フランス語の詩の音楽性 その1 リズム

歌を聞くとき、私たちはメロディーと歌詞の両方に注意を向けている。歌詞が好きでなかったら聞く気がしないし、メロディーが好みでなければ、歌詞は好きでも好んでその歌を聞こうとは思わない。

詩も歌と同じで、言葉が伝える「意味」と同様に、言葉の作り出す「音楽」も重要な要素。とりわけ、フランス語の詩では音楽性が重視される。

ところが、日本ではせっかくフランス語で詩を読みながら、詩句のリズムや音色に注意を払わず、意味にばかり注目する傾向にある。
意味が不明な詩を選び、あれこれとひねくり回して意味を考えたりもする人たちさえいる。
素晴らしい詩を読みながら、詩句の美しさには無関心ということもさえある。

歌詞とメロディーの両方を好きでなければ歌を好んで聞こうとは思わないように、意味と音楽の両方を好きでなければ詩を好きにはなれないし、意味の理解もままならない。

せっかくフランス語で詩を読むのであれば、詩句の奏でる音楽も楽しみたい。
そんな思いで、ここでは、フランス語の詩句のリズムと音色について、考えてみたい。

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ロンサール マリーへのソネット Pierre de Ronsard « Je vous envoie un bouquet » 時は移りゆく、だからこそ今・・・

ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard)の生きたフランスの16世紀は、ルネサンスの時代。
神中心の世界観に支配された中世が終わり、人間の価値が認められようとしていた。

ルネサンスとは、古代ギリシア・ローマの文化の復活を指す言葉だが、ル・ネッサンス=再び生まれるとは、神の世界だけに価値が置かれるのではなく、人間という存在にも目が向けられることを意味していた。

イタリア・ルネサンスの画家ミケランジェロの「アダムの創造」は、その価値観の転換をはっきりと示している。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたそのフレスコ画では、神とアダムが上下に描かれるのではなく、並行に位置し、互いに腕を伸ばし、指が触れようとしている。
このアダムの姿は、人間に対する眼差しが、神に並ぶところまで高められたことをはっきりと示している。

そのことは同時に、時間の概念が変化したことも示している。
神の時間は「永遠」。
それに対し、人間の時間意識では、一度過ぎ去った時間は戻ってこない。時間は前に進み、近代になれば、その流れは「進歩」として意識される。
ルネサンスの人々は、それまでの「円環」的に回帰する時間意識を離れ、「直線」的に前に進む時間の流れを強く意識するようになった最初の世代だった。

そうした世界観の大転換の中に、ロンサールはいた。
そして人間という存在に対する価値の向上に基づいて、神への愛ではなく、一人の美しい女性に向けた恋愛詩を書いたのだった。

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フランス詩の朗読に酔う Apollinaire « Le Pont Mirabeau », lu par Jean Chevalier

コメディー・フランセーズの俳優たちが詩を朗読しているサイトがあり、数多くの詩の朗読を楽しむことができる。

その中でも、Jean Chevalierの« Le Pont Mirabeau »は素晴らしい。
顔の表情や体の動きが、詩句の意味、リズム、メロディーと一つになり、私たちを思わずうっとりとさせてくれる。

詩の内容については、以下の項目を参照。
アポリネール 「ミラボー橋」の美を探る Guillaume Apollinaire « Le Pont Mirabeau »

マリー・ローランサン 「鎮静剤」 Marie Laurencin « Le Calmant »

マリー・ローランサン(Marie Laurencin)の「鎮静剤(Le Calmant)」。
フランス語を聞きながら、掘口大學の訳を読んでいくと、それ以上の説明が何もいらない、といった感じさえする。

映像は、西島秀俊がペール・ラシェーズ墓地を歩いている場面。
掘口大學とマリー・ローランサンとの恋愛の足跡を追って、雑誌記者の西島がパリを中心にブルッセルやマドリードも訪れるといった趣向のドラマ「堀口大學 遠き恋人に関する調査」から。

Marie Laurencin « Le Calmant »

Plus qu’ennuyée Triste.
Plus que triste Malheureuse.
Plus que malheureuse Souffrante.
Plus que souffrante Abandonnée.
Plus qu’abandonnée Seule au monde.
Plus que seule au monde Exilée.
Plus qu’exilée Morte.
Plus que morte Oubliée.

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 5/5 神は生まれ変わる?

Zurbaran, Le Christ en croix

「オリーブ山のキリスト」の5番目のソネットはこの詩全体の結論となる部分であり、どのような解決がもたらさせるのだろうか? 
ここまで4つのソネットを辿ってきた読者は、ユダの裏切りと、それに続くピラトによる判決の後、キリストの苦しみが十字架の上で終わりを迎えるのかどうか、興味を引かれるだろう。

しかし、ネルヴァルは全く違う展開を構想した。
第4ソネットの最後に置かれた「その狂人(ce fou)」という言葉を受けた上で、古代ギリシアやオリエントの神々、つまりキリスト教が誕生する以前の神々を思い起こさせる。

その理由を知るためには、第1四行詩に秘められた暗示を読み説くことから始めなければならない。

V

C’était bien lui, ce fou, cet insensé sublime…
Cet Icare oublié qui remontait les cieux,
Ce Phaéton perdu sous la foudre des dieux,
Ce bel Atys meurtri que Cybèle ranime !

V

確かに彼、あの狂人だった。正気を失った崇高な者。・・・
あの忘れられたイカロス。彼は天の駆け上った。
あのパエトン。彼は神々の雷の下で打ち落とされた。
あの美しいアッティス。死んだ彼を、キュベレーが生き返らせる!

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 4/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

Salvator Dali, Christ de saint Jean de la Croix

第4詩節に進むと、大変に意外な展開が待っている。 

ここでは、ユダが姿を現す。
ユダはイエスを裏切り、イエスは捕らえられ、十字架に架けられる。ユダと聞けば裏切り者と誰もが連想する。

ところが、ネルヴァルの描くユダは「目覚めた者」。
彼の裏切りは、イエスが自分を敵に売り渡すようにユダを強いたからだとされる。
そこにはどんな理由があり、ネルヴァルは何を考え、キリスト教の教義と反する展開にしたのだろう?

IV

Nul n’entendait gémir l’éternelle victime,
Livrant au monde en vain tout son cœur épanché ;
Mais prêt à défaillir et sans force penché,
Il appela le seul – éveillé dans Solyme :

IV

誰一人、この永遠の犠牲者がうめくのを耳にしてはいなかった。
心の内を人々に打ち明けたが、無駄だった。
気を失いうようになり、力なく体を前にかがめ、
主は「たった一人の男」に声を掛けた、— エルサレムでただ一人目を覚ます者に。

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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 3/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の三番目のソネットでも、主イエスの独白が続く。

その中で、まず最初に、「運命(Destin)」と「必然(Nécessité)」と「偶然(Hasard)」に対する呼びかけが行われる。

III

« Immobile Destin, muette sentinelle,
Froide Nécessité !… Hasard qui, t’avançant
Parmi les mondes morts sous la neige éternelle,
Refroidis, par degrés, l’univers pâlissant,

III

「不動の「運命」よ、お前は無言の見張りだ、
冷たい「必然」よ!・・・ 「偶然」よ、お前は進んでいく、
永遠の雪に覆われた死の世界の中を、
そして、じょじょに宇宙を冷やし、宇宙は色を失っていく。

(朗読は1分37秒から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 2/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の2番目のソネット(4/4/3/3)は、主イエスの独白によって構成される。従って、「私(je)」が主語であり、一人称の語りが続く。
言い換えると、三人称の物語ではなく、個人的な体験談ということになる。

第1のソネットで明かされた神の死の「知らせ(la nouvelle)」を受け、「私」は確認のため、神の眼差しを求め、宇宙を飛び回る。
その飛翔の様子は、すでに見てきたジャン・パウルの「夢(le songe)」 の記述をベースにしている。しかし、ここでも前回と同じように、最初は読者がそうした知識を持たないことを前提し、詩句を解読していこう。

II

Il reprit : « Tout est mort ! J’ai parcouru les mondes ;
Et j’ai perdu mon vol dans leurs chemins lactés,
Aussi loin que la vie en ses veines fécondes,
Répand des sables d’or et des flots argentés :

II

主は言葉を続けた。「全ては死んだ! 私はあらゆる世界を駆け巡った。
銀河の道を飛翔し、彷徨った、
はるか彼方まで。生命が、豊かな血管を通して
金の砂と銀の波を拡げていくほど彼方まで。

(朗読は1分から)
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ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 1/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

現代の読者がジェラール・ド・ネルヴァルの「オリーブ山のキリスト(Le Christ aux oliviers)」を読み、詩の伝える内容を理解し、詩句の味わいを感じ取ることができるのだろうか?

こんな風に自問する理由は、ネルヴァルという作家・詩人は作品の根底に、彼が生きた19世紀前半に流通していた数多くの知識を置いたため、そうした知識がないと理解に達することが難しいと思われるから。
もし知識がなければ理解できないとすると、彼の作品を現代の読者が味わうことは不可能ということになる。

では、知識なしで、彼の作品を味わうことはできるのか? 
「オリーブ山のキリスト」の場合、題名からは、扱われているのがイエス・キリストであることはわかる。
しかし、”オリーブ山のキリスト”となるとどうだろう?

ネルヴァルのことを知らず、キリスト教への興味もない場合、この詩を手に取ろうとは思わないだろう。
それでも一歩前に踏みだし、最初の詩句を読み始めると、興味が湧いてくるだろうか?

そんなことを考えながら、5つのソネット(4/4/3/3)からなる「オリーブ山のキリスト」を読み進めていこう。

Le Christ aux oliviers

Dieu est mort ! le ciel est vide…
Pleurez ! enfants, vous n’avez plus de père !
Jean Paul.

I

Quand le Seigneur, levant au ciel ses maigres bras
Sous les arbres sacrés, comme font les poètes,
Se fut longtemps perdu dans ses douleurs muettes,
Et se jugea trahi par des amis ingrats ;

オリーブ山のキリスト

         神は死んだ! 天は空っぽだ・・・
         泣くがいい、子どもたちよ、もう父はいない!
                            ジャン・パウル

I

主は、痩せ細った腕を天に向けて上げ、
神聖な木々の下で、ちょうど詩人たちのように、
長い間、声も出ないほどの苦痛の中に沈み込んでいた、
そして、恩知らずな友たちに裏切られたと思った時、

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サルトル 『言葉』 Sartre Les Mots 事物と概念 実存主義の基礎

ジャン・ポール・サルトルの自伝的作品『言葉(Les Mots)』(1963)の中で、日本人にとってはわかりにくい一つのテーマが扱われている。
それは、目に見え、手で触れることができる現実の「事物」と、その反対に、見ることも触れることもできない「概念」という、二つの異なった認識の次元に関わる問題。

例えば、猫に関して、ここにいる「一匹の猫」は存在するが、「猫一般」、あるいは「猫という概念」は存在しないとする立場と、逆に、概念そのものが実在するという立場がある。

普通、そんな違いを日本人は考えないので、わかりにくいし、どうでもいいようにも思われる。
ところが、サルトルが自分の幼い頃の思い出として語る一つのエピソードを読むと、私たちにとっては遠い世界の思考法がクリアーに理解できてくる。

その結果、サルトルの提示した哲学の根本的な土台が、「事物」と「概念」の関係をどのように考えるかということにあることがわかり、実存主義の理解にもつながる。
さらに、その二分法になじまない日本的な思考の特色も見えてくる。


『言葉』の中には、サルトルが小さな頃からお祖父さんの書斎に置かれた多くの本に囲まれて育ったが、その中でもとりわけ「ラルース大百科事典」に大きな興味を示したという思い出を語る部分がある。

Mais le Grand Larousse me tenait lieu de tout : j’en prenais un tome au hasard, derrière le bureau, sur l’avant-dernier rayon, A-Bello, Belloc-Ch ou Ci-D, Mele-Po ou Pr-Z (ces associations de syllabes étaient devenues des noms propres qui désignaient les secteurs du savoir universel : il y avait la région Ci-D, la région Pr-Z, avec leur faune et leur flore, leurs villes, leurs grands hommes et leurs batailles) ;

ところで、私にとって、「ラルース大百科事典」が(他の本)全ての代わりになっていた。適当に一巻を手に取る。机の後ろにある棚の、下から二番目の段にある、A-Belloの巻だったり、Belloc-Chの巻、Ci-Dの巻、Mele-Proの巻、Pr-Zの巻だったりする。(それらの音の組み合わせは固有名詞となり、普遍的な知識の分野を指し示していた。Ci-Dの地区、Pr-Zの地区があり、その中に、動物相や植物相、街があり、偉人がいて、彼らの戦があった。)

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