児童文学からジブリ・アニメへ

宮崎駿監督がインタヴューの中で何度も答えているように、監督は児童文学の愛読者であり、『本へのとびら ——— 岩波少年文庫を語る 』(岩波新書)という本まで執筆している。
児童文学作品を映画化したこともある。
「魔女の宅急便」は角野栄子の同名の小説を原作にして、主人公のキキが魔女として独り立ちするために知らない町に行き、成長していく姿を描いている。
ジブリ・アニメの中では、「ゲド戦記」「借りぐらしのアリエッティ」「コクリコの坂から」「思い出のマーニー」等も、児童文学作品を基に制作されている。

そうしたことは、ジブリ・アニメが観客として最初のターゲットにしているのが、子どもであることと関係している。「となりのトトロ」や「崖の上のポニョ」はもちろんのこと、「天空のラピュタ」でさえも監督の意図としては小学校4年生に向けられているという。

そして、読者として想定された子どもたちに向けて送られるメッセージがある。
人と人のつながり、人間と自然のつながり、目に見えないものの大切さ、文明と自然の複雑な関係等、多くのことがアニメを通して伝えられる。
その内容は、子ども用だからという理由で単純化され、すぐに解決策が与えられるものではない。
それだからこそ、アニメを見終わった後、楽しい気分になるだけではなく、ずっと心に残り続ける「何か」がある。

17世紀フランスの作家シャルル・ペローは、昔話を子ども用として提示したとき、フランス古典主義の美学に従って、「楽しませながら教育する」という考え方を明確に打ち出した。
ジブリにもその標語が当てはまるといっていいだろう。

一部には、教訓が大嫌いな人々もいる。児童文学だけはなく、文学全般に対して、お説教的なメッセージを読み取ることを嫌う傾向。教訓のために物語の楽しさが奪われてしまう。文学は何かの役に立つものではなく、文学そのものとして味わうべきである。
こうした考え方にも一理ある。

しかし、文学の有用性を否定するのは、19世紀になって登場した考え方であることも忘れてはいけない。芸術は芸術のためにあり、美は美だけのためにあるという考え方。
それはそれで立派な芸術観だけれど、決して絶対的でただ一つの価値観ではない。美が有益であってもかまわないし、児童文学に教育的なメッセージを読み取ったとしても、一つの受け止め方として間違っているわけではない。
『鏡の国のアリス』は無意味を遊び、アンチ教育の本といえる。しかし、型にはまった物の見方から解放されて、自由な世界を再発見するという教訓を読み取ることも可能である。

児童文学の場合には、最初の読者は子どもであり、子どもは大人への成長段階にあるとみなされる。そこで、創作者の側から伝えたいと思うことも多いだろう。その思いが、作品の持つ魅力をより大きくする可能性もある。
すると、最初のターゲットである現実の子どもたちを通り越して、子ども性を持ち続ける大人たちの心を動かすことになる。
ジブリ・アニメの人気の秘密が、そんなところにも潜んでいる。

天空の城ラピュタと星の王子様

「天球のラピュタ」の最後に流れる「君をのせて」の歌詞を作詞したのは、宮崎駿監督自身だという。歌はこんな風に始まる。

あの地平線 輝くのは どこかに君をかくしているから
たくさんの灯が なつかしいのは あのどれかひとつに 君がいるから

天上にたくさんの星が輝いている。その中の一つに自分の愛する人がいるとしたら、その一つの星だけを愛しいと思うだろう。しかし、どの星にいるのかわからず、どれか一つにいるとしたら、全ての星が大切なものに感じられる。この言葉は、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の最後の部分をそのままなぞっている。

地球で一年間過ごした王子さまが蛇に噛まれて死を迎え、自分の星に戻っていくときの場面。
王子さまは「ぼく」に、夜には星を見てほしいと告げる。その星はとても小さいので、夜空の中ではどこにあるのか、どの星なのか分からない。「だから」と王子は言葉を付け足す。

だから、きみはどの星のことも好きになる。・・・ ぜんぶの星がきみの友だちになる。(中略)夜の星を見て、あの星の一つにぼくが住んでいて、そこでぼくが笑っている、ときみは考えるだろう。だからぜんぶの星が笑っているようにも思える。きみにとって星は笑うものだ!(『星の王子さま』)

宮崎監督は、この部分を頭に置いて「君をのせて」を作詞したと明かしている。
飛行機好きな監督は、パイロットであったサン・テグジュペリの作品の愛読者。新潮文庫版『人間の大地』(堀口大學訳)には、表紙の絵や挿絵も付け、あとがきまで書いている。
サン・テグジュペリは、その作品の冒頭で、夜間飛行で上空から平野を見た時の様子をこんな風に綴っていた。

あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。(『人間の大地』)

一つ一つの灯火に命や心を見出すのは、ジブリ的ともいえるだろう。

そのように考えると、『星の王子様』のラストシーンに強く共感した宮崎監督が、その内容を自分の言葉で言い直したのも、自然なことだといえる。

16世紀フランスの思想家モンテーニュは、花の蜜は花のものだけれど、蜜蜂がその蜜を吸い、自分の体の中で蜂蜜に替えれば、その蜜は蜂のものだと主張した。
一つの考えも、最初に書いた人のものというだけではなく、それを理解した人のものになる。
宮崎監督は星の王子さまがパイロットに語った言葉をかみしめ、「君をのせて」の歌詞にした。それはもう宮崎監督の言葉になっている。

このようにして、『星の王子さま』からジブリ・アニメへと、児童文学のエキスが伝えられている。

児童文学の視点

児童文学には昔話から続く「物語の基本構造」がある。
主人公は不幸な状況に迫られて試練の旅に出る。そこで、多くの場合には援助者の助けを借りながら、様々な試練を乗り超える。その結果、幸福な状況に到達する。
こうした一連の流れの中で、よい行いは報いられ、悪い行いは最終的には罰せられる。主人公は、子どもから大人への段階を上がり、何らかの成長をする。

「魔女の宅急便」では、キキが13歳になり、試練の旅に出るという設定がはっきりと示されている。
「千と千尋の神隠し」でも、トンネルを抜けた千尋は、湯婆の支配する銭湯で多くの試練を乗り越え、最後は豚になった両親を人間の姿に戻るところまで成長し、元の世界へと戻ってくる。
「となりのトトロ」だと試練が試練としてはっきりと描かれないが、引っ越してくる家の前には川が流れ、家に入ればまっくろくろすけが見えたりする。メイとさつきはトトロというおばけの世界に入り込み、そこで試練を受けると考えることもできる。
「ハウルの動く城」では、魔女によってソフィーがおばあさんの姿に変えられてしまい、元の姿を回復するまで試練が続く。

それに対して、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」では、試練というよりも戦いの場面が多く、冒険活劇という側面が強く打ち出されているようにも見える。
「天空の城ラピュタ」に関しては、宮崎監督自身が、少年を主人公にした冒険活劇を作りたかったと打ち明けている。
しかし、それらのアニメも、単に戦闘場面を通して胸がスカッとする爽快さを求めているだけではなく、様々な文学的な要素がちりばめられ、児童文学的な基盤は共通している。

では、児童文学的な視点からジブリ・アニメを読み説くと、どんな姿が浮かび上がってくるのだろうか。
ナウシカの戦いを止めようとする力、ラピュタを求める旅、メイとさつきの空想、アシタカの戦い、千尋の成長、ソフィーの恋物語を通して、その答えを探っていくことにしよう。

風の谷のナウシカ(1984)
https://bohemegalante.com/2019/07/05/nausicaa-de-la-vallee-du-vent/

天空の城ラピュタ(1986)
https://bohemegalante.com/2019/04/07/laputa-chateau-dans-le-ciel/

となりのトトロ(1988)
https://bohemegalante.com/2019/08/06/mon-voisin-totoro/

もののけ姫(1997)
https://bohemegalante.com/2019/06/21/princesse-mononoke/

千と千尋の神隠し(2001)
https://bohemegalante.com/2019/03/02/voyage-de-chihiro/

ハウルの動く城(2004)
https://bohemegalante.com/2019/06/13/chateau-ambulant/

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