日本語の一人称、二人称の代名詞は、とても特殊である。
英語であれば、自分は« I »、相手を « you »と言うだけ。いつでもどこでも共通である。
日本語ではそうはいかない。相手によって、自分のことを、私、ぼく、先生、お父さんと言ったりする。相手に向かって、君とかあなたと言うことはまれで、お母さん、奥さん、おばちゃんと言ったりもする。
日本語を母語とする人間は、そうした複雑な代名詞を自然に使い分けている。
その理由は、日本語がウチの言葉だというところから来ている。
夏目漱石の有名な小説は「吾輩は猫である。」という一節で始まる。
この「我が輩」を、「私は」「俺は」「あたしは」「拙者は」など別の言葉で言い換えると、雰囲気がまるで変わってしまう。また、「である」という語尾も変える必要が出てくるだろう。
会社では、役職が二人称になり、社長、部長と相手を呼ぶ。
学校では、先生に向かって「あなた」などということはなく、先生という役職を使う。
家族の中では、自然に、親族関係の役割で呼ぶ習慣がある。
鈴木孝夫が言うように、一家の中の最年少の呼び方が、家族の構成員を呼ぶときの基本になる。お母さんは、孫が生まれるとおばあちゃんになり、孫だけからではなく、子どもからもおばあちゃんと呼ばれる。
このように、日本語を使う場合には、自分も相手も個人として独立した存在としてでなく、家族や社会組織の関係の中で捉えていることがわかる。
井上ひさしは、こうした呼称のあり方について、「相手に合わせての自分定め」と定義する。(『私家版 日本語文法』新潮文庫)
「日本語の代名詞は、常に相手と断絶状態におちいるのを防ぐことを主なる目的として用いられる。」
「わたしたちは相手との関係をよくよく見定めて、相手をどう呼ぶか決める。」
「わたしたちは終始、相手との間を測り、相手と間を合わせることに苦心しているが、この間を微調整するために、無限に近い人称代名詞を必要とする。」
このようにして、適切な人称代名詞を用いることで、安心できる距離を作り出し、一つの空間を共有する共同体の一員となる。こう言ってよければ、仲間ウチになる。仲間ウチでは言葉が通じ、外部の人間、よそ者とは口がきけないし、わかり合えないと思い込む。
同じことを大野晋も指摘する。(『日本語文法を考える』岩波新書)
「「我」と「汝」とは基本的に共同の場で生きており、同じ感覚をもって事態に対処してゆくウチなる存在ととらえる。だから共に生活し行動する相手をなるべく傷つけまいとする。相手に遠慮し、つとめて相手の気持ちをはかる。そのためには相手を自分からどの程度の近い存在として扱うか、遠い存在として扱うか、あるいは対等の存在として扱うかなど「我」と「汝」の適当な位置づけについてこまかい神経を使う。」
英語では、お互いの人間関係を考えず、自分を « I »、相手を« you »というだけですむ。自分は動作の主体であり、対象となる相手に対して働きかけを行う。こうした客観的な関係があるだけで、主観が入り込む余地はない。
英語と日本語における一人称、二人称の代名詞の違いに関して、どちらがいいとか悪いとかを問題にするのは意味がない。
日本語はウチの言葉であり、相手との関係を微妙に推し量りながら、言葉を選択する。
英語を学ぶときに大切なことは、英語を通して、日本語のあり方を知り、そこから英語表現に基づくメンタリティーを知ることである。
フランス語やドイツ語を学ぶと、英語とは違う側面が見えてくる。「私」は常にJe / Ichで代名詞は一つで、英語と同じ。しかし、相手のことは、親しさの度合いに応じて、tu, vous / Du, Sieと使いわける。そうした側面から、英語文化圏とヨーロッパ文化圏の人間関係の違いが見えてきたりする。