恋愛をするとき、二人が愛し合っているようにみえても、愛する側と愛される側の間に、暗黙の上下関係がある。
相手にあこがれ、愛されたいと願うか、相手から愛され、その愛に応えるか。
詩人と美の関係にも同様のことがいえる。美に恋い焦がれる詩人は、美を追い求める。美に愛された詩人は、美をどんな風に扱っても平気でいる。

ボードレールは、「美」に憧れ、崇める詩人。
「美」は常に彼の上にいて、心を動かしてはくれない。ギリシア彫刻の女神像のように、冷たく、どんな声にも容易に耳を傾ける様子はない。そしてこう言う。
« Je suis belle, ô mortels, comme un rêve de pierre. » (« La Beauté»)
見よ、人間どもよ。私は美しい。石でできた夢の姿のように。
「美」は王座の上に君臨し、詩人たちの心に永遠の愛をかきたてる。
人間たちがどんなに彼女に恋い焦がれ、彼女を知ろうと努めても、彼女の目には手玉に取りやすい哀れな恋人たちにすぎない。
それを知りながら、ボードレールは「美」を追い求め、火の燃えさかるランプに引き寄せられるかげろうのように、身を焦がす。
L’éphémère ébloui vole vers toi, chandelle,
Crépite, flambe et dit : « Bénissons ce flambeau ! »
(« L’Hymne à la Beauté »)
光に目のくらんだ蜻蛉は、おお、蝋燭よ!お前に向かって飛んでいく。
ぱちぱちと燃え上がり、こう言う。「この炎を祝福しよう。」
ボードレールは永遠に「美」を崇め、たとえ死ぬことになったとしても愛を選ぶ詩人なのだ。
それに対して、「美」から愛された詩人は、憧れなど抱かず、乱暴な口のきき方をし、平気でいる。彼は『地獄の季節』の冒頭で、こう言い放つ。
Un soir, j’ai assis la Beauté sur mes genoux. - Et je l’ai trouvée amère. – Et je l’ai injuriée. (Une saison en enfer)
ある夜、俺は「美」を膝の上に座らせてやった。ー そして、俺はやつを鬱陶しく思った。ー そして、やつに毒づいてやった。

「美」に対して、こんな態度を取れるのは、彼しかいない。そう、アルチュール・ ランボー。
ランボーは「美」に愛され、「おさらばしてやることだってできる。」と言ったりする。 強気な恋人!(映画「月と太陽に背いて」のデカプリオがいい味を出していた。)
かつて 小林秀雄が、ランボーは「吐いた泥までがきらめく」と書いたことがある。まさにその通り。「美」を泥のように扱っても、「美」はランボーから離れなかった。
「美」に恋するボードレール、「美」に愛されたランボー。
ランボーはある手紙の中で、ボードレールを詩人たちの中の詩人と褒め称えているけれど、 「美」に対する姿はこんなに違っている。
時に、中原中也のことを日本のランボーと言うことがある。しかし、ランボーの精神を最も強く引き継いだのは、中也ではなく、小林秀雄だろう。
小林は、モーツアルトについて書いた文の冒頭、ランボーのように言葉を吐き出す。
確かに、モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。(「モオツァルト」)
この文章はただただ美しい!
玩弄する? 玩具と愚弄が繋がった言葉? そんなことはどうでもいい。言葉が疾走し、つむじ風のように天上へ吹き上げていく。この勢いは、まさにランボーの詩句に匹敵する。
現実の女性関係はどうあれ、小林も「美神」に愛されていたに違いない。