途轍もなく美しい詩句 マラルメ「乾杯」 Mallarmé « Salut »

ステファン・マラルメは非常に難解な詩を書く詩人。
しかし、その詩句は非常に美しい。乾杯(« Salut »)もその一つ。

パーティーの最初にシャンパンで乾杯をすることがある。
その時、グラスに目をやると、シャンパンの細かな泡がびちびちと跳ねていたりする。その状況を思い描き、最初の4行の詩句を読んでみよう。

Rien, cette écume, vierge vers
À ne désigner que la coupe ;
Telle loin se noie une troupe
De sirènes mainte à l’envers.

シャンパンの泡はすぐに消えていまう、何でもない存在rien。
しかし、近くに寄って見ると、波の泡écumeのようにも見える。
この詩句versは、まだ何も書かれていずvierge、
ただ杯la coupeを指し示しているdésignerだけ。
その泡が、ちょうどtelle 海の向こうの方でloin溺れかかっているse noye 人魚たちsirènesの一団une troupeのように見える。
そのたくさんのmainte人魚たちsirènesは、逆さまにà l’enversになっている。

シャンパングラスの泡を見て、逆さまになった人魚を思い描くのが楽しいだけではなく、このフランス語の詩句の音楽性は本当に素晴らしい。
美しい!!!
この最初の4行はとりわけまろやかで、繊細なシャンパンの味わいがある。

フランス語の美を感じるためには、やはり音が大切。
「ポンヌフの恋人たち」の主演Denis Lavantの朗読を聞いてみよう。

この4行詩から、新しい出発が始まる。


第2詩節は、先生と生徒、先輩と後輩、親と子など、経験を次に伝えていくときの心を巧みに表現している。

Nous naviguons, Ô mes divers
Amis, moi déjà sur la poupe
Vous l’avant fastueux qui coupe
Le flot de foudres et d’hivers ;

一緒の航海をしていくnous naviguons時、
すでに経験を持った人間(私)は、船尾la poupeにいる。
他方、あなたがたは船の先頭(l’avant)にいる。
その将来は華々しいfastueuxものになるだろうけれど、
それでも進むにつれ、波を切りcouper le flot、
雷foudresや冬の厳しさhiversを乗り越えていなかなといけない。

この詩句の中では、先輩(先生、親)と後輩(生徒、子)が一つの船に乗っていることで、jeのvousに対するシンパシーが表現されている。
私(je)はすでに船の後ろに退き、あなた方(vous)がこれから船の先頭に立って進んで行くことになる。
その際、未来はfastes(栄光)が輝いている、あるいは輝いてほしいと願いながら、様々な困難が待ってもいる。それらを乗り越えてほしいという願いも込められている。

19世紀の詩の歴史の中で、naviguerという航海のイメージが出てくると、
Baudelaire, « Le Voyage »からRimbaud, « Le Bateau ivre »が連想される。
マラルメもこの二つの詩を念頭に置きながら、旅立ちを歌っているに違いない。

2つのテルセ(3行詩)のうち、最初は、乾杯の音頭を取る人の謙虚さを示す表現。

Une ivresse belle m’engage
Sans craindre même son tangage
De porter debout ce salut

詩人はここで、気持ちよく酔っているune ivresse belleということを言い訳にする。そして、その酔いは気持ちがいいので、勇気づけられengager、
船が前後に揺れる(tangage)のように体が揺れることも心配せずsans craindre、テーブルから立ち上がりdebout、乾杯の音頭porter le salutを取らせていただきますと、ことわりを入れる。

第2テルセ(3行詩)は、乾杯の音頭の内容。

Solitude, récif, étoile,
À n’importe ce qui valut
Le blanc souci de notre toile. 

一般の人の人生や芸術家の生には孤独solitude、困難(récif 岩礁)、栄光(étoile 星)など、様々な側面がある。第一詩句はそれらへの言及。
最後の2行は解釈に迷うところ。
最初のÀは、乾杯するものに向けてに違いない。
n’importeは、n’importe quand, n’importe commentなどで使われる、どんな・・・でも、という意味。
valutはvaloir (値する、匹敵する)の単純過去形。
すでに過去になって、現在とはつながりを持たない事態を示す。
Le blanc souci(白い心配)というのは意味がわかりにくいかもしれない。とてもマラルメ的な表現と言える。
toileは、船の帆ですが、詩人が詩を書く紙でもある。
その前で何も書けずに苦しんでいる。その時、紙は白いまま。
その白い色が、心配souciにかかっていると考えると、理解しやすいかもしれない。
生(生きる、産む)の苦しみであったもの(ce qui valut)がなんであれ、そうした生(創作)に値したもの(単純過去)に対して乾杯をしましょう、と解釈できる。

最後の2行、渡邊守章訳では、「何にてもあれ、他ならぬ、その値(あたい)とは 我らが布の 白き苦しみ。」となっている。
日本語としてすばらしくこなれている。
しかし、意味はよくわからない。

詩の朗読会を定期的に開催している俳優のファブリス・ルキーニが言うように、ランボーやマラルメなどの詩では、全てを理解することはできないし、その必要もない。
それよりも、音の流れの美しさに身を委ねることが、詩句を味わう第一歩となる。
はっきりとわからなくても、blancという言葉だけで、創作(生きること、創作活動)の苦しみを感じ、それに乾杯するという感じが摑めれば十分。
その上で、それほどの苦しみの末に、toile(布地、画布)からétoile(星)が生まれるという可能性が、toileという一つの音によって示されていることに気付けば、詩の楽しみを強く感じることができる。

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