アポリネール 「ミラボー橋」の美を探る Guillaume Apollinaire « Le Pont Mirabeau »

ギヨーム・アポリネールの「ミラボー橋」« Le Pont Mirabeau »(1913)は、作者であるアポリネールと恋人のマリー・ローランサンの恋愛が消え去っていく哀しみを、セーヌ河の流れに例えて歌った恋愛しとして、今でもよく知られている。

この詩のベースにあるのは、人間の思いにもかかわらず、時は流れ去ってしまい、二度と戻って来ないというテーマ。(La fuite du temps)

そのテーマの中で、16世紀のロンサールはCarpe Diem(今をつかめ)という意識から美を生みだし、19世紀のラマルティーヌは過去に対するメランコリックなあこがれから美を生み出した。
では、20世紀初頭のアポリネールは、どのように美を作り出したのだろうか。

詩の内容は、ミラボー橋の下を流れるセーヌのように、私たちの恋も流れ去ってしまう、私はここにずっと立ち止まっているのに、という平凡なもの。

作者であるアポリネールが、詩人で画家でもあるマリ・ローランサンと別れた後に書いた詩であることから、彼等の恋愛を歌ったものと言われている。

実際、セーヌ河にはミラボー橋がかかり、橋のたもとには、この詩の第一詩節を刻んだ板が置かれている。

しかし、そのような一般的な理解では、「ミラボー橋」が20世紀初頭に書かれたことの意味がまったく考慮されていない。いつの時代にも書かれる、失恋の歌でしかない。

では、そうしたありふれた恋の歌でありながら、「ミラボー橋」は今でも高く評価されているのはなぜだろうか。アポリネールは、時間の消失のテーマに則りながら、どのような美を生み出したのだろうか。

その美を探るために、20世紀初頭、アポリネールやローランサンと交友関係になった画家達の絵画を見ていこう。

Picasso
Léger
Braque
Derain

こうした絵画に共通する要素は、現実の事物や人物を再現しようということが目的ではないといことである。キャンバスの上の色彩と形体が現実とは違う様相を示し、描かれたままの姿の喚起力に価値が置かれている。

アンリ・ルソーは、アプリネールとローランサンを描いているが、決して現実的な肖像画とはいえない。

Henri Rousseau

詩人でもあるマリー・ローランサンは画家でもあった。彼女の絵も、再現性を目指してはいない。

Marie Laurencin

「ミラボー橋」もこうした絵画と同じ時代の精神性が宿した詩だと考える必要がある。16世紀のルネサンスとも、19世紀のロマン主義とも異なった時代。
そのことを考慮して詩を読むと、どのように読むことができ、アポリネールがどのようにして美を生みだそうとしたのか、理解できるに違いない。


第一詩節とリフレイン

Sous le pont Mirabeau coule la Seine
Et nos amours
Faut-il qu’il m’en souvienne
La joie venait toujours après la peine.

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

ミラボー橋の下 セーヌ河が流れる
そして 私たちの愛も
思い出さないといけないのか
喜びが来るのはいつだって苦しみの後だった

夜よ来い 時よ鳴れ
日々は過ぎ去っていく 私は留まる

セルジュ・ レジアニの朗読を聞くと、詩句の美しさを実感できる。

まずこの詩は伝統を踏まえた内容を表現している。
セーヌ河の流れのように時は過ぎ去るという内容は、時間が否応なく過ぎ去っていくという伝統的な詩のテーマ(La fuite du temps)を踏まえている。
例えば、16世紀の詩人ロンサールの有名な詩「愛しい人よ、さあ、バラを見に行こう」。
https://bohemegalante.com/2019/03/09/ronsard-mignonne-allons-voir/
時と共に愛も消え去っていくというのも、ごくありふれた内容にすぎない。

その上で、「思い出」に言及するのは、ラマルティーヌの「湖」を連想させ、失われた過去に理想の時を設定する、ロマン主義的なテーマだといえる。
https://bohemegalante.com/2019/03/18/lamartine-le-lac/

その後の詩句がvenaitと半過去形になり、過去に置かれていて、愛が終わったことが示されている。これも「湖」と同じ手法である。

しかし、反伝統を見逃してはならない。
最初に気付くことは句読点がないこと。これはアポリネールが伝統的な詩法、書記法から離れることの宣言といえる。
次に、第二詩節が韻を踏んでいないように見えること。他方、Seine, souvienne, peineは韻を踏んでいる。

この破格も故意になされている。4つの詩節の音節を数えると、10/4/6/10。ところが、第2詩節と第3詩節を足すと10音節になる。つまり、4行に見えるが、もともとは10音節の詩句3行だった。

実際、アポリネールの手書きの原稿を見ると、最初は句読点があり、三行詩で韻を踏んでいた。

ゲラの段階で句読点を消し、第二詩句を二行(4/6)に割り、4行詩にしたことがわかる。アポリネールは伝統から反伝統への移行を、意図的に行ったのである。

このように、アポリネールはあえて伝統的な詩のテーマを取り上げた上で、それを違った形にし、新しい詩をめざした。では、どのような詩が生み出されたのだろうか。


第2詩節

Les mains dans les mains restons face à face
Tandis que sous
Le pont de nos bras passe
Des éternels regards l’onde si lasse

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

手と手をつなぎ 見つめ合っていよう
でも 腕で作った
橋の下を 流れていく
永遠に見つめ合う視線に 疲れてしまった水の流れが
(リフレイン)

この詩節をどのように解釈したらいいのだろうか。

まず、現実の再現性を放棄している点に注目しよう。
同時代(20世紀前半)の絵画を見るとわかるように、現実を画布に写し取るという芸術観はなくなっている。

ピカソの有名な「ゲルニカ」からも、そのことを理解することができる。

Picasso, Mural del Gernika

「ミラボー橋」では最初、ミラボー橋やセーヌ河という固有名詞が出てきて、いかにも現実のミラボー橋やセーヌ河を舞台にしているかのように思われる。

ほとんどの解説が現実に基づいている。アポリネールは橋の上に立ち、セーヌ河の流れを見、マリー・ローランサンとの終わった恋に思いをはせるという解釈。

しかし、20世紀前半の絵画を見れば、作品の中に描かれているものが現実を具体的に再現するという時代ではなくなっている。アポリネールも同じ精神に基づき、作品内の世界を現実から独立させたはずである。

そこで彼は、詩の中にもう一つの(ミラボー)橋を作った。「私たち」が手を取り合って作る橋。その下を水の流れ(l’onde)が流れていく。こうして詩の中に新しい橋が作られ、現実から自立した新しい世界が出来上がる。

次に、時間と永遠の関係を考えてみよう。

「ミラボー橋」は、詩の伝統的なテーマである「時間の消失」に基づき、時間の流れをセーヌ河の水の流れと重ね合わせ、失恋の悲しみを歌っていると考えられるのが普通である。
実際、時間の流れを表現する動詞が数多く使われている。couler, s’en aller, courir, passer等。

しかし、その一方で、永遠を暗示する表現も存在する。
手を組み、顔と顔を正面に向け合って留まっていよう(restons face à face)という最初の詩句も、愛が永遠であってほしいという願望に他ならない。
その後、永遠の(éternel)という形容詞も使われる。

ところが、永遠という言葉が出た後、すぐに疲れた(las)という言葉が現れ、倒置構文を普通の語順にするとlas des regards éternelsとなる。つまり、永遠の視線に疲れる、ということになる。

実はこの部分にはいろいろな解釈があり、それぞれの翻訳も提示されてきた。

堀口大學
疲れたまなざしの無窮の時が流れる

窪田般弥
永遠の眼ざしをした/ あんなに疲れた波が流れる

福永武彦
疲れた波は/永遠の眼指流れもしようが

飯島耕一
永遠の眼差しのあんなにも疲れた波が通って行く

大學は、名詞と形容詞の関係を入れ替え、l’onde éternel des regards lasと理解し、明らかに原文の意味を変えている。
他の三人は、l’onde des regards(眼差しの流れ)と考え、永遠の眼差し「の」疲れた流れという理解をした。

ここではやはり、las des regardsを眼差しで疲れたと考えたい。つまり、この世においては永遠も疲れる、ということになる。

もう一歩進むと、別の解釈も可能になる。
時間が流れ、恋が終わるは悲しい。しかし、永遠に見つめ合っている幸福も疲れるという皮肉な解釈もできる。
永遠に続く理想的な愛を求めたとしても、現実の世界ではどんなに激しい愛もいつかは疲れ、そして流れていってしまう。
恋が失われるのは悲しいけれど、長く続く愛もいつか疲れを覚える。
どちらにしても、時は流れ、私はその中に留まり続けるしかない。
そんな悲しみをrestonsとlasから読み取ることができる。

最後に、言葉が言葉を裏切る点に注目しよう。
時間の中では全てが流れ去り、変わっていく。詩の最後でも、流れ去った時間は二度と戻って来ないと歌われる。しかし、この詩はそうした内容をわざと裏切るのである。

それが最もはっきりと示されるのは、リフレインの存在。
Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure
このリフレインが4度繰り返される。
つまり、戻らないという言葉を、詩自らが裏切るのだ。こうした言葉の使い方も、現実を再現あるいは参照しない言葉と同様、20世紀文学を特徴付けるものといえる。


第3詩節

L’amour s’en va
Comme la vie est lente
Et comme l’Espérance est violente

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

愛は過ぎ去る 
ここを流れる水のように愛は過ぎ去る
生きる時間はなんとゆっくりと流れることか
「希望」はなんと激しいことか。
(リフレイン)

ここでも、時は過ぎ去るというテーマが反復される。
恋もセーヌの流れのように過ぎ去ってしまう。そして、再び時間の流れに言及される。しかし、その言葉の内容とは反対に、言葉自体は何度も反復される。

L’amour s’en va.という文はそのままの形で二度繰り返される。
全く同じ文を反復するのは詩人の意図するところ。従って、翻訳で何かを付け加えるのは訳しすぎだと言わざるをえない。
例えば、窪田般弥は、「恋はすぎる (・・・) 恋はすぎ去る」とする。
このようにあえて変化させるのは、詩人の意図を裏切ることになる。というのも、戻ってこないと言いながら、全く同じ表現を何度も反復すること、つまり言葉がそれ自体の意味する内容を裏切るところに、20世紀芸術の面白さがあるからである。

第3詩節では、commeも三回反復される。

さらに興味深いのは、la vie est lente – violente。意味も形も違うが、音的には類似している。朗読を聞けば、vi, lenteが反復するのが確実に耳につく。
アポリネール自身の朗読で聞いてみよう。

しかも、その後ですぐにまたリフレインが続く。言葉が言葉を裏切り続けるのである。


第4音節

Passent les jours et passent les semaines
Ni temps passé
Ni les amours reviennent
Sous le pont Mirabeau coule la Seine

Vienne la nuit sonne l’heure
Les jours s’en vont je demeure

日々は過ぎゆく 週(日本語の表現なら月日の方が適切)が過ぎゆく
過ぎ去った時間も
恋も戻ってこない
ミラボー橋の下 セーヌが流れる
(リフレイン)

「ミラボー橋」の詩句は、時の流れは戻ってこないというテーマを歌いながら、言葉はこれでもかというほど戻って来る。
passerは3度。そして、第1詩節の1行目が、そのままこの詩の最後に戻る。
また、第2行目の« Et nos amours »が、« les amours » という形で反復される。こうしたことを通して、「ミラボー橋」が表現する現代的な美がわかってくる。

その美は、何よりもまず、現在性 ー 今にある。

時間の流れを前にして、アポリネールはロンサールともラマルティーヌとも違った姿勢を取る。
ルネサンスのロンサールは、「今」を捉えることで、時間を永遠にしようとした。(プラトニスム的)
19世紀前半のロマン主義の時代において、ラマルティーヌは思い出を理想とし、永遠に失われた過去にメランコリックなあこがれを美として表現した。

それに対して、アポリネールの詩で描かれるのは、現在のみ。永遠という言葉も、思い出という言葉も使われるが、実際にあるのは現在だけである。流れ去る時間と永遠の対立はなく、時(セーヌ)は流れ、私(ミラボー橋)は留まり、「今」だけがある。
従って、「ミラボー橋」に、現実と不在の理想(イデア)という二元論はない。

そして、何よりも、「ミラボー橋」は言葉の世界である。
そして、詩の内部の世界は、現実から自立している。

「ミラボー橋」の詩句は、時は戻ってこないと歌ながら、同じ詩句が何度も戻ってくる。言葉が自分を裏切るということは、見方を変えると、言葉が現実の事象を指し示すのではなく、言葉そのものとして自立していることを暗示している。

ミラボー橋やセーヌ河が、パリにある現実の橋や川を指しているのではなく、詩の中に新しい橋や川を作りだしているのである。
新しい世界では、現実も理想もない。あるのは、テクスト内の一元論的な世界のみ。それは同時代の絵画と時代精神と完全に対応している。

Chagal
Matisse

ミラボー橋という現実の橋を、詩の中で、腕の橋(le pont de nos bras)に置き換えることも、詩の中の世界が現実からの自立していることを暗示している。
「永遠の視線に疲れる」las des regards éternelsも、現実とイデアに基づく二元論的世界観への訣別と考えられる。

セーヌ河の流れは、消え去るのではなく、持続する。そして、詩はその持続(la durée)を歌う。

私たちが現実と意識している世界では、時間は時計によって計られ、誰に対して同じ速度で流れていく。それに対して、19世紀後半から20世紀前半にかけて、ベルクソンを中心に持続(la durée)という考えが提示された。

私たちが生(なま)に生きている時間は、時計の時間ではなく、生命をもった生きた時間という考え。測ることができず、客観視もできず、ある意味では、私たち一人一人の生命の動きそのもの。そこには現実も非現実もなく、ただ生きることがあるだけ。

持続をもし描くことが可能だとしたら、ダリ的になるしかない。

Dali
Dali

アポリネールが「ミラボー橋」で描いた世界は、あえて過去のテーマ(時間の消失、思い出)などを取り上げ、伝統に則っているように見せながら、実は20世紀前半の世界観を反映している。

過ぎ去りながら、しかも反復し、とどまる時間こそ、人間が生きる時間=持続(durée)である。
その「生」こそ美の源泉に他ならない。
シャガールにもマチスにもダリにも「生」が感じられ、「ミラボー橋」にも同じ「生」が流れている。


個別の体験と普遍性

アポリネールが「ミラボー橋」を書いたのは、それまで恋愛関係にあったローランサンと別れた直後と言われている。

L’amour s’en va comme cette eau courante.
愛は流れていき、2度と戻って来ない。

またローランサンの方でも、愛の悲しみを「鎮静剤」という詩にした「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。」

読者は、2人の愛と別れを知り、「ミラボー橋」も「鎮静剤」もなるほどと思うだろう。そして、現実の体験から二つの詩が生まれたことを、ほぼ全ての読者が信じることになる。

しかし、お互いに失恋の苦しみを告白し、個人的な思いを述べただけの詩にこれほど心を打たれるだろうか。
実際、「ミラボー橋」は多くの読者の心を打つ。それは、個人の思いでありながら、一般性を持つからに違いない。

アポリネールがマリーのことを思いながら詩を書いたとき、彼は現実のマリーを思いながらも、「彼の心の中にいるマリー」に語りかけた。日々は過ぎ、愛も過ぎていくけれど、ぼくはいつまでもここにいる(Les jours s’en vont Je demeure)、と。
その相手は、現実のマリーかもしれないが、詩の中では、「私たち」の愛としか言われず、決して直接名指されてはいない。

では、それがなぜ一般性を持ちうるのか。それを知るためには、文学理論の助けを借りる必要がある。

ボードレールによれば、絵画は現実にあるものを忠実に画布の上に再現するのではない。現実は辞書つまり素材にすぎずない。その素材を創造力によって組み立て直し、新しいものを作り出さないといけない。
別の観点からすると、歴史と小説の区別の区別。歴史は現実に忠実なもの。小説はフィクション。

以上の考え方のベースには、アリストテレスの『詩学』に書かれた「歴史」と「詩」の区別がある。

「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異がある。(。。。)詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである。(。。。)普遍的とは、どのような人物にとっては、どのようなことがらを語ったりおこなったりするのが、ありそうなことであるのか、あるいは必然的なことであるのか、ということである。」(『詩学』)

歴史は一回性のものであり、一般性がない。
詩(フィクション)は実際の起こる可能性のあることが書かれており、そのために普遍性がある。

以上の理論を踏まえた上で、アポリネールとローランサンの例を考え直してみよう。
もし2人の間の生(なま)の告白であれば、2人だけの問題で、一回性のもの。多くの読者に当てはまる普遍的な詩にはならない。しかし、創造的な想像力により具体的な体験を素材として、新しい世界(フィクションのミラボー橋)を創造する。その詩は、これまでの恋人たちやこれからの恋人たちの心の苦しみを表現する可能性を持つ。普遍性を持ち、多くの人の心に訴えかける詩になる。

ただし、最初から普遍性を狙い、現実にいる数多くの読者を狙っていけない。
これもボードレールの理論に従って考えていこう。
一般的な読者を想定すると、すでに出来上がっている一般論に創作者の考えを当てはめるだけになる。それでは、それぞれの具体的な様相が欠け、個別性がなくなってしまう。
一般論は非人称の他者を対象にしているため、かえって誰にも届かないことになってしまう。

アポリネールがもし一般論として失恋の詩を書いていたら、「ミラボー橋」は生まれなかっただろう。他方、マリーとの現実の体験を詩にしただけでは、一般性を獲得できない。具体的な存在を含み込んだ「自分の中のマリー」を愛の対象とすることで、現実の体験を素材にしながら、フィクションの世界を作り出した。そのことで「ミラボー橋」は個別的でありながら、普遍性を持ったのだと考えることができる。

単独な体験を歌いながらも普遍的である詩は、20世紀初頭の時代精神とも連動している。アポリネールとローランサンの現実から離れ、現実の再現ではなく、言葉が作り出す新たな「現実」を作り出しているのである。

「ミラボー橋」の美は、アポリネールの個人的な体験に基づきながら、20世紀初頭の「生」の流れを捉え、美を生み出したのだった。


コメディー・フランセーズの俳優Jean Chevalierの朗読も素晴らしい。もっとも美しいかもしれない。


フランス語での解説

アポリネール 「ミラボー橋」の美を探る Guillaume Apollinaire « Le Pont Mirabeau »」への2件のフィードバック

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