ランボー 「錯乱1 愚かな乙女」 Rimbaud «Délires I Vierge folle» 2/5 醜悪で残酷になりたい

愚かな乙女(vierge folle)は、地獄の夫(époux d’enfer)に従う不幸を口にした後、今度は夫の言葉をそのまま書き写すことで、彼がどのような人間なのか浮き彫りにする。

その言葉は、作者ランボーが自分の言葉として書くのではなく、愚かな乙女(ヴェルレーヌ)の口を通すことで、ヴェルレーヌから見た地獄の夫(ランボー)の姿を反映していることになる。

 « Il dit : ” Je n’aime pas les femmes. L’amour est à réinventer, on le sait. Elles ne peuvent plus que vouloir une position assurée. La position gagnée, cœur et beauté sont mis de côté : il ne reste que froid dédain, l’aliment du mariage, aujourd’hui. Ou bien je vois des femmes, avec les signes du bonheur, dont, moi, j’aurais pu faire de bonnes camarades, dévorées tout d’abord par des brutes sensibles comme des bûchers… “

「あの人はこう言うのです。『女は好きじゃない。愛情ってのを、もう一度考え直さないといけない。わかっていることさ。女たちが望めるのは、今じゃ安定した立場だけ。その立場が手に入ったら、心も美もそっちのけ。残るのは冷酷な軽蔑さだけ。それが今は結婚生活の餌だ。幸福の印を持っている女たちが目に入ることもある。俺ならあいつらをいい仲間にすることもできただろう。そんな女たちが最初に乱暴者たちにがつがつ食われるんだ。薪の束みたいに感じやすい奴らにさ。』

(朗読は3分40秒から)

最初に語られる夫の言葉は、愛情(amour)について。

地獄の夫によれば、女たちは安定した立場(une position assurée)を手に入れることしか望まず、それが得られてしまえば(gagnée)、後はどうでもよくなってしまう。
そのために、日々の生活の中で、心遣い(cœur)も美しさ(beauté)も横に置いてしまい(mis de côté)、相手を冷たく見下す(froid dédain)ような関係が支配的になっている。
結婚の餌(l’aliment du mariage)というのは、そんな冷たい関係が結婚生活に栄養を与える、つまりそんな関係が続いていることを意味する。

(ちなみに、cœur, beautéのように無冠詞単数の名詞は、概念を示すのが一般的な使われ方である。ランボーは、そうした名詞の使い方をすることで、読者が自分の体験に応じて具体的な事柄や状況を思い描くことを想定しているのだと考えられる。
また、l’aliment du mariage(結婚の糧)はfroid dédain(冷たい軽蔑)の同格と考えられ、普通であれば、le froid dédain, aliment du mariageと最初の名詩に冠詞がつけれれ、同格に置かれた名詞は無冠詞で概念を示すはずだが、ランボーはその関係を逆転している。)

彼によれば、幸福(bonheur)を手にできたかもしれない女たちもいたし、彼女たちといい友だち(de bonnes camarades)になれたかもしれないかった。
しかし、彼女たちが真っ先に、乱暴な男たち(des brutes)に食い尽くされる(dévorées)のを見るのだという。

乱暴な男たちが感じやすく(sensibles)、その様子が薪の束のようだ(comme des bûchers)という表現は、色々に解釈できる。
ある日本語訳では、「火刑台の薪の山のように非情な荒くれ者ども」とあり、別の訳では、「薪の山のように火の点きやすい乱暴者ども」とされている。
つまり、dévorer(食い尽くす), sensible(感じやすい)、bûcher(薪の塊)という言葉の繋がりが一般的ではないために、読者は自分なりの解釈を強いられる。

こうした言葉の使い方こそ、ランボー的だといえる。
単純な構文の文で、単語もごく普通のものなのに、意味がすっと理解できない。それでありながら、文章の勢いに呑み込まれて、気持ちよく読み進んでしまう。
その後、意味を求めていろいろと考えると、深淵の底に隠された宝物を発見するような体験をすることがある。
ランボー体験とは、そうした発見の繰り返しだといえる。


愚かな乙女は、善悪の価値を転換について口にした上で、再び夫の言葉を再現する。

 « Je l’écoute faisant de l’infamie une gloire, de la cruauté un charme. ” Je suis de race lointaine : mes pères étaient Scandinaves : ils se perçaient les côtes, buvaient leur sang. ― Je me ferai des entailles partout le corps, je me tatouerai, je veux devenir hideux comme un Mongol : tu verras, je hurlerai dans les rues. Je veux devenir bien fou de rage. Ne me montre jamais de bijoux, je ramperais et me tordrais sur le tapis. Ma richesse, je la voudrais tachée de sang partout. Jamais je ne travaillerai… » Plusieurs nuits, son démon me saisissant, nous nous roulions, je luttais avec lui ! ― Les nuits, souvent, ivre, il se poste dans des rues ou dans des maisons, pour m’épouvanter mortellement. ― « On me coupera vraiment le cou ; ce sera dégoûtant. ” Oh ! ces jours où il veut marcher avec l’air du crime !

「私はあの人が不名誉なことを栄光にし、残酷さを魅力に変えてしまうのを耳にします。『俺は遠くの種族の人間だ。先祖はスカンジナビアの生まれだった。脇腹を互いに刺し合い、自分たちの血を飲んでいた。ーー 俺は体中を自分で切り刻むだろう。刺青も入れるだろう。蒙古人みたいに醜くなりたい。お前もそのうちわかるさ。俺は道々で大声で叫ぶんだ。怒りで狂ったみたいになりたいんだ。絶対に宝石を見せるな。そんなことをしたら、腹ばいになって、絨毯の上でのたうち回ってしまう。俺の富の至るところに、血の染みを付けたくなってしまう。俺は絶対働かない・・・。』幾晩もの間、あの人の悪魔が私をつかみ、私たちは2人で転がりました。私はあの人と戦っていたのです! ーー そんな夜、あの人はよく酔っ払い、通りや家の中で見張りをし、私を死ぬほど怖がらせます。ーー 『いつか俺の首は本当にちょんぎられるだろうな。そうなったらうんざりだ。』 おお! 近頃、あの人は歩きたがるのです、罪を犯すような様子で!

地獄の夫の望みは何だろう?

(1)乱暴で醜悪になりたい。

スカンジナビア人(Scandinaves)はヴァイキングを思わせる。蒙古人(Mongol)が醜い(hideux)と言ったら現在では人種差別になってしまうが、19世紀後半のヨーロッパでは恐ろしく残忍なイメージを持っていたチンギス・カンを連想させたかもしれない。

体中を切り刻み(je me ferai des entailles partout le corps)、刺青を入れる(je me tatouerai)ことは、脇腹を刺し( se perçaient les côtes)、流れ出る血を飲んだ(buvaient leur sang)祖先からの遺伝だろう。

(2)感情のままに行動したい。
通りで大声で叫び(hurlerai)、狂犬病(rage)にかかったみたいに荒れ狂いたい(fou)。

(3)働きたくない。
決して働かない(je ne travaillerai jamais)という言葉も、体を切り刻むや通りで叫ぶと同様に動詞は単純未来であり、これからそうしたいという希望を表している。

これらの願望が文明とは対極にある野蛮さを求めていることだとすると、絶対に見たくない宝石(bijoux)とは文明のことだと考えられる。
もしそんなものを見せられたら、絨毯(le tapis)の上を這い(ramperais)、のたうちまわり(me torderais)、富み(la richesse)のいたるところ(partout)に血の染みをつけてしまう( tachée de sang)かもしれない。

地獄の夫のこうした願望は、彼が「ほとんど子供(presque un enfant)」であることから来ている。子供だからこそ、精一杯悪がり、虚勢を張ろうとする。ますます悪魔のように振る舞い、悪魔になる。

いく夜も(Plusieurs nuits)、愚かな乙女に掴みかかるあの人の悪魔(son démon)というのは、地獄の夫に取り憑いている悪魔でもあるが、夫そのものでもあるだろう。

彼と愚かな乙女は取っ組み合いの喧嘩をし、転がり回ったり(nou nous roulions)する。
夫は部署につく(il se poste)かのように、至るところで乙女を監視する。
そして、いつか首をはねられるだろう(on me coupera le cou)と思いながらも、悪者ぶって(avec l’air du crime)、通りを闊歩したがる。


愚かな乙女によって描き出される地獄の夫は、あえて不名誉(l’infamie)なことを行い、残忍(la cruauté)であろうとし、そこから栄誉(la gloire)や魅力(un charme)を生み出そうとする。
それは、非金属を黄金に変える錬金術、普通の言葉を詩的言語に変換する言葉の錬金術(alchimie du verbe)と対応する。
その意味で、愚かな乙女(ヴェルレーヌ)が描き出す地獄の夫(ランボー)は、悪を美に変換した『悪の華』の詩人ボードレールの詩法を踏襲していることになる。
(参照:ボードレール 苦痛の錬金術  魔術的クリエーションの原理

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