芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 4/7 松島 造化の天工 

おくのほそ道の旅に芭蕉を誘った最大の理由は、序の中で告白されるように、「松島の月まず心にかかりて」ということだった。

その松島を実際に目の前にした時、芭蕉は景観の美しさに心を深く動かされたに違いない。旅人の感動は、松島を描く散文によって見事に表現されている。

俳句も詠んだらしい。

島々や 千々に砕きて 夏の海    (「蕉翁全伝附録」)

260を数える島々の情景が心に浮かんでくる句であり、写生として決して悪い出来ではないと思うのだが、しかし芭蕉はこの句を『おくのほそ道』では取り上げなかった。

芭蕉が選択したのは、漢詩的な表現が多く使われる前半と、隠者文学を思わせる後半を組み合わせ、二つの相の下で松島を描き出すことだった。

(朗読は27分16分から29分34秒まで)
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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 3/7 白河の関  歌枕を詠う散文

おくのほそ道の旅に出発する前、芭蕉が旅への思いに誘われた時、最初に思い浮かべたのは、白河の関(しらかわのせき)だった。
「やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、(後略)。」

白河の関とは、奈良時代に、大和朝廷が、「陸奥(みちのく)」(=現在の東北地方)との境に設置した関所で、その関を超えることは、蝦夷(えぞ)の人々が暮らす地域に入ることだった。

平安時代以降になると、朝廷の北方進出が進み、軍事的な役割は減少した。その一方で、都から遠く離れた北方の地「陸奥」を象徴するものとなり、鼠ヶ関(ねずがせき)、勿来関(なこそのせき)とともに「奥州三関」の1つとされ、数多くの和歌の中で詠われる「歌枕」になった。

最初に白河の関を和歌に詠んだのは、平安時代中期の平兼盛(たいらの かねもり)だとされる。

みちのくにの白河こえ侍(はべ)りけるに

  たよりあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと
                           (「拾遺和歌集」)

(もしも遠く離れた都まで知らせる手段があるなら、今日、白河の関を超えたと、知らせたいものだ。もしかすると、もう都には戻れないかもしれないのだから。)

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 2/7 「序」の関(せき)

『おくのほそ道』は、1689年の春から秋にかけて芭蕉が行った長い旅に基づく紀行文の形式で書かれているが、執筆には時間を要し、1694年に芭蕉がこの世を去るまで書き継がれ、出版されたのは1702年になってからだった。

なぜそんな時間をかけたかといえば、事実に忠実な旅の記録を書き残すのではなく、芭蕉が俳諧の本質だと考えた不易流行」の概念を具体的な形で表現することを意図したからに違いない。

実際、『おくのほそ道』は江戸の深川から出発して、前半では、日光、松島を経て平泉に達する太平洋側の旅が語られ、後半では、出羽三山を通過し、日本海側を下り、最後は岐阜の大垣にまで至る、大きく分けて二つの部分から成り立つ。つまり、単に旅程をたどるのではなく、はっきりとした意図の下で構成されているのだ。

その旅の前に置かれた「序」は、『おくのほそ道』の意図を格調高い文章によって宣言している。
最初に旅とは何かが記され、次に「予(よ)=(私)」に言及することで芭蕉自身に視線を向け、旅立ちに際しての姿が描き出されていく。

ここで注意したいことは、芭蕉は俳人だが、俳句だけではなく、旅を語る散文もまた、俳諧の精神に貫かれていること。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。」という最初の一文を読むだけで、俳文の美が直に感じられる。

ここではまず朗読を聞くことで、芭蕉の文章の音楽性を感じることから始めよう。(朗読は16秒から1分33秒まで)

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 1/7 造化の美

松尾芭蕉は、1689(元禄2)年、46歳の時、旧暦の3月27日から9月6日まで、現在の暦であれば5月16日から10月18日までの約5ヶ月をかけて、江戸を発ち、東北地方から北陸地方を回り、最後は岐阜県の大垣に至る、長い旅を行った。

その主な目的は、1689年が平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人である西行法師の生誕500年にあたり、東北と北陸の各地に点在する「歌枕」の地を訪ねることだったと考えられる。

「歌枕」というのは、和歌の中で伝統的に読み継がれてきた地名で、現代で言えば、名所旧跡といった観光名所と考えていいかもしれない。
ただし、現代とは違い、それらの地名にはそれまでに読まれた和歌の記憶が刻み込まれ、例えば、「吉野」と言えば、「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」(西行)などといった句が数多く思い出された。
その連想を通して、実際に吉野山を見たことがなくても、和歌を通して「吉野」を思い描き、時には、その地名からインスピレーションを受けて、自分でも「吉野」を和歌に詠み込む。
そうした伝統は、俳句でも続いていた。

そうした中で、芭蕉は、東北や北陸に数多くある「歌枕」を実際に自分の目で見、実体験から得られた生の情感を言葉によって表現しようとしたのではないかと考えられる。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」(土芳(とほう)『三冊子(さんぞうし)』)

『おくのほそ道』はその旅に基づいた紀行文であり、実際の旅程と、その間に芭蕉および同行者である曾良(そら)の詠んだ俳句から出来上がっているように見える。
しかし、実はいくつかの虚構が含まれているし、作品全体が中央で分割され、対照的な二つの部分で構成されている。そのことからも、『おくのほそ道』が単なる旅の記録ではないことがわかる。

では、何を目指した書なのか?

芭蕉自身はどこでも使っていないが、弟子たちが芭蕉の俳諧論の中で中心に置いたのは、「不易流行」という概念だった。
「不易」とは永遠に変わらないということ。「流行」は常に変化し、新しくなっていくこと。
その対立する二つの概念が「根源においては一つ」というのが、芭蕉の俳諧論の本質だと考えられている。

弟子によって多少の解釈に違いがあり、「不易流行」という表現が何を意味にしているのか完全に解明されているとは言えないのだが、ここでは、『おくのほそ道』全体を通して、芭蕉自身が俳諧の本質を伝えようとしたのだと考えてみたい。
そのことによって、芭蕉の説く「不易流行」を具体的に知ることにもなるはずである。

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古池や 蛙飛び込む 水の音 —— 芭蕉の捉えた永遠の瞬間

世界中で最も知られている俳句は、芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」だと断言できるほど、この俳句はよく知られている。
そして、句の解釈としては、蛙が池に飛び込む水の音がはっきりと聞こえるほど、古い池の辺りは静かでシーンとしている、そうした静寂を捉えたもの、とされることが多い。

それに対して、長谷川櫂は『古池に蛙は飛び込んだか』の中で、次のような解釈を提示した。

ある春の日、芭蕉は蛙が水に飛び込む音を聞いて古池を思い浮かべた。すなわち、古池の句の「蛙飛び込む水のおと」は蛙が飛び込む現実の音であるが、「古池」はどこかにある現実の池ではなく芭蕉の心の中に現れた想像の古池である。
とすると、この句は「古池に蛙が飛び込んで水の音がした」という意味ではなく、「蛙が飛び込む水の音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ」という句になる。

さて、このとき、芭蕉は坐禅を組む人が肩に警策(きょうさく)を受けてはっと眠気が覚めるように、蛙が飛び込む水の音を聞いて心の世界を呼び覚まされた。いいかえると、一つの音が心の世界を開いたということになる。

この結論だけ読むとわかりづらいかもしれないが、長谷川櫂の解説をたどって理解すると、芭蕉が創造した新しい俳句の世界=「蕉風」とは、日本的な感性を5/7/5の言葉のリズムの中に凝縮したものであることがわかってくる。

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閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 —— 俳句の音と意味

芭蕉が『奥の細道』の中で詠んだ俳句の中で、最も有名なもの一つに、「閑(しづか)さや 岩にしみ入る 蝉の声」がある。

普通に考えれば、蝉がミンミン鳴いていれば、ひどくうるさいはず。
それなのに、なぜ芭蕉が静かだと思ったのか疑問に思うのが自然だし、そんな疑問を持てば、句の説得力がなくなるはず。
それにもかかわらず、誰もが知る俳句として人々に親しまれている。

その理由の一つには、この句を構成する言葉の音に、静かさを感じさせる要素が含まれているからではないか?

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