
松尾芭蕉は、1689(元禄2)年、46歳の時、旧暦の3月27日から9月6日まで、現在の暦であれば5月16日から10月18日までの約5ヶ月をかけて、江戸を発ち、東北地方から北陸地方を回り、最後は岐阜県の大垣に至る、長い旅を行った。
その主な目的は、1689年が平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人である西行法師の生誕500年にあたり、東北と北陸の各地に点在する「歌枕」の地を訪ねることだったと考えられる。
「歌枕」というのは、和歌の中で伝統的に読み継がれてきた地名で、現代で言えば、名所旧跡といった観光名所と考えていいかもしれない。
ただし、現代とは違い、それらの地名にはそれまでに読まれた和歌の記憶が刻み込まれ、例えば、「吉野」と言えば、「なんとなく 春になりぬと 聞く日より 心にかかる み吉野の山」(西行)などといった句が数多く思い出された。
その連想を通して、実際に吉野山を見たことがなくても、和歌を通して「吉野」を思い描き、時には、その地名からインスピレーションを受けて、自分でも「吉野」を和歌に詠み込む。
そうした伝統は、俳句でも続いていた。
そうした中で、芭蕉は、東北や北陸に数多くある「歌枕」を実際に自分の目で見、実体験から得られた生の情感を言葉によって表現しようとしたのではないかと考えられる。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え。」(土芳(とほう)『三冊子(さんぞうし)』)
『おくのほそ道』はその旅に基づいた紀行文であり、実際の旅程と、その間に芭蕉および同行者である曾良(そら)の詠んだ俳句から出来上がっているように見える。
しかし、実はいくつかの虚構が含まれているし、作品全体が中央で分割され、対照的な二つの部分で構成されている。そのことからも、『おくのほそ道』が単なる旅の記録ではないことがわかる。
では、何を目指した書なのか?
芭蕉自身はどこでも使っていないが、弟子たちが芭蕉の俳諧論の中で中心に置いたのは、「不易流行」という概念だった。
「不易」とは永遠に変わらないということ。「流行」は常に変化し、新しくなっていくこと。
その対立する二つの概念が「根源においては一つ」というのが、芭蕉の俳諧論の本質だと考えられている。
弟子によって多少の解釈に違いがあり、「不易流行」という表現が何を意味にしているのか完全に解明されているとは言えないのだが、ここでは、『おくのほそ道』全体を通して、芭蕉自身が俳諧の本質を伝えようとしたのだと考えてみたい。
そのことによって、芭蕉の説く「不易流行」を具体的に知ることにもなるはずである。
(1)二重構造の旅
『おくのほそ道』は、最初に「序」が置かれ、その後、前半と後半が対照的に配置されている。
前半の旅は、太平洋側を巡る旅程で、千住を出発して、平泉まで。
後半の旅は、日本海側に向かい、尿前の関(しとまえのせき)から始まり、出羽、北陸を通り、最後に岐阜県の大垣に至る。

まず、前半の旅と後半の旅で、対照をなす様子の中で、代表的なものを確認していこう。
A. 光堂 vs ノミ、シラミ、馬の尿
前半と後半を隔てるのは平泉と尿前(しとまえ)の関。一方が美そのものであるのに対して、他方は美からほど遠い。
前半の最後で詠われるのは、中尊寺金色堂。
五月雨(さみだれ)の 降(ふり)のこしてや 光堂
(梅雨の雨はすべてのものを朽ちさせてしまうが、この金色堂にだけは降りかからなかったのだろうか。長い間風雪に耐えたこの御堂のなんと美しいことか!)
この句に続いて、尿前の関でのエピソードが続く。
そこでは、身分を怪しまれたために関を越すのに時間がかかり、山の中の国境(くにざかい)を守る人の家にやっとのことで泊めてもらう。しかも、風雨のために3日間も足止めされる。
蚤(のみ)虱(しらみ) 馬の尿(ばり)する 枕もと
(夜寝ていると、ノミやシラミに苦しめられるし、頭の上では馬の尿の音がして、とても眠るどころではない。)
ちなみに、馬の尿のことを「ばり」というのは、山形のこの地方の伝統だという。
このように、一方では光堂、他方ではノミ、シラミ、馬の尿が俳句の対象として取り上げられる。
そのギャップの大きさは、この地点で旅がまったく異なる性質のものになることを示している。
B. 日光 vs 月山(がっさん)
前半と後半の対比は、日光と、山形県の月山によっても示される。
日光はもともとは「二荒山」と呼ばれていたが、空海によって「日光」という名前に改められたと記した後、芭蕉は、「この光一天に輝きて」と目の前の光景に言及し、次の句を詠む。
あらたうと 青葉若葉の 日の光
(ああ、なんと尊いことだろう! 瑞々しい新緑を輝かせる日の光は。)
この陽光あふれる情景に対して、出羽三山の一つである月山は雲におおわれている。
雲の峯 幾つ崩(くづれ)て 月の山
(日中には入道雲が立ち上っていたが、その雲がいつの間にか山の峰のような形に崩れ、月に照らされて、神々しく美しい月山になったのだろうか。)
この対比によって示されるのは、陰陽の対照は決して善悪や醜美を分けるものではなく、陰には陰の美しさがあるということ。
太陽の光に照らされる若葉も、雲に覆われた峰を月が照らす姿も、異なった美を描き出す。
C. 松嶋 vs 象潟(きさかた)
秋田県南西端にある象潟(きさかた)は、芭蕉が訪れた時代には、入り江に数多くの島が浮かび、松島と並ぶ風光明媚な地として知られ、有名な歌枕だった。
しかも、どちらの地も、芭蕉が師と仰ぐ西行ゆかりの地としても重要だった。
芭蕉は、その二つの地の違いを次のように強調する。
江(え)の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)、松嶋にかよひて、また異なり。松嶋は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢(ちせい)、魂をなやますに似たり。
(象潟も松島も入り江の縦横はどちらも4キロ位で、見た目は似ている。しかし、二つの地がもたらす情感は対照的だ。松島は明るく笑うようだが、象潟は「うらむ」、つまり、愁いを含んでいる。
しかも、寂しさや哀しささえ感じられる象潟の地形は、美しい女性が魂を悩ませてうつむいている姿に似ている。)

この象潟を詠う芭蕉の句には、中国古代四大美女の一人として名高い西施(せいし)が取り上げられる。彼女はその美しさゆえに、古代の王たちの間で運命が左右され、悲劇的な最後を迎えた。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
(象潟が雨に煙り、岸辺の合歓(ねむ)の花も雨に濡れてうちしおれている様子は、魂を悩ませる美女・西施が愁いに沈む美しい姿を思わせる。)
西施は胸を病み、ときどき胸元を押さえ,眉間にしわ を寄せて歩いたのだが、その姿が妖艶で美しかったとされる。
芭蕉は、松島に関しても、「その気色窅然(ようぜん=物思いに深く沈む様子)として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ。」として、風景の美しさを美女にたとえていた。
しかし、象潟を目にしたことで、気色窅然と感じた松島でさえ微笑んでいると思われるほど、象潟の「うらむ=愁う」様子の奥深さを実感したに違いない。
。。。。。
このように、5ヶ月に渡る旅は、太平洋側と日本海側が明と暗に描き分けられて展開するのだが、明と暗が決して美と醜の対比ではなく、暗には暗の美があることを前提にしている。
そのことは、後の時代に、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃(いんえい・らいさん)』を通して描き出した日本的な美と対応すると考えてもいいだろう。
例えば、谷崎は日本の美について次のように考える。
美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされた我々の先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡によって生れているので、それ以外に何もない。
こうした観点からすると、もしかすると、芭蕉は、尿前の関での夜さえ、美的体験として俳句の中に収めようとしたのかもしれないとさえ思えてくる。
いずれにして、太平洋側と日本海側、日と月、笑いと愁い、そのどちらにも固有の美があり、『おくのほそ道』の旅は、歌枕を訊ねながら、それぞれの地から芭蕉が感じ取る情感を、散文と俳句によって定着させていくことを目的としていたと考えていいだろう。
。。。。。
こうした視点から見ると、芭蕉が、松島と象潟を対比させた時、西行の次の句が頭にあったのではないかと考えてもいいのではないか。
松島や 雄島の磯も 何ならず ただきさがたの 秋の夜の月
(確かに松島や雄島の磯の光景は美しいが、しかし、それさえも何でもないと思えてくる、象潟の秋の夜の月と比べれば。)
(2)再生する旅
A. 死と再生の旅
さらに興味深いことに、『おくのほそ道』では、二重構造の旅全体を超えて、より大きな枠組みが設定されている。
深川から千住に船で向かい(序文)、千住から陸奥の旅へと出発する際、見送りの人々との別れを惜しみ、長く危険な旅に思いをはせる。
千じゆといふ所にて舟をあがれば、前途(せんど)三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそそぐ。
三千里というのは実際の旅程の長さではなく、漢詩において長い旅を言う時に使われる表現。
その長旅にこれから旅立とうとする芭蕉の中で、この世(=ちまた)が幻に思えるほどに、不安な気持ちが一気に湧き上がってくる。
そんな気持ちを抱きながら、人々に別れを告げ、足を前に進めなければならない。
旅立ちの日は、旧暦の3月7日、現在であれば5月16日。春は過ぎ去ろうとしている。
行(ゆ)く春や 鳥啼(なき)魚(うお)の 目は泪
(過ぎ去ろうとする春を惜しんで、鳥たちは鳴き、魚も涙を流している。長い旅に出る私も、ここを去るにあたり、親しい人々との別れを惜しみ、悲しみに浸っている。)
不安な気持ちは、出発後もしばらくは消えることがなく、草加(そうか)に着いたときにもまだ不安な気持ちは続いていた。
(前略) 耳にふれていまだ目に見ぬ境、もし生て帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日ようよう早加といふ宿にたどり着きにけり。
生きてて帰ってこられるかどうか分からないという気持ちからすると、聞いて知ってはいるけれど、まだ見た事がない「境」とは何だろう?
それは、現実の旅に即していえば「白河の関」のことだろう。
しかし、その時の芭蕉にとっては、生と死を隔てる境と思われていたのではないだろうか。
としたら、おくのほそ道の旅は、死の国の旅ということになる。
そのことを裏付けるかのように、旅の最後、大垣についた芭蕉は次のように記す。
(前略)親しき人々日夜とぶらひて、蘇生のものに会ふがごとく、かつ悦び、かついたはる。
芭蕉の帰還を知り、彼に会いに来る人々は、芭蕉を「蘇生のもの」のように見なす。
つまり、芭蕉は、死の旅を終え、再びこの世に戻ってきたように扱われる自分を見出したのだった。
その旅は、長い間の伝統に裏打ちされた歌枕の地を実際に見て回り、その場で感じた情感を重ね合わせることで芭蕉の息吹を吹きかけ、歌枕に新たな命を与える旅といってもいいだろう。
そのことは、これまでの俳諧から新しい俳諧へと脱皮させることにもつながる。
生→死→再生という過程は、創造の過程としては普通に行われるものであり、その意味で、『おくのほそ道』は、新たな俳諧創造の過程を描いた書とも考えられる。
B. 再現する旅
大変に興味深いことに、『おくのほそ道』はそこで終わらない。
芭蕉は大垣に留まることなく、伊勢参りのため、船に乗り、再び人々に別れを告げる。つまり、千住での旅立ちと同じ別れが繰り返され、最後に次の俳句が置かれる。
旧暦の9月6日、現在の暦では10月18日のことだった。
蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆ)く秋ぞ
(ハマグリの蓋と身が分かれるように、私はあなた方と別れ、伊勢の二見(ふたみ)に向かっていく。秋も過ぎ去ろうとするこの寂しい季節に。)
千住で詠んだ句の「行く春や」が、ここでは「行く秋ぞ」となり、季節が進んだことがはっきりと示される。
春から秋へ推移は、ハマグリが春の季語であることから、この句の中だけでも感じられる。つまり、ハマグリの春から秋へ。
そのように、時はいやでも過ぎ去り、親しい人々との別れがあり、寂しさや悲しみがしみじみと感じられる。
別れは「小さな死」といえるかもしれない。
実は、芭蕉は、1687年10月から1688年8月まで、後に『笈の小文』と『更科紀行』で語られる旅に出ていて、江戸を留守にしていた。その約10ヶ月の間、深川の草庵は空き屋として残され、蜘蛛の巣も張ったことだろう。
『おくのほそ道』の冒頭では、その草庵を「江上の破屋」と呼び、「去年の秋、江上(こうしょう)の破屋(はおく)に蜘の古巣をはらひて」とそこに戻ってきたことを記した上で、「やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと」と、再び新たな旅に誘われる思い告白したのだった。
このように、旅立ちは繰り返される。一つの旅が終わり、また新しい旅が始まる。
そのように考えると、『おくのほそ道』の最後は、終わりではなく、新たな始まりを告げる扉でもある。
一つの旅を通して5ヶ月の時は流れたが、しかし、それで終わるわけではなく、再び同じ動きが反復される。
春が過ぎ秋が来る。そして、次の年には再び春が巡ってくる。
その時間意識こそが、「不易・流行」だといえる。
C. 「不易流行」と「造化」
ここでは、不易流行に基づく世界観が、「造化」と対応すると考えてみたい。
造化とは、万物が生滅変転し、かつ無窮に存在すること。
芭蕉は、その造化に従うことが、風雅への道だという。
1687年に芭蕉が行った伊勢、吉野、明石などへの旅を記した『笈(おい)の小文(こぶみ)』の序では、俳諧風雅論ともいえる一節がある。
風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(=四季)を友とす。見るところ、花にあらずといふ事なし。思うところ、月にあらずといふ事なし。(中略)造化に従い、造化に返れとなり。
(俳諧の目指す風雅は、造化に従って移り変わる季節を友とする。目に見えるものはすべてが花であり、思い浮かべるものはすべてが月だと思うように、万物全てが美しい。(中略)造化に従い、造化に帰れ。)
創造された全てが美しいのは、春が去って秋になるが、その後でまた春が巡ってくる季節の移り変わりのように、常に変化しながらも、その変化は絶えることがないところから来る。

『おくのほそ道』の中で、「造化」という言葉は、松島の情景を描く際に用いられる。
そもそも、ことふりにたれど、松嶋は扶桑(ふよう)第一の好風にして、およそ洞庭(どうてい)、西湖(せいこ)を恥(はじ)ず。(中略)
ちはやぶる神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か、筆をふるひ、詞を尽さむ。
(言うまでもないことだが、松島は日本(=扶桑)で最も風光明媚な地であり、中国の洞庭湖・西湖にも劣らない。
猛々しい神々の時代に、大山祇神(おおやまつみのかみ)が作ったものだろうか。造化の主が創造したその美しさを、誰一人、筆を使い、言葉を尽くしても、描くことはできない。)
芭蕉にとって、松島の美は造化の美そのものに見えたのだろう。
そして、その美しさを誰も言葉にすることはできないと言いながら、実は、『おくのほそ道』の中にそれを描き込んだのだった。
「不易流行」とは「造化」を時間的な側面から捉えた表現であり、芭蕉はそれを俳諧の根本に据えることで、「見るところ、花にあらずといふ事なし」という俳諧の世界を作り出していったのではないだろうか。
『おくのほそ道』はその実践に他ならない。