ジョヴァンニ・ボルディーニ エレガントな美を追究した画家

ジョヴァンニ・ボルディーニ(Giovanni Boldini, 1842-1931)はイタリア生まれだが、主にフランスで活躍した画家。19世紀後半から20世紀前半にかけてパリが最も華やかだったベル・エポックと呼ばれる時代に、フランスだけではなく世界中のセレブたちの間で人気があり、彼の肖像画はエレガントな美の典型として広く受け入れられた。

その一方で晩年になるとやや時代遅れとみなされ、死後にはほぼ忘れられてしまう。美術史で取り上げられることもなく、評価もそれほどされない状況が続いていた。

ここでは、ボルディーニの追求したエレガントな美がどのようなものだったのか紹介しながら、なぜ彼の絵画が忘れ去られてしまうことになったのか考えてみたい。

そのきっかけとして、次の二つの質問を考えてみよう。
1)自分の肖像画を註文するとしたら、以下の6枚の絵を描いた画家の中の誰に頼みたいだろうか?
2)どの肖像画が最もエレガントだと思うだろうか?

(1)ルノワール(1841-1919)  (2)ロートレック(1864-1901)   (3)ピカソ(1881-1973)
(4)マネ(1831-1883)     (5)ボルディーニ (1842-1931)  (6)モディリアーニ(1884-1920)

ボルディーニ以外の5人は絵画史の中で重視され、競売にかかれば高額な値段がつけられる。その一方で、上の二つの質問に対して、5番と答える人も多いのではないだろうか。


ジョヴァンニ・ボルディーニは1842年にイタリアのフェラーラで生まれた。フランス生まれの同世代の画家には、シスレー、モネ、ルノワール、ベルト・モリゾなど、印象派を代表する画家たちがいる。

幼い頃から絵の才能を認められたボルディーニは、故郷で絵画の修行をした後、1864年頃からはフィレンツェでマッキア派の画家たちと親しく交わり、色彩の斑点によって自然の光を生き生きとした状態で定着させる技法を学ぶ。
1871年にはロンドンに渡った後、パリに移り、グーピル商会という美術商の要請に応じた絵画を手がける。

1870年代のフランスはプロシアとの戦争に敗れた後だったが、絵画の分野では、伝統を遵守する公式のサロンに対し、1874年には第一回印象派展が開かれるといった動きがあり、新しい絵画を求める動きが湧き上がりつつあった。
ただし、上級階級や裕福な市民階級が購入したのはサロンに出展されるタイプの絵画であり、後に絵画史を飾ることになる印象派の画家たちは絵が売れず、貧しい生活を強いられる側にいた。

そうした中でグーピル商会の手がけるのは売れる絵画や複製であり、ジョヴァンニ・ボルディーニが望んだことも、買い手たちに喜ばれ、売れる絵を描くことだった。
当時求められていたのは風俗画であり、1873年から1875年にかけて描かれた「通りを渡りながら」(下)も、ボルディーニが数多く手がけた風俗画の1枚である。

この絵をとくに取り上げたのは、街路を一人の女性が通り過ぎていくというテーマが、「一瞬のうちに過ぎ去る瞬間を永遠に定着する」というモデルニテの美学に対応することによる。シャルル・ボードレールは「通り過ぎた女へ(À une passante)」という詩の中で、そのテーマを明確に表現した。

一瞬の閃光。。。次に、夜! — 逃げ去る美よ、
その視線が、突然、私を甦らせた。
私はもうあなたを、永遠の中でしか見ないのだろうか?
(参考:ボードレール 「通り過ぎた女(ひと)へ」 Baudelaire « À une passante » 儚さと永遠と

「一瞬で消え去りながら、同時に永遠に留まるという美の二重性」は、後に完成するボルディーニ様式の特色でもあり、ボルディーニが1870年代からその美学を頭に置いていたことを、「通りを渡りながら」という風俗画が教えてくれる。

もう一つここで指摘しておきたいことがある。
ボルディーニは表だって印象派的な画法を試みることはなかったが、それに違い試みをした形跡は残されている。

例えば、次の「社交界のピアニスト」(下中)や「ムーラン・ルージュの祭り」(下右)には、親しく交わったエドガー・ドガの「フェルナンド・サーカスのララ嬢」(下左)と同様の構図的な試みが見られる。

ボルディーニはこれらの作品を世に出すことはなく、ずっと自分のアトリエに保存していた。


1880年代にグーピル商会から離れたボルディーニは、徐々に自らのスタイルを完成させていく。
その過程でヒントになったのは、1886年から彼が用いることになるアトリエの前の持ち主、ジョン・シンガー・サージェントからではないかと推測される。

ジョン・シンガー・サージェントは、1884年のサロンに、モデルとなった女性の名前を伏した「マダム・・・の肖像」(下中:作品の白黒写真)を出品し、大きなスキャンダルとなった。
現代の私たちの目から見れば何ら問題になるようには思えないが、大胆な黒いデコルテが際立たせる白い肌、体をやや右に向けながら顔を左に向けたやや不自然な姿勢、そして何よりも、宝石のちりばめられているローブの肩紐が右肩から落ちかかっている姿が、大胆で官能的な雰囲気を醸し出しているとみなされ、モデルの母親からの抗議を始め、多くのサロンの観客の顰蹙を買ったのだった。

サージェントは肩紐を描き直し、「マダムX」(下左)という題名で自らのアトリエに展示した。しかし、騒ぎは収まらず、彼はパリを離れ、ロンドンに移住する。
その際、パリ17区にあったアトリエを引き継いだのが、ボルディーニだった。

ボルディーニが1896年に描いた「シャルル・マックス夫人の肖像」(上右)からは、ジョン・シンガー・サージェントから引き継いだものがアトリエだけでないことがわかる。

単純な背景の上に浮かび上がる女性の姿、ほっそりと伸びた体、やや不自然にねじった姿勢、大胆なデコルテから浮かび上がる白い肌。
ローブの肩紐が右肩から落ちかかっている様子は、「マダム・・・の肖像」をはっきりと意識したものだろう。

滑り落ちた肩紐はス1884年のキャンダルから10年以上が経過したからこそ可能になったものだろうが、女性の美しさの中に微かな官能性を含める点は、より早い時点でボルディーニがサージェントから吸収した要素だと考えられる。

その上でボルディーニが独自に付け加えたのは、静止した肖像に動きを与えることだった。
それは「一瞬のうちに過ぎ去る時間を永遠に定着する」という美学の実現でもあり、その表現として用いられたのが、繊細で流れるような曲線だった。
実際、シャルル・マックス夫人のドレスは生命があるかのような動きを感じさせ、永遠に定着された肖像画の中に一瞬毎に消え去る時間が閉じ込められているいった印象を与える。

1889年の「エミリアーナ・コンチャ・デ・オッサの肖像」(下)は、ボルディーニ様式が完成したともいえる作品であり、パリ万国博覧会で金賞を受賞した。

簡潔な背景、ほっそりと引き伸ばされた女性の手足、美しい肌の色、繊細で流れるようなドレスの動き、そして清楚でありながら微かな官能性を秘めた雰囲気。画家自身がこの作品を気に入り、モデルには複製しか渡さなかったというエピソードが、ボルディーニ様式の完成を物語っている。

1890年代に描かれた以下の4点の作品でも、それぞれは個性的でありながら、これまでに考察してきた画風は共通している。


ジョバンニ・ボルディーニが肖像画家として大変な人気を獲得したもう一つの理由は、彼が美しいモデルをさらに美しく描くことを知っていたからだろう。

一般的に、肖像画であれば、描かれた姿がモデルと似ていることが前提となる。
ベル・エポックに活躍した大女優サラ・ベルナールは、日本ではアルフォンス・ミュシャのポスター(下左)によってよく知られているが、彼女の肖像画を数多く手がけた画家ジョルジュ・クレランの1876年の作品(下中)と、1878年に撮影された彼女の顔写真(下右)を見ると、実際にとてもよく似ている。

そのサラ・ベルナールをボルディーニが描いたのは、1904年、彼女が60歳の時だった。
その肖像画(下中)と、同じ60歳の時の写真(下右:比較のために左右を逆転した)、そして、彼女が18歳だった1862年の写真(下左)を並べてると、ボルディーニの肖像画の秘密が見えてくる。

肖像画は60歳のサラを思わせはするが、それと同時に、1878年34歳を超え、18歳の雰囲気さえも感じさせる。
つまり、まったく別人にしてしまうことなく、モデルの美の本質をつかみ取り表現する術をボルディーニは持っていたのだといえる。

「彼はエレガンスの魔に取り憑かれていた。彼なら、駄犬を猟犬に、小舟をヨットに、辻馬車を四輪馬車にしただろう。」と評する友人がいたほど、ボルディーニの肖像画は、美しいモデルをさらにエレガントに描き出すものだった。

子供を持つ母であれば、自分の姿だけではなく、子供も含め、美しい姿をボルディーニの肖像画の中に留めたいと望んだことだろう。

当時、「ボルディーニする(boldiniser)」という動詞さえ生まれたといい、大変に高額な代金で彼に肖像画を描いてもらうことが、一つのステイタスとみなされていた状況がうかがわれる。


第1次世界大戦が始まる1914年までベル・エポックと呼ばれる繁栄の時代が続き、ボルディーニも彼のスタイルを変えることなく、人気を保ち続けた。

時にはモデルになった女性の夫が、絵の中の妻の姿が自分たちの階級に相応しくないという理由で、肖像画の受け取りを拒否することもあった。
そうしたことは、サージェントの「マダムX」でも起こったことだったが、すでに確立していたボルディーニの評判を傷つけることはなかった。

20世紀になってから描かれた肖像画でもボルディーニ・スタイルは保たれ、エレガントな女性たちの魅力的な姿が、生命を感じさせる動きを伴い、画布の上に永遠に定着されている。


ボルディーニが同時代の革新的な絵画に無関心だったのではないことは、「月の光の下のニンフ」(下左)、「ベッドで読書する女性」(下中)、「艶なる宴」(下右)といった作品からも推測できる。

ただし、彼はこうした作品を自分のアトリエに保管して世に出すことはなく、注文主に喜ばれる肖像画を中心に画家としての活動を続けた。

その一方で、20世紀前半には、フォーヴィズム、キュビスム、シュルレアリスムといった前衛的な芸術運動が次々に生まれ、徐々に認められるようになっていく。

例えば、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が1907年に制作された時にはほとんど誰の目にも触れなかったが、1925年にシュルレアリスム関係の雑誌に複製が掲載され、1937年にはパリの万国博覧会で公開され、認知されていく。

美術史で取り上げられるのは、ピカソのように絵画の革新と関係した画家や作品であり、ジョバンニ・ボルディーニのように、絵画の伝統に従い、すでに受け入れられている画風を保守的に守り続けた画家は、後の時代には凡庸とみなされ、忘れられてしまうことも多い。
1931年亡くなるボルディーニの晩年には、すでにその兆候が現れていた。

今、私たちは、そうした絵画史とは別の視点で、ベル・エポックを代表する画家ジョヴァンニ・ボルディーニの絵画に接し、パリが最も華やかだった時代の美を体感することができる。
最初に挙げた6人の画家に肖像画を描いてもらったら、誰の作品が一番自分の気に入るだろうか? そんなことを考えながら、絵を見るのも楽しい。


以下のサイトでは、ジョバンニ・ボルディーニのほとんど全ての作品を年代順に見ることができる。

https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_d’œuvres_de_Giovanni_Boldini

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