日本語 ウチの言葉

日本語はウチの言葉である。

『日本語の文法を考える』(岩波新書)の中で大野晋が概説する日本語論によれば、日本語はウチの言葉であり、ソトの言葉であるインド・ヨーロッパ語族の言語とは対照的な特色を持っている。例えば、主語を明確に提示しないこと、構文がそれほど明確でないこと、こそあど体系、抽象的な表現より具体的な表現を好むこと、他動詞表現よりも自動詞表現の方が自然に感じられること、オノマトペの多用、IとYouの表現が数多くあること、等。

日本人のメンタリティーもウチの言葉によって形作られていて、言葉をはっきりさせずに相手の気持ちを推し測ったり、あうんの呼吸を大切にする。

人間だけではなく自然とも内的な関係にあり、花鳥風月が感情表現と密接に結びつき、自然がカミとして感じられたりもする。

こうした特色のベースにあるのが、ウチという状況である。

日本の社会は伝統的に農村社会が中心で、村の中では誰もがお互いを知っていることが前提の社会だった。異質なものは排除される。

そうした社会において、言葉の役割は何か?
お互いに知っていることを確認する必要はなく、相手の知らないことを言うだけでよかった。
「どうする。」「やめとく。」
「色は。」「白っぽい。」
同質性の強い村社会では、必要最小限の言葉を口にするだけで、会話は成立する。それ以外の要素、例えば、誰が何をといった主語や目的語を省略しても通じる人間関係の中で、日本語は使われてきた。

西洋においては、誰が、何を、どのようにしたのか、誤解が生じないようにすることが不可欠とされる。英語でもフランス語でも、主語と動詞が構文の基礎的な単位となり、基本的にはそれを省略することはない。
言葉は客観的な構造に基づき、相手に情報を伝えるツールとしての役割を担っている。
こうした言語は、ソトの言葉といえる。

ソトの言葉の場合、「我」は動作の主体、「汝」はその対象。主客の関係が明確であり、主体と客体は他者として独立していると、大野晋は考える。
それに対して日本語では、「我」と「汝」とは基本的に共同の場で生きており、同じ感覚を持って事態に対処してゆくウチなる存在と考えられる。(p. 77)
そこで、相手の気持ちを考え、遠慮し、気を悪くしないように細心の注意を払う。そのために、相手との距離を考え、言葉のレベルを考え、相手に悪く思われないようにする

同じことが、事物や自然との関係に関してもあてはまる。

ソトの言葉では、事物や自然をソトから捉え、抽象化、一般化して捉えようとする。
大野によれば、抽象化することは、個々の事例を別々に取り扱わずに、普遍化、一般化して取り扱うことである。(p. 57)

それに対して日本語は、事物や自然をウチの存在として捉え、一体化し、感覚的、感情的に捉える。
その典型がオノマトペといえる。雨がシトシト降る。ザーザー降り、等。
こうした表現は、「物の状態を純粋に客観的に見て、自分自身と切り離して対象化して扱うのではなく、どこかで自分自身の情意や感覚と対象を融合させ重ね会わせ、未分化のままで言語化してゆく表現法」(p. 71)だと大野は言う。

このように考えると、日本語の世界では、生物、無性物の区別なしに、全ての存在に感覚、感情、生命が感じられることになる。

日本語がウチの言葉だという大野晋の説は、日本語を考える上で、最も基礎的な認識になる。


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