歴史を振り返り 世界の今を知る 3/3

(歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3 から続く)

D. 18世紀後半から19世紀前半:ロシアとアメリカ合衆国

18世紀後半になると、新たに二つの国が台頭し、19世紀にはイギリスやフランスに並ぶ大国として国際政治の中で重要な役割を担うようになった。それがロシアとアメリカ合衆国である。

この二国は、歴史的な背景こそまったく異なるが、18世紀後半から19世紀前半にかけて急速に領土を拡大した点では共通している。また、その拡大の方法にも類似性がある。西欧諸国が遠隔地を植民地化するのに対し、ロシアとアメリカは自国に隣接する地域を次々と自国領に編入していったのである。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 2/3

欧米諸国が「国際社会」のルールを形成してきたのに対し、近年では「グローバル・サウス」という言葉が用いられ、欧米の価値観や世界観とは異なる主張が一定の支持を得るようになってきた。
こうした変化に対する評価は、立場や視点の違いによって分かれるのが当然であり、一方が自由や人権を訴えても、他方は搾取やダブルスタンダードを指摘し、双方が納得する結論に達することは容易ではない。

ここで問題にしたいのは、こうした二つの世界観の対立が、16世紀以来の世界の歴史に起源を持つという点である。歴史を振り返ることで、二つの世界の根底に植民地主義の構造が存在していることが見えてくる。
植民を行った側とされた側を大まかに分けるなら、前者は現在のG7を中心とする国々、後者はグローバル・サウスの地域ということになる。

ただし、そこには例外もある。たとえばアメリカ合衆国は、もともと植民された側であったにもかかわらず、現在ではその立場が逆転している。また、ロシアや中国の歴史的背景や現在の位置づけも、それぞれに特異なものがある。こうした点も、歴史をたどることで理解が深まる。

歴史を振り返ることで、私たちは現在を理解するための手がかりを得ることができる。言い換えれば、私たちは今、歴史の連続性の中にある「現在」という時間を生きているのだ。

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歴史を振り返り 世界の今を知る 1/3

どこの国でも同じことだが、一つの環境に身を置いていると、限られた視点からの情報にしか触れることができず、そのことにすら気づかないことが多い。
「情報過多の時代」と言われるものの、実際には視野の狭さは、以前とそれほど変わっていないのかもしれない。

日本にいると、「国際社会」という言葉がいまだに頻繁に使われ、欧米中心の世界観が現在でも国際的に認められていると思い込みがちである。
その結果、少なくとも国の数の上では、そうした状況が変化しつつある、あるいはすでに変化していることに気づかないままでいることが多い。
さらに、たとえ「国際社会」のダブルスタンダードに気づいたとしても、それをやり過ごしてしまう。欧米の価値観を基準に物事を判断する習慣から抜け出せず、抜け出そうともしない。

こうした中で、日本の価値観や世界観は、欧米の側に位置づけられている。そのため、「G7唯一のアジアの国」という表現が一種の誇りのように語られ、民主主義や自由といった価値がことさら重視される。
一方で、日本独自の価値観にも言及されることがあり、「欧米出身者が日本のここを評価した」「あそこに驚いた」といった内容が、マスコミやSNSを通じて盛んに発信される。こうした情報の発信元や評価の主語は、たいてい欧米出身者であり、それ以外の地域の人々が取り上げられることはほとんどない。
そのような二重基準の背景には、欧米諸国の人々に対する劣等コンプレックスと、それ以外の地域の人々に対する根拠のない優越コンプレックスがあるにもかかわらず、そこに無自覚なままでいることが多い。

こうした世界的な状況は、象徴的に言えば、「1492年のコロンブスによる新大陸の発見」に端を発する、西欧諸国による世界戦略に由来していると考えられる。
それ以来、ヨーロッパの国々はアフリカ大陸、アメリカ大陸、アジア各地を次々と植民地化し、支配してきた。その構造は、経済的には現在に至るまで形を変えて持続している。

ここでは、そうした歴史の流れを大まかに振り返りながら、現在の世界がどのような状態にあるのかを、先入観にとらわれずに理解することを目指したい。

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日本の歴史 超私的概観 (10) 幕末から明治へ

幕末から明治へと移行する中で、政治体制が大きく変化しただけでなく、一般の人々の生活様式を含む文化全体も大きく様変わりした。
この変化を広い視野で捉えると、飛鳥時代以来約1300年間続いてきた中国文化の影響から離れ、西洋の文化圏へと移行したことに他ならない。
別の視点から見れば、東アジアの端にある島国の日本が、もはや欧米列強の世界戦略とは無関係でいられなくなったことを意味している。

19世紀に入り、外国船が日本に頻繁に来航するようになり、とりわけ1853年に浦賀沖に現れたペリーの黒船に象徴される開国の要求以降、江戸幕府は鎖国政策の転換を迫られるようになっていった。
同じ頃、薩摩藩や長州藩などいくつかの藩では、有能な下級武士を登用して藩政改革に成功し、幕府に対抗し得る実力を備えつつあった。
そうした状況の中で、徳川時代を通じて政治の表舞台に立つことのなかった朝廷の存在感が次第に増し、明治維新後には、天皇が政治の中心に位置する国家体制が形成されていくことになる。

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日本の歴史 超私的概観 (9) 幕末から明治へ  植民地化の危機を前にして 

江戸幕府は初期に開始した鎖国政策を継続していたが、19世紀に入ると、西欧諸国によるアジアへの植民地政策に対応を迫られるようになった。

一方では、圧倒的な軍事力を持つ欧米列強に対して断固たる拒否を貫き、攘夷、すなわち夷人(いじん)を攘(はら)い、外国勢力を排除しようとする主張があった。
もう一方では、妥協的な態度を取り、何らかの条約を結ぶという現実主義的な立場があった。
こうした対立が、最終的に江戸幕府を倒し、明治維新をもたらした一つの要因になる。

国内に目を向ければ、幕府および諸藩の財政は恒常的に逼迫しており、農民に対しては年貢を、商人に対しては上納金を過重に課すことで財源の確保を図った。
しかし、その結果として農民一揆が頻発し、都市部においても打ちこわし等の破壊的な民衆運動が勃発するなど、社会的混乱が継続的に生じていた。

このような情勢下において、薩摩藩や長州藩などの一部有力藩では、有能な下級武士を登用し、内部改革に着手することで藩政の再建を図った。
これにより、これらの藩は次第に政治的・軍事的な実力を蓄積し、幕府に対抗し得る勢力として台頭していくこととなる。

明治維新後、国家形成の主導的役割を担ったのは、こうした改革過程において頭角を現した若年層の下級武士たちであり、彼らは新政府の中枢を構成することとなった。

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日本の歴史 超私的概観 (8) 江戸時代 後半 幕藩体制の揺らぎ 外国文化の足音

江戸時代の後半、幕藩体制の土台が揺らぎ始めると同時に、鎖国を続けていた日本にも、少しずつ外国文化の影響が入り込んでくるようになった。

幕藩体制について言えば、商業活動の活発化は、幕府や藩の経済だけでなく、武士たちの社会的な立場をも危うくすることとなった。
江戸時代前半には幕府が藩を支配する封建体制が確立し、武士の兵士としての役割は終わりを迎えていたが、彼らの主な収入源は農民から取り立てる年貢に限られ、自ら商売などをして収入を得る道は閉ざされていた。
その一方で、町人の経済力は増大し、武士階級が町人階級に依存するような状況さえ生まれ、幕藩体制は次第に弱体化していった。

外国文化の影響について見ると、当時の人々の暮らしの中に直接入り込むことはほとんどなかったものの、学問や芸術の世界ではその影響がはっきりと現れていた。
特に絵画の分野では、古くから続く日本独自の表現方法に新しい風が吹き込み、大きな変化が生まれたことは注目に値する。

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日本の歴史 超私的概観 (7) 江戸時代 前期 美意識の形成

江戸時代前期には幕藩体制が確立し、儒教精神が武士だけではなく平民にまで浸透した。16世紀の戦国時代が終わり、社会全体が安定期に入る中で、人々の生活様式も変化し、それにともない文化的な表現も前の時代とは異なったものになっていく。

武士階級においては、幕府の圧倒的な支配の下で戦闘要員という本来の役割を果たす場がなくなり、藩主から俸禄を受領することで生計を立てる非生産者となる。
農民は幕府や藩からの様々な統制にもかかわらず、新田開発や治水・感慨事業、そして農業技術の向上により生産性を増し、農産物を商品として流通させることも可能になる状況が生まれた。
そうした動きに連動し、商業活動も活発化し、街道の整備や貨幣経済の発展にともない、大規模な商売で富を獲得するなどして、町人が経済の実験を握る状況なども生まれ始めた。

このように人々の生活が安定するに従い、京都の宮廷や武士階級だけではなく、都市の住民も、絵画や演劇、読み物などといった文化活動に参加するようになっていく。
江戸時代前期において、その中心は上方、つまり京都と大阪にあり、江戸は徳川幕府と関係するものに限られていたといってもいいだろう。

江戸時代というとどうしても江戸中心に考えてしまがちだが、大和朝廷以来の伝統を考えると、上方から江戸への移行が一気に行われたわけではないことは、むしろ自然なことだと言える。

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Kiss my ass トランプ大統領が関税の交渉に来る他国に対して使った表現

一方的に関税を引き上げることを宣言したアメリカのトランプ大統領が、交渉を希望する他国に対して使った表現 « Kiss my ass »を、ChatGPTに様々なレベルで翻訳してもらいました。

(1)日本語に翻訳してください。

「Kiss my ass」はかなり強い口調のスラングで、日本語に訳すときには文脈に応じていくつかの言い方があります。直訳すれば:

  • **「俺の尻にキスしろ」**ですが、

これはそのまま使うと非常に露骨で、不自然です。日本語らしい言い方にすると:

  • 「ふざけんな」
  • 「バカにすんなよ」
  • 「なめんなよ」

などが一般的な意訳になります。状況に応じて、もっと柔らかくしたり、逆にもっと攻撃的にもできます。どんな場面で使いたいですか?それに合わせて調整できますよ。

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日本の歴史 超私的概観 (6) 江戸時代 前期 封建制度の確立

織田信長と豊臣秀吉によって戦国時代にほぼ終止符が打たれ、戦国大名が各地で勢力を振るった時代から、再び幕府が全国を支配する中央集権制度が確立する時代へと移行する。

その過程において最も大きな転機となったのは、1600年に起こった関ヶ原の戦いだった。
豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍が、現在の岐阜県に位置する関ヶ原を初めとして各地で戦闘を繰り広げ、最終的に東軍が勝利を収めた。
その結果、強大な権力を掌握した徳川家康は、1603年、京都の朝廷から” 征夷大将軍 “に任命され、江戸に幕府を創設する。

江戸時代の前期、幕府が最も力を尽くしたのは、徳川家が代々世襲する将軍が、各地の藩を統治する大名たちと封建的主従関係を結び、”幕藩体制”と呼ばれる支配体制を確立することだった。

徳川政権が採用した様々な施策は、政治体制だけではなく、庶民の日常生活や精神性、そして芸術の分野にも大きな影響を及ぼし、私たちが現在 “日本的”と感じる多くの要素の源になっている。

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社会的人間関係の相対性と党派性 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

明治維新直後、福沢諭吉は、混乱する日本が欧米の侵略に抗して独立を保つため、欧米から何を学ぶべきかを考究したのだが、その中で、日本及び日本人のあり方についても鋭い洞察を行った。

ここでは、上下関係に基づく社会的な人間関係についての考察を取り上げ、現在の私たちにも関係する人間関係について考えてみよう。

『文明論の概略』第9章「日本文明の由来」では、社会的な上下関係によって態度を変える人間の様子が描かれている。

政府の吏人(りじん)が平民に対して威を振るふ趣(おもむき)を見ればこそ権あるに似たれども、此の吏人が政府中に在りて上級の者に対するときは、其の抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚(なお)甚(はなはだ)しきものあり。(中略) 甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極(きゅうきょく)あることなし。

福沢諭吉の時代には、官vs民の上下関係は揺るがしようがなく、役人が一般の庶民に対して権力を振るうのが当たり前だった。
また、役人たちの中にも上下があり、庶民に威張り散らしていた人間が、上司からは威張り散らされる。
そんな風に、社会的な人間関係はその場その場の上下関係によって循環するのだと福沢は言う。

2025年には「財務省解体デモ」があり、Xの投稿に導かれた人々が中央官庁の官僚に対して抗議するメンタリティーも醸成されているが、こうした動きがエリートvs庶民という構図に基づいていることは、明治維新直後と変わりがない。
もしかすると、デモ参加する群衆の中には、自分たちよりも弱い立場にいる人間、例えば外国人労働者に対しては、排斥を訴えている人がいるかもしれない。

もしも福沢がそうした様相を目にすることがあれば、「強圧抑制の循環、窮極あることなし」と言うに違いない。

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