
人口知能は、大量のデータを蓄積し、そこから最も蓋然性のある答えを導き出す。そのデータ量は人間の記憶できる量とは全く比較できないし、計算(考える)スピードも爆速であり、人間が及ぶものではない。
その視点から考えると、人口知能の方が人間の知能より優れているということになるし、実際、分野によってはすでにロボットが人間の代わりに正確でスピーディーな仕事をしているのと同様に、AIが効率的で正確に仕事をこなすようになるだろう。
しかし、それだからといって、一人一人の人間が考える必要がなくなることは決してない。
例えば、どこかに旅行に行く時、GPT Travel advisorを使えば、滞在したい「場所」と「日数」を入力するだけで、旅行の日程を作成できる。しかも、観光名所の情報が記載され、リンクが貼られ、これまで私たちが何日もかけて調べてきたことを、瞬時に提案してくれる。実際、とても便利に違いない。
だが、誰が入力しようと、同じ場所と日数をインプットする限り、同じ計画がアプトプットされる。要するに、データの最大多数の情報を基準にし、最も普遍的で一般性のある結果が出力されることになる。
従って、その結果が、一人一人の人間の趣味や興味に適合しているものではないかもしれない。

これまで私たちはガイドブックを見て、行きたい場所を選択し、自分で計画を立てたように、GPTを使ったとしても、その結果を参考にしながら、私たち自身が行く先を選択することになることは、以前と変わらない。
どこで何を見るかも、一人一人の人間によって違っている。
ルーブル美術館に行き、1時間で出てくる人間もいるし、1日では足りないと感じる人間もいる。ルーブル美術館の滞在時間は人それぞれであり、たとえGPTで、2時間、次はオルセイ美術館1時間といった計画が立てられたとしても、あくまで参考に留まるしかない。
AIに対してどのような入力をするのかにしても、出力結果をどのように活用するのかにしても、結局は、一人一人の人間が「考える」ことが必要になる。
少なくとも「私」という個人に関することに関して、AIは決して「私」の代わりに考えてくれるものではない。この世にたった一人しかいない「私」に相応しいことを考えうるのは、「私」だけなのだ。
その意味で、「考える力」を養うことは、今後とも必要であり続ける。





