考える力と書くこと 2/2 AIで代用できない「この私」の思考

人口知能は、大量のデータを蓄積し、そこから最も蓋然性のある答えを導き出す。そのデータ量は人間の記憶できる量とは全く比較できないし、計算(考える)スピードも爆速であり、人間が及ぶものではない。
その視点から考えると、人口知能の方が人間の知能より優れているということになるし、実際、分野によってはすでにロボットが人間の代わりに正確でスピーディーな仕事をしているのと同様に、AIが効率的で正確に仕事をこなすようになるだろう。

しかし、それだからといって、一人一人の人間が考える必要がなくなることは決してない。
例えば、どこかに旅行に行く時、GPT Travel advisorを使えば、滞在したい「場所」と「日数」を入力するだけで、旅行の日程を作成できる。しかも、観光名所の情報が記載され、リンクが貼られ、これまで私たちが何日もかけて調べてきたことを、瞬時に提案してくれる。実際、とても便利に違いない。
だが、誰が入力しようと、同じ場所と日数をインプットする限り、同じ計画がアプトプットされる。要するに、データの最大多数の情報を基準にし、最も普遍的で一般性のある結果が出力されることになる。
従って、その結果が、一人一人の人間の趣味や興味に適合しているものではないかもしれない。

これまで私たちはガイドブックを見て、行きたい場所を選択し、自分で計画を立てたように、GPTを使ったとしても、その結果を参考にしながら、私たち自身が行く先を選択することになることは、以前と変わらない。
どこで何を見るかも、一人一人の人間によって違っている。
ルーブル美術館に行き、1時間で出てくる人間もいるし、1日では足りないと感じる人間もいる。ルーブル美術館の滞在時間は人それぞれであり、たとえGPTで、2時間、次はオルセイ美術館1時間といった計画が立てられたとしても、あくまで参考に留まるしかない。

AIに対してどのような入力をするのかにしても、出力結果をどのように活用するのかにしても、結局は、一人一人の人間が「考える」ことが必要になる。

少なくとも「私」という個人に関することに関して、AIは決して「私」の代わりに考えてくれるものではない。この世にたった一人しかいない「私」に相応しいことを考えうるのは、「私」だけなのだ。
その意味で、「考える力」を養うことは、今後とも必要であり続ける。

(1)読むこと

ある能力を高めるためには、現状よりも多少の負荷をかける必要がある。
読書に関しても、何も考えずにすっと読める本もあるし、難し過ぎて途中で止めてしまう本もある。「読むこと」を通して頭の回転を高めるために、自分にとって適切な負荷のある本を選ぶことが条件になる。

A. 負荷のない文

現在の日本において、「考える力」は、児童からビジネスマンまで、様々なレベルで要求されている。

子どもの場合、親との会話が大切で、次のようなことが提案される。
1. 気づきや疑問を、考えるきっかけにする ( どうしてこうなったんだろうね?)
2. ゆっくり考えさせる
3. 子どもと一緒に答えを探す ( 私はこう思うんだけど、あなたはどう思う?)

社会人には、以下のような提案がなされている。

1. 常に疑問を持つ 2. 具体と抽象を行き来する 3. 思考の癖に気づき、改善する 4. ビジネス・フレームワークを使えるようになる

1. 考えてから行動する習慣をつける 2. 自分の言動や行動にきちんと責任をもつ 3. 人の話や助言にきちんと耳を傾ける 4. 能動的にアクションを起こす癖をつける 5. 周囲に対して興味や関心を持つようにする

1. 読書をしたり、新聞を読む 2 .物事をよく見て「気づく力」を身につける 3. 常に疑問を持つ 4. 疑問から適切な答え(解決策・対処法など)を出す 5. 自分自身を客観的に見つめる 6. 人間観察を怠らない 7. 複数の作業を同時に進行してみる 8. ストレスを蓄積させない

1. 知らないニュースを調べる 2. 目標を定める 3. ディベート思考を心掛ける 4. 読書をする  5. ボキャブラリーを増やす 6. 数字を使う 7. 手帳を使う  8. フェルミ推定をしてみる 9. 人の話に耳を傾ける 10. 考えてから行動する 11. 能動的に行動する 12. 周囲の人や物に興味を持つ 13. 自分の言動に責任を持つ 14. 地図を使う

これらの項目を見ると、要するに、社会人としてこれくらいのことは必要という要素を列挙し、その中にいくつかそれなりの言葉を挟むことで、信頼性を得ようとしているらしいことがわかる。
例えば、フェルミ推定という用語を使うことで、「明確な答えのない問いについて考える」とするよりも、’学術的’に感じられる。

そうした仕掛けを考慮に入れたとしても、こうしたHow to物の特色は、分かりやすいこと。一読してさっと理解でき、「ああ、そうか。」と思える。
読む者にとって負荷ががかからない。
一冊の本であったとしても、2-3時間もあれば、ざっと目を通すことができる。なぜなら、すでにどこかで見たり聞いたりしたことを思い出させる項目が列挙され、理解に時間を要することはないからだ。

皮肉な言い方になるが、「考える力を身につけるために読書をする」という文を読んでも、「考える力を育成する」ことはない。なぜなら、何も考えなくても、その文を理解できるから。

B. 負荷の必要性

「ある程度の負荷をかけないと、力は向上しない。」 これが原則だといえる。

負荷の重さは、一人一人によって違うので、一般的にどの本を読めばいいとは言えない。
この文を書いている私がそうした考え方を抱いているのは、たぶん、柄谷行人による「単独性」という概念に馴染んでいるからだと思われる。

 私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜けおちている。(中略)
 私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性(this-ness)を単独性(singularity)と呼び、それを特殊性(particularity)から区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。たとえば、「私がある」(1)と「この私がある」(2)とは違う。(1)の「私」は一般的な私のひとつ(特殊)であり、したがってどの私にも妥当するのに対して、(2)の「私」は単独性であり、他の私と取り替えができない。むろん、それは、「この私」が取り替えのできないほど特殊であることをすこしも意味しない。「この私」や「この犬」は、ありふれた何の特性もないものであっても、なお単独的(singular)なのである。
柄谷行人『探求 II 』

最初にこの文を読んだ時には、私にとってかなり負荷が高かった。
しかし、「この性(this-ness)」という考え方が魅力的であったため、何とか理解しようと努め、「 特殊」とは違う「単独」という概念を自分の中で消化することができた。
その結果、今は、何かを考えるとき、「これ」は他のものと特別違いはないけれど、決して他のものでは取り替えがきなかいと自然に考える思考プロセスが、自分の中に出来上がっている。

例えば、毎日会っている猫のアカは、普通の猫だし、特別な何かを持っているわけではない。しかし、私にとって、アカは猫一般の中の一匹(特殊)ではなく、取り替えのきかない「このアカ」なのだ。
他方、関係のない人から見れば、アカが死んでも、別の猫がいればいいということになる。その場合、アカは、「一般性の中の特殊な個体」と捉えられていることになる。

私にとっては「単独」であるものが、他者にとっては「特殊」でしかないという経験は、誰しもが持っているに違いない。
しかし、柄谷の単独性という概念を知るまで、私はそのことをはっきりと理解できていなかったし、言葉で説明することもできなかった。
負荷をかけて『探求 II』を読んだことで、それまでは未知だった考え方を理解できる頭の動きを習得し、それ以降に出会う出来事に関して、「単独性」の視点から考察するようになったのだった。

個人的な経験でしかないが、こうした思考の働きを習得することが、「考える力」を向上させるために有益だったと、私は考えている。

(2)書くこと

「読む」が受信だとすると、「書く」は発信ということになる。
そして、発信の際、「考える」という行為がより強く意識される。

本当に個人的な経験でしかないが、メモも何も書かず、頭の中で何かを考えていると、20-30分程度すると考えが堂々巡りし、それ以上新しい発想が浮かばなくなってしまう。
考えを進めるためには、「書くこと」が有益な作業になる。

ただし、単に何かを書いたとしてもまとまりがなく、考えが横滑りし、熟することは少ない。
子どものころの読書感想文で、書き始めからどんどんテーマがずれてしまい、最後は何を書いているのかわからなくなることがった。出だしと終わりがまったく違うこともしばしばで、結局、何を言いたいのわからないという状態。
これでは、「書くこと」が「考えること」の向上にはつながらない。

B.  「選択」と「整理」 — 全体の構想を立てる

そうした状態を避けるためには、書くことの全体像を最初に構想しておくことが必要になる。

まず思いつくことをメモし、できるかぎりその数を増やしていく。
考えることの基礎には知識があり、多くの知識があることで思考の幅が広がるのと同じだといっていい。

その後、「選択」と「整理」の作業が加わる。
その作業は、ChatGPTのような人工知能の出力結果と、一人一人の人間が考え書くものとの最大の違いを生み出す。

ChatGPTは、集積された言語データの中から、最大公約数の情報を抽出し、量的に最も適性が高い順番に並べていく。
入力される言葉が同じであれば、誰が入力しても、結果は同じになる。

それに対して、私たちが選択をする場合、その基準には必ず私たちの感受性や考え方など様々な要素が関係する。
何を選び、どのように並べ、自分の考えを相手に伝えるかは、一人一人で違ってくる。
さらに、文体にも癖があり、一人として同じ文章を書くことはない。
柄谷の表現を使えば、それは「この私のこの文」に他ならず、他の人間にとっては一般論の中の特殊な考えかもしれないが、「この私」にとっては「単独」なものなのだ。

いずれにしても、様々な「知識」から「選択」し、論理的な筋道に従って「整理」することで、自分の考えを自覚すると同時に、相手に考えを明確に伝えることができる。
そのような作業は、思いつくままに文を書くのとは違う効果を及ぼすに違いない。

C. 「発展」と「修正」

書く前に全体像を構成しても、書いていくうちに「脱線」していくことがある。一見すると、思いつくままに書いている時と同じように思われるのだが、しかし、整理した後だと、「脱線」は違う意味を持つ。

書き始める前に考えていることはまだ頭の中の考えに留まっているが、その内容を書き進めるにつれて「整理」された内容がさらに「発展」することがある。
明らかに「書くこと」が「発展」を促したのであり、その場合には、最初に「整理」した構想を離れても、思考の流れに従った方がいい結果になることが多い。

ただしそのままで終わってしまうと、出発点と終着点で整合性がないものになってしまう。
そこで、「発展」が一段落ついた後、もう一度全体像を整理し直す「修正」が必要になる。
再度整理された全体像に基づき、以前書いたものを手直ししながら、再び終点に向かって書いていく。

こうした作業はかなりの負荷がかかるが、しかし、書く前には考えてもいなかったような結果に到達することもしばしばある。

。。。。。

このように考えてくると、「考える力」とは、抽象的なものではないことがわかってくる。

一般論として「考える力」といっても意味がなく、なんらかの問題に対して、できる限り多くの「知識」を蓄え、その中から「選択」し、「整理」する。
その段階で終わるのではなく、「書くこと」を通して、さらに「発展」させ、「修正」した全体像に従って最後まで「書くこと」で、最初に考えた問題について、書く前よりも一歩進んだ考えを持ち、自分に対しても、他者に対しても、はっきりと表明することができるようになる。

そのような作業を反復することで、具体的に作業をしなくても、一つの課題に対して思考が自動的に動き出し、「選択」「整理」「発展」などが行われるようになる。
「この私」の思考がその都度発動する。その具体的な動きが、「考える力」だといえる。


最後にもう一度ChatGPTについて考えてみよう。

質問した問題に対する回答は、膨大な量の知識の中から最大公約数に従ったものになる。そのために、一般論としては適合性が高い。

例えば、「自分で考える力のない人の特徴は何ですか?」という問いかけに対して、次のような回答が戻ってくる。


多くのHow to本や関連するサイトで書かれていることが網羅され、きちんと提示されている。

次に、「考える力を向上させるための方法は何ですか?」という質問をしてみよう。回答にかかった時間は1.5秒。

この回答も、至る所に書かれているHow toを的確に押さえ、整理されていると言っていい。

では、一般論として適合する回答を読み、それを実行しようとすることが、「考える力」の向上につながるのだろうか?

最初に書いたように、ChatGPTから出力された文を読む時、思考に負荷がかかることはなく、すっとそのまま理解できる。そして、思わず納得してしまわないだろうか?

もしそうであれば、「なぜ?」と問いかけ、多角的な視点で問題を見直し、これらの項目が論理的に順序立てて並べられているか等、重要なアドヴァイスを実践することを忘れている。
つまり、考えることを停止していることになる。

もしこのアドヴァイスに説得力があるとしたら、それはなぜか? 論理的だと思われるとしたら、なぜか?
そうしたことを考えることは、「この私」の「考える力」が働いているかどうかの目印になる。

最初に書いたように、AIは決して「私」の代わりに考えてくれるものではなく、「この私」に相応しいことを考えうるのは、「この私」だけなのだ。
としたら、それぞれの事柄について、より広く、より深く、よりよく考えられるようになることは、「この私」にとって楽しく、有益なことに違いない。

考える力と書くこと 2/2 AIで代用できない「この私」の思考」への2件のフィードバック

  1. 考人 2023-04-24 / 16:29

    chatgptについて書かれた文章を探していたら、偶然発見しました。
    大変面白く読みました。
    仰る通り、「考える」という行為がどの位相にあるかは難しい問題だと思います。「20-30分程度すると考えが堂々巡りし、それ以上新しい発想が浮かばなくなってしまう。」とあって、これはあるあるだ!と膝を打ちました。書くこと以外にも、散歩やぼーっとしてるときなどに思考が進むことがあるから不思議です。
    柄谷行人の単独性の概念を、Chatgpt(AI)と書くことに絡める所も、なるほど!となり面白かったです。

    いいね: 1人

    • hiibou 2023-04-27 / 18:20

      コメント、ありがとうございました。
      散歩している時に思考が進むというのは、ジャン・ジャック・ルソーの言うところでもあります。最近は、歩きながらスマートフォンで音楽を聴いてしまうことが多く、なかなか実感できませんが。。。

      いいね

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