マラルメ 白鳥のソネ 「手付かずのまま、生き生きとした、美しい今日が」 Mallarmé Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui 白鳥(詩人)の肖像

マラルメの詩はとにかく難しい。というか、何が書いてあるのかほぼ不明だということが多い。それにもかかわらず高く評価され、20世紀以降の文学の始祖のように見なされることもある。
理解不可能に思える詩を書いた詩人に、なぜそうした高い評価が与えられるのだろうか?

ここでは、マラルメの目指した「詩」について考えながら、理論の実践として、「手つかずのままで、生き生きとした、美しい今日(le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui)」を読んでいこう。

実際、この詩も、他のマラルメの詩と同様、普通に読んだだけでは意味がほとんどわからない。
その一方で、音色についてははっきりとした特色があり、14行のソネット全ての詩行で [ i ]の音が何度も耳を打つ。

Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d’aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n’ont pas fui !

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ボードレール 「陽気すぎる女(ひと)へ」 Baudelaire « À celle qui est trop gaie » 自然な女性の美を前にした芸術家の願い

「陽気すぎる女(ひと)へ(A celle qui est trop gaie)」は、1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が出版された際、公衆道徳に違反するという理由で裁判に裁判にかけられ、削除を命じされた6編の詩の一つ。
そのため、猥褻と判断された詩句は、19世紀半ばの社会道徳を知る手掛かりになる。

しかし、それ以上に興味を引かれるのは、ボードレールが、ここで歌われている女性に匿名の手紙を出し、この詩を彼女に贈ったこと。
つまり、「陽気すぎる女(ひと)へ」は、現実に存在する女性を対象として書かれ、実際にその女性に送られたのだ。しかも詩人は自分の名前を隠し、匿名で。

その女性とは、アポロニー・サバティエ(Apollonie Sabatier)夫人。
彼女は、彫刻家オーギュスト・クレザンジェが1847年にサロンに出品し、大きなスキャンダルを引き起こした「蛇に噛まれた女(Femme piquée par un serpent)」のモデルとして一躍有名になり、パリの上級階級や芸術家たちの間で、女性大統領(La Présidente)とあだ名される存在だった。
蛇に噛まれて激しく身をよじる女性の肉体は、アポロニーの体から直接石膏で型を取ったものだと言われている。

Auguste Clésinger, Femme piquée par un serpent

ボードレールがサバティエ夫人と知り合ったのは1849年頃らしい。
「陽気すぎる女へ」を転写した手紙を送ったのは1852年12月9日。それ以降も6編の詩を贈っているのだが、ずっと匿名のままだった。
しかし、1857年に『悪の華』が裁判にかかり、ボードレールは、有力者たちを多く知るサバティエ夫人の助力を求めるために、とうとう詩の作者が自分であることを明かした。

その後の展開はどのようになるのか? 
「陽気すぎる女へ」を読んだ後から、二人のその後を辿ってみよう。

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ボードレール 「忘却の河」  Baudelaire « Le Léthé » 忘却への誘い

愛する女性の髪に顔を埋め、その香りに包まれたい。ボードレールはそんな望みをいくつかの詩の中で歌っている。

例えば、「異国の香り(Parfum exotique)」。

Quand, les deux yeux fermés, en un soir chaud d’automne,
Je respire l’odeur de ton sein chaleureux,

両目を閉じる、秋の暖かい夕べ、
そして、香りを吸い込む、お前の熱い胸の、

ボードレール 「異国の香り」 Charles Baudelaire « Parfume exotique » エロースの導き

あるいは散文詩「髪の中の半球(Un hémisphère dans une chevelure)」。

Laisse-moi respirer longtemps, longtemps, l’odeur de tes cheveux, y plonger tout mon visage, comme un homme altéré, dans l’eau d’une source, et les agiter avec ma main comme un mouchoir odorant, pour secouer des souvenirs dans l’air.

ずっと、ずっと、お前の髪の香りを吸わせておいてくれ、髪の中に顔を沈めさせておいてくれ、喉の渇いた男が泉の水に顔を浸すように。この手でその髪を揺らさせておいてくれ、香り高いハンカチを振るように、思い出を空中に撒き散らすために。

ボードレール 「髪の中の半球」 Baudelaire « Un Hémisphère dans une chevelure » 散文で綴った詩

「忘却の河(Le Léthé)」もこの二つの詩と同じ願いを歌う詩だが、1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が出版された際、風俗を乱すという罪に問われ、詩集から削除することを命じられた。

「異国の香り」は問題にならず、「忘却の河」が断罪されたとすると、この詩のどこが問題だったのだろう?

Viens sur mon cœur, âme cruelle et sourde,
Tigre adoré, monstre aux airs indolents; 
Je veux longtemps plonger mes doigts tremblants 
Dans l’épaisseur de ta crinière lourde ;

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フランス語の詩の音楽性 その2 音色

私たちは普段あまり意識しないのだが、言葉の音色を敏感に聞き取り、その音色が意味の理解も影響を与えている。

その例として、源実朝の和歌を取り上げてみよう。

大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも

ooumino / isomo todoroni / yoshuru nami // warete kudakete / sakete chirukamo

大海(o-o-u-mi-no)という最初の5音の中だけで3つの[ o ]の音が重ねられ、読者は大きな海へと誘われる。
さらにその音は、次に7音でも5回反復し、続く5音の中にも1回現れる。
その反復は、大きな波が磯に何度も何度も押し寄せる光景を、音によって体感させる効果を発揮する。

後半の 7/7では、[ e ]の音を中心に、 re – te – ke -te -ke -teとここでも波が打ち寄せ、割れ、砕け、裂ける感じが、音を通して伝わってくる。

そして、最後の最後になり、「散るかも(mo)」と [ o ]の音が再び現れ、ばらばらに砕けた波のイメージが最初の大海原へと収束する。

『私家版日本語文法』の中で井上ひさしがしてくれたように解説されないとなかなか気付かないことが多いのだが、実朝の歌が私たちに強い印象をもたらす理由に一つに、こうした言葉も音の効果がある。

フランスの詩人たちは、源実朝に劣らず詩句の音楽性に敏感であり、リズムだけではなく、音色にも細心の注意を払った。
(リズムに関しては フランス語の詩の音楽性 その1 リズム
だからこそ、フランス語の詩を楽しむためには、音色を意識することも大切な要素になる。

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フランス語の詩の音楽性 その1 リズム

歌を聞くとき、私たちはメロディーと歌詞の両方に注意を向けている。歌詞が好きでなかったら聞く気がしないし、メロディーが好みでなければ、歌詞は好きでも好んでその歌を聞こうとは思わない。

詩も歌と同じで、言葉が伝える「意味」と同様に、言葉の作り出す「音楽」も重要な要素。とりわけ、フランス語の詩では音楽性が重視される。

ところが、日本ではせっかくフランス語で詩を読みながら、詩句のリズムや音色に注意を払わず、意味にばかり注目する傾向にある。
意味が不明な詩を選び、あれこれとひねくり回して意味を考えたりもする人たちさえいる。
素晴らしい詩を読みながら、詩句の美しさには無関心ということもさえある。

歌詞とメロディーの両方を好きでなければ歌を好んで聞こうとは思わないように、意味と音楽の両方を好きでなければ詩を好きにはなれないし、意味の理解もままならない。

せっかくフランス語で詩を読むのであれば、詩句の奏でる音楽も楽しみたい。
そんな思いで、ここでは、フランス語の詩句のリズムと音色について、考えてみたい。

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ロンサール マリーへのソネット Pierre de Ronsard « Je vous envoie un bouquet » 時は移りゆく、だからこそ今・・・

ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard)の生きたフランスの16世紀は、ルネサンスの時代。
神中心の世界観に支配された中世が終わり、人間の価値が認められようとしていた。

ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化の復活を指す言葉だが、ル・ネッサンス=再び生まれるとは、神の世界だけに価値が置かれるのではなく、人間という存在にも目が向けられることを意味していた。

イタリア・ルネサンスの画家ミケランジェロの「アダムの創造」は、その価値観の転換をはっきりと示している。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたそのフレスコ画では、神とアダムが上下に描かれるのではなく、並行に位置し、互いに腕を伸ばし、指が触れようとしている。
このアダムの姿は、人間に対する眼差しが、神に並ぶところまで高められたことをはっきりと示している。

そのことは同時に、時間の概念が変化したことも示している。
神の時間は「永遠」。
それに対し、人間の時間意識では、一度過ぎ去った時間は戻ってこない。時間は前に進み、近代になれば、その流れは「進歩」として意識される。
ルネサンスの人々は、それまでの「円環」的に回帰する時間意識を離れ、「直線」的に前に進む時間の流れを強く意識するようになった最初の世代だった。

そうした世界観の大転換の中に、ロンサールはいた。
そして人間という存在に対する価値の向上に基づいて、神への愛ではなく、一人の美しい女性に向けた恋愛詩を書いたのだった。

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フランス詩の朗読に酔う Apollinaire « Le Pont Mirabeau », lu par Jean Chevalier

コメディー・フランセーズの俳優たちが詩を朗読しているサイトがあり、数多くの詩の朗読を楽しむことができる。

その中でも、Jean Chevalierの« Le Pont Mirabeau »は素晴らしい。
顔の表情や体の動きが、詩句の意味、リズム、メロディーと一つになり、私たちを思わずうっとりとさせてくれる。

詩の内容については、以下の項目を参照。
アポリネール 「ミラボー橋」の美を探る Guillaume Apollinaire « Le Pont Mirabeau »

マリー・ローランサン 「鎮静剤」 Marie Laurencin « Le Calmant »

マリー・ローランサン(Marie Laurencin)の「鎮静剤(Le Calmant)」。
フランス語を聞きながら、掘口大學の訳を読んでいくと、それ以上の説明が何もいらない、といった感じさえする。

映像は、西島秀俊がペール・ラシェーズ墓地を歩いている場面。
掘口大學とマリー・ローランサンとの恋愛の足跡を追って、雑誌記者の西島がパリを中心にブルッセルやマドリードも訪れるといった趣向のドラマ「堀口大學 遠き恋人に関する調査」から。

Marie Laurencin « Le Calmant »

Plus qu’ennuyée Triste.
Plus que triste Malheureuse.
Plus que malheureuse Souffrante.
Plus que souffrante Abandonnée.
Plus qu’abandonnée Seule au monde.
Plus que seule au monde Exilée.
Plus qu’exilée Morte.
Plus que morte Oubliée.

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 5/5 神は生まれ変わる?

Zurbaran, Le Christ en croix

「オリーブ山のキリスト」の5番目のソネットはこの詩全体の結論となる部分であり、どのような解決がもたらさせるのだろうか? 
ここまで4つのソネットを辿ってきた読者は、ユダの裏切りと、それに続くピラトによる判決の後、キリストの苦しみが十字架の上で終わりを迎えるのかどうか、興味を引かれるだろう。

しかし、ネルヴァルは全く違う展開を構想した。
第4ソネットの最後に置かれた「その狂人(ce fou)」という言葉を受けた上で、古代ギリシアやオリエントの神々、つまりキリスト教が誕生する以前の神々を思い起こさせる。

その理由を知るためには、第1四行詩に秘められた暗示を読み説くことから始めなければならない。

V

C’était bien lui, ce fou, cet insensé sublime…
Cet Icare oublié qui remontait les cieux,
Ce Phaéton perdu sous la foudre des dieux,
Ce bel Atys meurtri que Cybèle ranime !

V

確かに彼、あの狂人だった。正気を失った崇高な者。・・・
あの忘れられたイカロス。彼は天の駆け上った。
あのパエトン。彼は神々の雷の下で打ち落とされた。
あの美しいアッティス。死んだ彼を、キュベレーが生き返らせる!

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 4/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

Salvator Dali, Christ de saint Jean de la Croix

第4詩節に進むと、大変に意外な展開が待っている。 

ここでは、ユダが姿を現す。
ユダはイエスを裏切り、イエスは捕らえられ、十字架に架けられる。ユダと聞けば裏切り者と誰もが連想する。

ところが、ネルヴァルの描くユダは「目覚めた者」。
彼の裏切りは、イエスが自分を敵に売り渡すようにユダを強いたからだとされる。
そこにはどんな理由があり、ネルヴァルは何を考え、キリスト教の教義と反する展開にしたのだろう?

IV

Nul n’entendait gémir l’éternelle victime,
Livrant au monde en vain tout son cœur épanché ;
Mais prêt à défaillir et sans force penché,
Il appela le seul – éveillé dans Solyme :

IV

誰一人、この永遠の犠牲者がうめくのを耳にしてはいなかった。
心の内を人々に打ち明けたが、無駄だった。
気を失いうようになり、力なく体を前にかがめ、
主は「たった一人の男」に声を掛けた、— エルサレムでただ一人目を覚ます者に。

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