et c’est depuis ce temps que Lesbos se lamente !

冒瀆を犯した日に、死を迎えたサッフォーの、
その日、祭儀や新しく作られた信仰を侮辱し、
彼女は、自らの肉体を、崇高な餌食にしたのだった、
一人の乱暴な男の。その男の傲慢が罰したのは、不信仰
冒瀆を犯した日に、死を迎えた女の。

その時から、レスボスは嘆き悲しんでいる、
そして、宇宙がその島に捧げる数々の栄誉にもかかわらず、
毎夜、大嵐の叫びに酔いしれている、
荒れ果てた岸辺が、天に向かい押し上げる大嵐の叫びに!
その時から、レスボスは嘆き悲しんでいる!

「冒瀆(blasphème)」「祭儀(rite)」「不信仰(impiété)」という言葉が宗教を連想させるだけではなく、「新しく作られた信仰(culte inventé)」と明確に表現され、サッフォーを中心にしたレスボス島の出来事が、ある一つの宗教の神話であることが示される。
そのことは、第8詩節で、「お前たちの宗教は、他の宗教と同様に厳かだ(Votre religion comme une autre est auguste)」と言われた言葉を裏付けることになる。

その神話における「冒瀆(blasphème)」とは何か?
それは、サッフォーが、「彼女の美しい体(son beau corps)」を、パオーンを思わせる「ある乱暴者(un brutal)」の「餌食(pature)」としたことだろう。
その行為は「不信仰(impiété)」であり、青年の「傲慢(l’orgueil )」が、その行為を「罰した(punit)」のだった。

その出来事を物語る« Elle fit son beau corps / la pâture suprême »の詩句は、12音節の詩句の真ん中に「区切れ(césure)」が入るという詩法の原則に基づき、動詞faireの一般的な用法とは違う構文が使用されている。
通常であれば、faire de son corps la pâture(体を餌食にする)か、faire son corps qui devient la pâture(体を餌食になるようにする)などとしないと、正しい構文とはいえない。
ボードレールは、corpsとpâtureの間のリズムの区切れを利用し、前置詞や関係代名詞を用いず、意味を通じさせるようにしたのだと考えられる。

この第14詩節では、1行目と5行目の詩句が全く同一ではなく、Saphoがcelleに変更されている。これは全部で15ある詩節の唯一の例外であり、その変更が強く印象付けられる。
そのことは、サッフォーという名前が、一人の個人の名称ではなく、神話の登場人物のような一般化した存在へと変容する印と考えることができるかもしれない。

最終詩節では、激しい嵐に打ち寄せられるレスボス島の姿が描き出される。
「誰もいず荒れ果てた岸辺(rivages déserts)」は島の現在の姿であり、19世紀半ばの現実社会の規範に縛られた状況の中での同性愛者たちの存在を思わせる。そこでは、同性愛は断罪される対象でしかない。
だからこそ、レスボス島は「嘆き悲しんでいる(se lamente)」。

そうした現実を踏まえながらも、秘儀の神秘を謳う詩人であるボードレールは、その現実が、第2詩節で喚起された「底なしの深淵(gouffres sans fond)」と共鳴する可能性を暗示する。
レスボス島がそう自覚しないとしても、「宇宙(l’univers)」は島に「栄誉(honneurs)」を捧げている。
そして、「大嵐(la tourmente)」は「天に向かって(vers les cieux)」押し上げられる。

だからこそ、レスボス島は、「毎夜(chaque nuit)」、「底なしの深淵」から吹き上げるような激しい嵐に「酔いしれる(s’enivre )」のだ。
その「酔い」は、サッフォーをヴィーナスよりも美しくし、「尻軽な美女たち(les Phrynés )」(第3詩節)を「エーゲ界の誉れである崇高な心を持つ処女たち(Vierges au coeur sublime, honneur de l’Archipel)」(第7詩節)に変える。

そして、「老プラトン(vieux Platon)」が眉をひそめるなか、選ばれし詩人によって、「穏やかな帝国の女王、愛らしく高貴な大地(Reine du doux empire, aimable et noble terre)」(第5詩節)であるレスボス島に捧げられた賛歌が、「レスボス」なのだ。


現在の私たちから見て、1857年の『悪の華』裁判において猥褻だとして非難された第4詩節の「娘たちは、窪んだ目をし、彼女らの肉体を愛し、成人に達し熟れた果実を愛撫する」といった表現が、それほど刺戟的だとは思えない。
また、同性愛を社会的な悪とみなす倫理観は、少なくとも表面上はなくなっている。
そうした現代的な感受性は、多くの読者が「レスボス」を抵抗なく受け入れることにつながる。

しかし、その一方で、この詩が秘めていた革命的なエネルギーを見落とさせることにつながる可能性もある。
例えば、「レスボス」を女性の同性愛者賛美の詩として読み、ボードレールが彼女たちに興味を持っていたかもしれないというだけであれば、詩人の性癖を推測する程度の理解で終わってしまう。

しかし、ボードレールの試みは、19世紀半ばの倫理的な規範に挑みかかり、社会において排除され悪とみなされるものを取り上げ、既存の価値観を問い直すことだった。
善と悪、美と醜、正義と不正、富と貧困、現実と夢、正常と狂気などの二元的な対立が固定化し、絶対的な差異として人間の意識を支配している社会。その中で、差異の根拠に目を向けることは、反社会的行為とみなされることにもなる。それは現在でも同じことだ。
『悪の華』が裁判にかけられたのは、反宗教的かつ風俗を乱すという理由だったことを思えば、既存の価値観の問い直しには革命的なエネルギーが必要であることが理解できるだろう。

「レスボス」の読解にあたっても、単に同性愛というテーマに留まるのではなく、同性愛を断罪する既存の倫理規範を問題にし、対立する価値観のどちらかを選択するのではなく、どちらも共存しうる架空の場=「底のない深淵」を設定することで、新たな価値観を模索することがテーマだとみなすことができる。

例えば、第8詩節の「お前たちの宗教は、他の宗教と同様に、厳かだ(Votre religion comme une autre est auguste)」という詩句は、一つの宗教が絶対的なものと考えるのではなく、他の宗教も含め、どちらにも厳かさを認めるという意味で、価値の多様性=ダイバーシティの核心を突いている。

そこからどのような価値観が生まれてくるのか、あるいは生み出すのかは、一人一人の考えによるが、しかし、問い直しをする姿勢を持つこと自体に価値があることも確かである。
今「レスボス」を読む意義は、まず最初に、その姿勢を読み取ることだといっていいだろう。

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