天空の城ラピュタ  生命の根源への旅

「天空のラピュタ」で宮崎監督が目指したのは、パズー少年を中心にし、愉快で、血わき、肉おどる、古典的な冒険活劇だという。この映画の企画書には、次のような言葉が書き留められている。

パズーが目指すものは、若い観客たちが、まず心をほぐして楽しみ、喜ぶ映画である。(中略)笑いと涙、真情あふれる素直な心、現在もっともクサイとされるもの、しかし実は観客たちが、自分自身気づいていなくても、もっとも望んでいる心のふれあい、相手への献身、友情、自分の信じるものへひたむきに進んでいく少年の理想を、てらわずにしかも今日の観客に通じる言葉で語ることである。

パズーは何の見返りを求めることなく、シータを助ける。その過程で、空の海賊ドーラ一味と奇妙な友情を結ぶ。さらに、ラピュタの支配を通して世界を征服しようとするムスカの野望を挫くため、全力を尽くす。
こうして、物語はパズーとシータを中心に、空中海賊や帝国軍から逃げたり、戦ったりという活劇を中心に進行する。

冒険の主人公パズーは、何か特別な能力を持った少年ではない。海賊や軍隊と戦う武器もない。その意味で彼にはヒーロー的な要素が欠けている。実際、ごく普通の少年。
宮崎監督は、何も特別なものを持っていない、スター性のない少年をアニメの主人公にする難しさを口にしている。

しかし、主人公がどこにでもいる普通の少年だからこそ、素直な心で目標に到達しようと懸命に前に進む姿が鮮明になる。「自分の信じるものへひたむきに進んでいく少年」は、観客の心をストレートに打つ。

「天空のラピュタ」が最初にターゲットにする観客は、小学校4年生とされている。彼等はパズーの冒険を見終わった後、すかっとした気分を味わうことだろう。
その意味でこの映画は、典型的な冒険活劇といえる。

三つの戦い

「天空のラピュタ」には大きく分けて、三つの戦いがある。

1)逃げるパズーとシータ 空の海賊ドーラ一味 特務機関の男たち

最初に出てくるパズーとシータの逃走劇は、シータの持つ飛行石をドーラとムスカが追いかける争奪戦でもある。

映画はシータが飛行船から逃げ去る場面から始まる。彼女は飛行石の力で空中をゆっくりと落下し、パズーの腕の中で重さを回復する。

この時から、シータと一緒になったパズーの逃走劇が始まる。

炭鉱の渓谷に最初に姿を現すのはドーラ一家。機関車に乗って逃げる二人を獰猛な男たちが追いかける場面では、空中に浮かぶように設置された線路が次々と落下する。追いつ追われつの、はらはらどきどきの場面が続く。

最後、反対側から国防軍の汽車が現れ、黒メガネの男たちにも狙われる。挟み撃ちされてしまったパズーとシータはから線路から転落し、谷底に落下してしまう。

その地底でポムじいさんに出会い、飛行石の秘密を聞く。

その後、二人は地上に出るが、帝国軍に捉えられ、パズーは要塞の牢獄に、シータは塔に閉じ込められてしまう。

結局、二人の逃走は、失敗に終わる。
ここまでの展開の中で、パズーはシータと一緒に逃げることしかできない。

2)ドーラ一味と帝国軍の空中戦。

二番目の戦いは、ラピュタへの到達競争。

牢獄から解放されたパズーは、今度はドーラ一家に捕まってしまう。

ドーラは、ふがいないパズーを母親のように叱りつけ、結局、一緒に飛行石を取り戻すために要塞を攻撃する。

この戦いでは、ラピュタから落ちてきたロボットが暴れだし、空の海賊一家のフラップターと軍隊の空中戦艦ゴリアテとが対立し、空中で激しい戦いが繰り広げられる。

この戦いで、パズーたちはシータを取り戻すことに成功する。しかし、飛行石はムスカの手に渡ってしまう。従って、勝負は五分五分で、決着はつかず、戦闘は続くことになる。

ムスカの手に落ちた飛行石が、光を発してラピュタの位置を示す。そこで、軍は巨大な宇宙船ゴリアテに乗船し、光の指し示す方向へと出発する。

一方、少しだけ平和な時を過ごしたパズーとシータ、ドーラたちも、空中海賊船タイガーモスに乗り組み、ラピュタへと向かう。

こうして空中に浮かぶ島へ向かう二つの勢力の間で、華々しい戦闘場面が繰り広げられる。

この戦いは、古典的な冒険物語で、宝島に到達する競争と対応する。

注目したいのは、この戦いの中で、パズーは逃げる存在から戦う存在へと変化したということである。

3)ラピュタの中でのパズー対ムスカの対決。

その戦いは、絶滅した動植物や大きな木だけが残り、無人の楽園という姿をしているラピュタの上部から始まる。

三つ目の戦いは、空中に浮かぶ島の中で行われ、空中戦から地上戦へと移行する。

島の下の部分では、ラピュタにある宝を奪おうとしたドーラ一家が帝国軍に捉えられる。

そこで、パズーは海賊たちを救出に向かう。
このエピソードは、ドーラの手下であったパズーが、彼女たちを助けるまでに成長したことを示している。

しかし、その途中、シータはムスカに捉えられ、ラピュタの中枢へと連れていかれてしまう。

中枢には、植物で覆い尽くされた巨大な飛行石や、ロボットや最終兵器を操る黒い柱が置かれている。
ムスカはその力を使い、帝国軍の兵士たちを殺戮し、世界征服の第一歩を踏み出そうとする。

シータはムスカからペンダントを奪い返し、なんとか逃げようとする。
パズーもやっとのことで彼女に追いつき、二人でムスカと対峙する。
この戦いは、最終的には、滅びの言葉「バルス」を口にすることで終結する。

その呪文によって、ラピュタの下部は破壊され、ムスカは海に落下。パズーとシータは木の根に助けられる。
島の下の部分が崩壊したラピュタは、緑の楽園の上部だけになり、空高く上っていく。

このように、戦いの最後の場面で、最初からずっと逃げる存在であったシータもムスカと立ち向かい、パズーと手を合わせ、ムスカの野望を挫くための勇気を示す。
その間に、パズーは、逃げる存在から、敵と真正面から対峙する存在へと成長したのである。

以上のように、炭鉱にある渓谷、空中、ラピュタの内部で展開された三つの戦いは、宮崎監督が企画書の中で提案したように、わくわくどきどきする冒険活劇として描かれている。
しかし、決してそれだけではなく、少年と少女は多くの試練を通して、追っ手から逃れるだけの行動から、困難に立ち向かい、運命を切り開く存在へと成長していく。

パズーとシータ

パズーは何の特色もない、ただの少年にすぎない。父は死に、母についての言及はなく、鉱山で働く孤児として描かれている。

そんな彼が、空から舞い降りてくるシータを腕にした時から、ラピュタへと続く大冒険が始まる。

パズーをラピュタ探索へと向かわせる最初の理由は、父親が撮影したラピュタの写真だ。父はラピュタの存在を信じない人たちから嘘つき呼ばわりされた。パズーは父の言葉が真実であることを証明するため、ラピュタを見つけようとしていたのだった。別の見方をすると、不在の父が彼をラピュタに向かわせるということになる。

「君をのせて」には、「父さんが残した 熱い想い」という歌詞がある。パズーは、その熱い想いを父から受け継いでいる。

その一方で、母親についての言及が何もないのは不思議な感じがする。しかし、映画の中に母親の存在がないわけではない。最初は敵だった海賊の女首領ドーラが、途中から母親のような存在になる。

興味深いことに、宮崎監督の弟はあるインタヴューの中で、ドーラは彼等の母親のイメージだと証言している。監督自身、そのことは強く意識していたに違いない。

ドーラは活力に満ち、3人の息子たちに対して支配的。しかし、その行動のベースには慈愛が感じられ、いかにも肝っ玉母さんという様子をしている。
彼女がパズーの母親的な存在になるのは、パズーがシータから告げられた言葉をきっかけにしている。
ムスカに捕まったシータは、心を鬼にして、ラピュタ探索は彼女と軍が協力してやっていくとパズーに言う。パズーを救うために、彼を渓谷の家に帰らせたのだった。

シータの言葉を信じたパズーが哀しみにくれながら家に戻ると、ドーラ一味に捕まってしまう。

そこでドーラはパズーの話を聞き、シータの言葉が本心ではないことを教え、少年の胸に熱い想いを復活させる。
そのシーンの後からは、パズーに対する彼女のまなざしが母的なものになっている。

「君をのせて」では、「母さんがくれた あのまなざし」と歌われているまなざしは、ドーラのまなざしでもある。

シータはパズーにとってどんな存在なのだろうか。

ドーラの息子たちにとっては憧れの的であり、彼女の働く海賊船タイガーモスの台所にみんなが殺到する様子が、コミックに描かれている。


パズーも、シータが空から降りてきたとき天使かと思ったと言い、愛の告白をしているにも感じられる。
実際、見張り台の中で抱き合う場面は、小さな恋人たちのようでもある。

ラピュタに到着した後、二人が肩を寄せて寝転ぶシーンを、男女の恋愛の姿と解釈させする人々もいたりする。


しかし、映画の最初の対象は小学4年生であり、宮崎監督は、パズーがシータに向ける愛を性愛的なものではなく、子どもの男女の友愛として描いている。大人の目から見ると恋愛と見える関係も、男と女ではなく、人と人との「心のふれあい、相手への献身、友情」の表現なのである。

二人の関係は家族の一員のようでもある。若い頃のドーラの肖像画がシータに似ているのは、シータが将来ドーラのようになるという予告だろう。

海賊船タイガーモスの見張り台で二人が会話しているとき、ドーラがこっそりと電話を通して聞いている。この場面は、母と息子と恋人の三角関係のように見えるかもしれない。しかし、別の見方をすれば、未来のシータ(ドーラ)が今のシータの言葉を聞いていると考えることもできる。
シータがいつかドーラのようになるかもしれないというユーモアのこもった類似は、家族としての愛、同じ目的に向かう同志としての友愛を暗示しているのではないだろうか。
とりわけ、ドーラには、監督のお母さんのイメージが色濃く投影されているというのだから、シータに対するパズーの気持ちも、家族愛という側面が強いといえる。

「地球はまわる 君をのせて いつかきっと出会う ぼくらをのせて」。
この「君をのせて」の歌詞で、パズーとシータは「ぼくら」という一つの言葉の中に溶けこんでいる。ぼくら二人は一緒に地球に乗り、同じ方向を見る友だちなのだ。
サン・テグジュペリの『星の王子様』では、キツネが王子様に、人と人との繋がりや、時間をかけて作り上げる信頼関係の大切さを教えてくれる。パズーとシータの間にもそうした関係が出来上がり、二人を成長させた考えることもできる。

ラピュタから離れては生きられない

ラピュタという名前は、『ガリヴァー旅行記』に由来するけれど、宮崎監督によれば、名称だけはたまたま借りただけにすぎない。それは企画を通すための口実で、スウィフトの作品の内容はまったく忘れていたという。

ピーター・ブリューゲルの絵画「バベルの塔」に類似しているという説もある。
バベルの塔は、天上へと向かい、最後は崩壊するという部分では似ているかもしれない。しかし、ラピュタの巨大な飛行石は無傷で残り上昇を続けるのだから、これも物語を理解するためのヒントにはならない。

こうした知識を持つことは、発想を広げる上では重要かもしれないが、映画そのものから注意を引き離す可能性もある。ラピュタの意味は、映画全体の流れの中で考えることが大切である。

パズーとシータ、ドーラの海賊一味、ムスカを含む軍隊、全員がラピュタを目指す。
パズーにとって、ラピュタの存在は、父親の言葉を証明することにつながる。
シータとムスカにとって、ラピュタに到達することは、自分たちの故郷であるラピュタ王国への帰還を意味する。
ドーラたち海賊と軍隊の兵士たちにとっては、宝探しの目的地に他ならない。
このように、ラピュタを目指す目的は、それぞれ違っている。

その一方で、ラピュタが、冒険(試練)の果てに到達する目的地、様々な意味での宝島という意味では共通している。
では、みんなが目指すラピュタとは何だろう。

一つ目のヒントは、パズーとシータが地下世界で見た光景にある。

地下世界では、石が星のように輝き、美しい夜空のように見える。この光景を前にして、ポムじいさんは、「ラピュタが上空にあるとき、石が騒ぐのじゃよ」と告げる。
天空のラピュタと地底の石たちは対応しているのである。

このエピソードは、宮崎監督が意識していたかどうかはわからないが、ルネサンス時代に発展したコレスポンダンス(万物照応)の思想に基づいている。
コレスポンダンスとは、地上と宇宙の対応、ミクロコスモス(小宇宙=人間)とマクロコスモス(大宇宙)の対応を意味する。星の動きを見て人間の運命を予言する占星術は、こうした考え方に基づいている。

19世紀フランスの詩人ボードレールは、有名な詩「コレスポンダンス」の中で、万物が対応し、香りと色彩と音が互いに呼びかけ合う状態を見事に表現した。その中に次のような詩句がある。

暗く、深い、唯一のもの
その広がりは、夜のよう。そして、光の輝きのよう。

https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/

地底世界で明かされた天空と地下世界のコレスポンダンスを通して、ラピュタがボードレール的な「唯一のもの」であることがわかってくる。


島の上の部分は緑におおわれた楽園。島の下の部分は戦闘の武器そのもの。楽園でありながら、世界を支配するための武力でもある。
そうした二元性を知れば、ラピュタは人を幸福にも不幸にもするというシータの言葉が理解できる。

ラストシーンで、パズーとシータが滅びの言葉を発し、島の下部は崩壊する。しかし、巨大な飛行石はそのまま残り、上空に飛び去る。
そのエピソードによって、滅びは最終的なものではなく、再生可能であることが暗示されている。

「唯一のもの」は生も死も含む。というか、生と死が別れる以前の状態といえる。生と死、善と悪、美と醜等々、全てが存在する生命の根源。
登場人物たちにとってラピュタは、世界を支配する道具になったり、宝物になったり、父の形見になったりする。それは、ラピュタが全ての根源であるところから来ている。

ラピュタは全てを含む唯一の統一体であり、最終的には決して到達できない。一度達したとしても、決して永遠にそこに留まることはできない。ラピュタは上空に飛び去り、再び手の届かないところに去っていく。しかし、決して消滅することはなく、地球の上を飛びつつけ、地底の石たちを騒がせ続ける。

自分の信じるものへひたむきに進んでいくパズーは、ラピュタを心の中に抱きながら、いつかラピュタに到達することをいつまでも求め続ける少年でありつづけるだろう。

このように考えると、「天空のラピュタ」は、生命の根源である全ての統一体を求める永遠の旅の物語であるといえる。

ラピュタの奥深くに下り、巨大な飛行石の前で銃をかまえるムスカに対して、シータは、「土地から離れては生きられない」、「ラピュタは人類の夢」と叫ぶ。

それは決して、科学と人間を対立させ、一方を正しい側に置く意図を持った言葉ではない。

ラピュタが人類の夢なのは、決して到達できない根源的な生命そのものに他ならないからだ。
シータの言う「土地」をラピュタと言い換えることもできる。「人間はラピュタから離れては生きられない。」
宮崎監督がそこまで意識していたかどうかはわからない。しかし、ラピュタが「唯一のもの」のであり、生命の根源だとすれば、ラピュタは常に人間の心の中にあり、それが天上を浮游するラピュタと対応していると考えることもできる。

地球はまわる

ラピュタ攻防戦を通して、パズーとシータは、ムスカがラピュタを征服し世界を支配する野望をくじくことに成功する。ラピュタの攻撃機能を持つ下の部分は破壊され、緑の楽園である上部は天の彼方へと上昇。主人公たち二人は、凧に乗って、地上へと下降していく。

その時、どこからか「君をのせて」が聞こえてくる。

地球はまわる 君をかくして 輝く瞳 きらめく灯
地球はまわる 君をのせて いつかきっと出会う ぼくらをのせて

「ぼくら」がパズーとシータだとすれば、「君」とはラピュタに違いない。

ラピュタは、人の目には届かない上空にあり、ポムじいさんのいる地底とも対応している。それは目には見えない心の中にあるともいえる。
そのラピュタを求める旅は、決して終わることがない。一度到達したとしても、すぐに隠れてしまい、また遠くで輝く。地球が回るように、「唯一のもの」を求める旅は永遠に続く。

「天空の城ラピュタ」は、一度宝島に到着したら全てが解決する冒険物語ではない。根源的な生命の流れが続くように、終わることのない生の物語の一コマを描いている。
「自分の信じるものへひたむきに進んでいく少年の理想」は、子ども時代だけに限定されるのではなく、人生の中で、何度も何度も生まれ変わってくる。地球が回り続けるように。