中原中也「寒い夜の自我像」 人間の弱さと詩情 

人間は誰でも弱さを抱えて生きている。その弱さを自覚をしたとき、肩肘を張って強さを装うのか、押しつぶされて自己嫌悪に陥るのか、見ないようにして逃げようとするのか。対応はいろいろある。

中原中也は「寒い夜の自我像」の中で、どうしようもない弱さを前にして、どうにかこうにか折り合いをつけようともがく。その自分の姿を言葉で描き出しながら、そこに詩情を生み出している。

寒い夜の自我像

(1)

きらびやかでもないけれど、
この一本の手綱(たづな)をはなさず
この陰暗の地域をすぎる!
その志(こころざし)明らかなれば
冬の夜を、我は嘆かず、
人々の憔懆(しょうそう)のみの悲しみや
憧れに引廻(ひきまわ)される女等の鼻唄を、
わが瑣細(ささい)なる罰と感じ
そが、わが皮膚を刺すにまかす。

蹌踉(よろ)めくままに静もりを保ち、
聊(いささ)かは儀文めいた心地をもって
われはわが怠惰を諌(いさ)める、
寒月の下を往きながら。

陽気で、坦々として、しかも己を売らないことをと、
わが魂の願ふことであった!……

 2

恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、
おまえの魂がいらいらするので、
そんな歌をうたいだすのだ。
しかもおまえはわがままに
親しい人だと歌ってきかせる。

ああ、それは不可(いけ)ないことだ!
降りくる悲しみを少しもうけとめないで、
安易で架空な有頂天を幸福と感じ倣(な)し
自分を売る店を探して走り廻るとは、
なんと悲しく悲しいことだ……
   
   3

神よ私をお憐(あわ)れみ下さい!

 私は弱いので、
 悲しみに出遇(であ)うごとに自分が支えきれずに、
 生活を言葉に換えてしまいます。
 そして堅くなりすぎるか
 自堕落になりすぎるかしなければ、
 自分を保つすべがないような破目(はめ)になります。

神よ私をお憐れみ下さい!
この私の弱い骨を、暖いトレモロで満たして下さい。
ああ神よ、私が先(ま)ず、自分自身であれるよう
日光と仕事とをお与え下さい!


3つの節のうち、最初のものだけが昭和4(1929)年に発行された「白痴群」創刊号に発表され、その後、詩集『山羊の歌』に掲載された。
他方、後の2つは、ノートに書き留められただけで、最後まで活字になることはなかった。

それはなぜか?

第一節は具体的な背景を思わせぶりに暗示しているが、いかにも肩肘をはった感じがする。
詩人が「罰」と感じるのは、たぶん肉親と思われる人々の焦りや、彼の身近な女性の態度。中也の現実生活で言えば、小林秀雄に去られていた長谷川泰子。
そうした中で彼は身動きができず、怠惰な時間を過ごしているのだろう。そして、外面的には平静を装いながら、心の中では、「この陰暗の地域をすぎる」という志を持ち、「己を売らない」ことを願っている。そんな言葉で、詩人としての矜持を示す。
自画像ではなく、自「我」像などと書くところにも、「儀文」つまり形式が先立っていることが透けて見える。

それに対して、公表されなかった第2、第3詩節は、赤裸々な告白となっている。
彼の愛する人は、魂がいらいらしていて、いろいろな人に歌いかけようとする。彼を愛するのではなく、自分を売る店を探して走り回る。彼がどんなにそれはいけないことだと諫めても、彼女は彼だけを愛してはくれない。なんと悲しく悲しいことだ。
実際、長谷川泰子は、中也に頼り、一緒に京都に旅行などしながらも、決して彼の許に戻ることはない。翌昭和5年には別の男の子どもを産む。しかも、中也はその子の名付け親になる。

そんな自分を予見しているかのように、詩人は弱い自分を描く。
頑なな外見を取り繕うか、自堕落になることでしか、自分を保つことができない。しかも、弱い自分を詩の題材とする。自己嫌悪の連鎖。
彼にできる最後のことは、神に祈ること。自分自身であれるように、と。

中也の弱さは、肩肘を張った第1節だけを出版し、個人の思いを赤裸々に綴った第2,第3節はノートに書いたままで終わったところにも示されている。

私たちはしばしば、しないといけないとわかっていながらそれができず、自己嫌悪に陥る自分の弱さを、中也の詩句の中に見出すことがある。「魂がいらいらする」とか、「降りくる悲しみ」とか、「私は弱いので、悲しみに出遇うごとに自分が支えきれずに」とか、「神よ私をお憐れみ下さい」という詩句に心を打たれる。
中也の弱さに共鳴し、詩の言葉に心を震えさせる。

では、この詩のどこに美があるのか?
それは、なんとか強くなろうとするけれど、やはり負けてしまう自分がいることを認める部分だろう。認めるからこそ、神に祈るしかない。あるべき自分に向かおうとする気持ちをふともらす詩句。
美は、弱さにも強さにもなく、少しでもまっとうな自分、自分自身でありたいと願う自分に向かおうとする魂の動きにある。
詩の言葉は、その魂の動きだ。

弱さを自覚し、たとえ克服できなくても、自分が思い描く自分へと少しでも近づこうとあがく中也の「自我像」。それを描く言葉たちが読者の心の中で共鳴する。

その場合、あまりにも赤裸々に語る第2−3詩節よりも、肩肘を張った最初の詩節の方が、読者の胸を打つ。
弱さをそのまま吐露するのではなく、虚勢を張り、弱さに抵抗しようと志す言葉の方が、リアルに感じられる。

愛する人に、「その哀しげな歌をやめてよ」と口語で話しかけると、ただの痴情のもつれと見なされかねない。
「悲しみに出遇うごとに自分が支えきれずに、生活を言葉に換えてしまいます。」
それでは、生活のために芸術を切り売りすることになる。

その反対に、相手に「そが」と呼びかけ、自分を「我」と言い、あえて厳めしい漢字を多く使うことで、文語的な世界を作り出す。

陰暗の地域、志明らか、我は嘆かず、憔懆、瑣細なる罰、蹌踉めく、静もり、聊かは儀文めいた心地、怠惰を諌める、寒月、等々。

これらの言葉はそれ自体では大変に厳めしい。しかし、中也は歌心を持って、それらを詩句に溶け込ませる。
冬の夜を、我は嘆かず
われはわが怠惰を諌める
わが魂の願ふことであった

すると、厳めしさの角がとれ、「わが魂の願い」が歌のようにすっと心の中に吸収される。
美はそこに生まれる。

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