ボードレール 「シテール島への旅」 Baudelaire « Un Voyage à Cythère » 3/3 自分を見つめる力と勇気

第11詩節では、絞首台に吊され、鳥や獣に体を引き裂かれた哀れな姿に向かい、「お前(tu)」という呼びかけがなされる。

Habitant de Cythère, enfant d’un ciel si beau,
Silencieusement tu souffrais ces insultes
En expiation de tes infâmes cultes
Et des péchés qui t’ont interdit le tombeau.

シテール島の住民、この上もなく美しい空の子、
お前は、静かに、数々の屈辱を耐え忍んでいた、
贖罪のためだ、数々の悪名t高き信仰と
様々な罪の。その信仰と罪のため、お前は墓に葬られることを禁じられたのだった。

(朗読は2分40秒から)

シテール島は、誕生したヴィーナスが最初に向かった島で、愛と美を連想させる。だからこそ、島の住民(habitant)は、この上もなく美しい空(un ciel si beau)の子孫のはず。
それにもかかわらず、目の前に見えるのは、目がえぐり取られ、内臓がだらだらと流れ出る姿。

しかし、なぜ、その男が絞首刑にされ、そんな姿のまま晒されなければならなかったのか?

ボードレールは、その理由を、悪名の高い信仰(les infames cultes)のせいだとする。
つまり、キリスト教以前の異教の神々に対する信仰と、その結果もたらされた行為。例えば、キリスト教徒に対する迫害かもしれない。
ここでも、前提としてあるのは、ジェラール・ド・ネルヴァルのエーゲ海諸島紀行におけるヴィーナス信仰に対する熱い想い。
ネルヴァルは、古代の神々への信仰を捨ててしまったために、シテール島は、木々が枯れ、泉が枯れ果て、岩だらけで、神々が消え去り、近づいてみれば、絞首台が見える島になってしまったのだと嘆いた。

ボードレールは、そんなネルヴァルを、「矯正しがたい ジェラール(l’incorrigible Gérard)」と名指し、絞首台の男は、キリスト教の教会から断罪され、墓への埋葬が禁じられた(interdit le tombeau)ため、野ざらしにされたのだとする。

そして、そうした不敬な信仰(les infâmes cultes)や罪(les péchés)の贖罪のため(en expiation)、お前はこれほどの侮辱を耐え忍んでした(tu souffrais ces insultes)のだと、彼に理解を示す。

この遺体はどれほどの苦しみに耐えているのだろう!
そんな思いが、次の詩節で表現される。


Ridicule pendu, tes douleurs sont les miennes !
Je sentis, à l’aspect de tes membres flottants,
Comme un vomissement, remonter vers mes dents
Le long fleuve de fiel des douleurs anciennes ;

Devant toi, pauvre diable au souvenir si cher,
J’ai senti tous les becs et toutes les mâchoires
Des corbeaux lancinants et des panthères noires
Qui jadis aimaient tant à triturer ma chair.

絞首台にぶら下がる滑稽な男よ、お前の苦悩は私の苦悩だ!
私には感じられた、ぶらぶらと揺れるお前の手足を目にして、
吐き気のように、歯の方に再び上がってくるのを、
かつての苦痛から出てくる、毒の長い流れが。

お前のまん前で、愛しい思い出の哀れな悪魔よ、
私は感じたのだ、あらゆる嘴とあらゆる顎を、
しつこいカラスや、黒豹たちの。
やつらはかつて、どれほど私の肉を好んで砕いたことか。

「お前の苦悩は私の苦悩だ!(tes douleurs sont les miennes !)」。
この叫びが、「シテール島への旅」の核心にある。

「私(Je)」は、首を吊られ、様々な屈辱に苦しんでいる男の姿に自分を投影する。いや、それ以上に、絞首台の上の男は、「私」自身だと言ってもいいだろう。

だからこそ、その姿を前にした時には、過去に蒙ってきた苦痛(les douleurs anciennes)から発する毒(fiel)の長い流れ(le long fleuve)が、吐き気のように(comm un vomissement)、口の中に上ってくるのを感じた(je sentis)。

また、カラスの嘴(les becs … des corbeaux)や、黒豹の顎(les mâchoires des panthères noires)が、「私」の肉体をついばみ、食いちぎるように感じた(J’ai senti)。

(感じるという動詞は、最初、単純過去(je sentis)におかれ、今とは断絶した過去の出来事として語られるが、二番目は複合過去(j’ai senti)で、すでに完了しているが、現在の「私」と関係づけられている。)

ただし、お前(tu)と私(je)の一体化に対して、詩人が一定の距離を置いていることに注意したい。
自己の中にある苦しみに完全に飲み込まれるのではなく、その姿を外から眺めているからこそ、絞首刑の男の姿を滑稽(ridicule)と形容し、愛しい思い出の哀れな悪魔(pauvre diable au souvenir si cher)という呼びかけができる。
その距離がなければ、苦しみに圧倒され、詩を書くことなどできくなってしまう。


第14詩節では、この詩の種明かしがされ、最後の第15詩節になると、詩人の祈りが捧げられる。

– Le ciel était charmant, la mer était unie ;
Pour moi tout était noir et sanglant désormais,
Hélas ! et j’avais, comme en un suaire épais,
Le cœur enseveli dans cette allégorie.

Dans ton île, ô Vénus ! je n’ai trouvé debout
Qu’un gibet symbolique où pendait mon image…
– Ah ! Seigneur ! donnez-moi la force et le courage
De contempler mon cœur et mon corps sans dégoût !

— 空は魅力的で、海は波一つなかった。
私にとっては、全てが暗黒で血にまみれていた。
ああ! 私の心は、分厚い死衣裳に身を包んでいるかように、
このアレゴリーの中に埋葬されていた。

あなたの島の中で、おお、ヴィーナスよ! 私が発見したのは、立っている
象徴的な絞首台だけだった。そこには、私の姿がぶら下がっていた。・・・
— ああ! 主よ! 私に力を勇気を与えたまえ、
自分の心と体を、嫌悪することなく、じっと見つめる力と勇気を。

ギリシアの空(le ciel)と海(la mer)は美しい。しかし、「私」にとっては全てが暗く(noir)、血にまみれていた(sanglant)。
この対比は、夢と目覚めの対比と並行関係にあり、ネルヴァルの紀行文に由来する詩全体の構造を要約する。

その後、ネルヴァルがヴィーナスに対する信仰へと話を進めるのに対して、ボードレールは自己の内面に踏み込んでいく。
つまり、ボードレールの「シテールの旅」のテーマが、「心(le cœur)」であることが明かされる。その点については、詩を最初の言葉を思い出すと納得することができる。
その言葉とは、「私の心(mon cœur)」。

その直後に、シテール島の絞首台にぶら下げられ、カラスや黒豹に肉体を食いちぎられる男の姿が、アレゴリー(allégorie)なのだと、種明かしがされる。

アレゴリーとは、ある概念を具象的な事柄によって表現する寓意。
ここでは、ボードレールの心の底に潜む苦しみ、悪、醜悪さが、シテール島の絞首台の場面によって具体的に描かれていることになる。

。。。。。

第15詩節では、絞首台(le gibet)が象徴的(symbolique)であるとされ、そこに、私の姿(mon image)を付け加えることで、その映像が「私の心」のアレゴリーであることが、さらに明確に示される。

その姿は、「獰猛な鳥たちが、獲物の上にとまり(De féroces oiseaux perchés sur leur pâture)」で始まる第8詩節から始まり、ここまで繰り返し描き出されてきた。
目を背けたくなるような映像は、私自身の姿(mon image)なのだ。

その自分を自覚するからこそ、ボードレールは、この詩の最後に、主なる神(Seigneur)に向かい、力(la force)と勇気(le courage)を与えてくださいと、祈りの言葉を捧げる。

何をするための、力と勇気なのか?

彼が望むのは、嫌悪することなく(sans dégoût)、自分の心(mon cœur)と自分の体(mon corps)をじっと見つめ、しかも、

心だけではなく、体にも触れていることは、鳥や野獣に食いちぎられる肉体が苦痛のアレゴリーでもあることから来ている。
心と体を二元論的に分離するのではなく、むしろ、心と体が連動していることを前提にしてるのだ。

そして、最も重要なことは、自分の中にうごめく悪や醜を嫌悪するばかりに、そこから目を背けるのではなく、醜い絞首台の光景を凝視する「力」と「勇気」を持つこと。

そのことこそが、いつか、絞首台をギリシアの空と海の中に溶け込ませ、シテール島の旅を美しい思い出に変換することにつながる。

「シテール島への旅」の最後に置かれた詩句は、「悪の華」が咲くことを願うボードレールの、心からの祈りに他ならない。



意外に思われるかもしれないが、「羅生門」や「鼻」を書いた時期の芥川龍之介の言葉は、ボードレールの「シテール島への旅」を理解を助けてくれる。

それもそのはずで、大学3年生に創作活動を開始した時期についての思い出の中では、「シテール島への旅」の最後の詩句がフランス語のまま引用されている。

彼等(エドガー・ポーとボードレール)の耽美主義は、この心に劫(おびや)かされた彼等の魂のどん底から、やむを得ずとび立つた蛾の一群(ひとむれ)だった。従つて彼等の作品には、常に Ah ! Seigneur, donnez-moi la force et le courage / De contempler mon cœur et mon corps sans dégoût ! と云ふせつぱつまつた嘆声が、瘴気(しょうき=毒気)の如く纏綿(てんめん=絡みつくこと)していた。 (「あの頃の自分の事」)

芥川は、ボードレールの詩句に「せっぱつまった嘆声が、瘴気の如く纏綿」とする雰囲気を感じ取り、そこに、どん底の魂から飛び立つ蛾をイメージする。
飛び立つのが蝶ではなく蛾であることは、シテール島の絞首台のおぞましい姿が映像化されると、悪の華として開花することにつながるだろう。

それは、羅生門の上に広がる地獄絵が、ぞっとする光景でありながら、地獄草紙のような美をまとうのと並行関係にある。

「鼻」に関して、芥川は、友人に宛てた手紙の中で、こんな風に書いている。

僕は鼻で身体的欠陥の為にたえずvanityのなやまされてゐる苦しさを書かうとした haupt(注:主要)なるはそこである。さうして、その点では僕も十分に成功したとは思つていない ただ実際身体的欠陥に(いかに微細なものでも)悩んだ事のある人は、幾分でも内供の心もちに同感してくれるだらうと思う。僕はあの中に書きたくもない僕の弱点を書いてゐる点で それだけの貧弱な自信はある。

鼻という身体の一部が、心の抱える問題のアレゴリーだと告白する。
としたら、「鼻」という作品は、彼が、「自分の心と体を、嫌悪することなく、じっと見つめる力と勇気」を持ったからこそ生まれたものだと言うことができる。

「ある阿呆の一生」には、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」という有名な言葉が書き付けられているが、それほどまでにボードレールの詩句が、芥川に大きな力を及ぼしたことがわかる。

それと同時に、芥川の言葉が、ボードレールの理解の人にへと私たちを導いてくれることも確かである。
そして、その教えの中心にあるのが、「自分の心と体を、嫌悪することなく、じっと見つめる力と勇気を与えてください。」という祈りだと考えても、間違いではないだろう。

芥川龍之介に見えるのは、次のような世界であり、自分なのだ。

周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人は、そのままに生きることを強いられる。一切を神の仕業とすれば、神の仕業は悪むべき嘲弄だ。
(大正4(1915)年3月9日付け、九井川恭宛の手紙)

僕は霧をひらいて、新しいものを見たやうな気がする。しかし不幸にして、その新しい国には醜い物ばかりであった。僕はその醜い物を祝福する。その醜さの故に、僕は僕の持っている、そして人の持っている美しい物を、更によく知る事が出来たからである。しかもまた、僕の持っている、そして人の持っている醜い物を、更にまたよく知ることが出来たからである」
(大正4(1915)年3月12日付け、井川恭宛の手紙)

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