日本語 主語と抽象性

日本語の文章では、主語は必ずしも必要とされない。そのことを示す最も有名な例は、川端康成の『雪国』の冒頭の一節だろう。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

国境を越えたのが誰なのか、何なのか、わからない。しかし日本語としては十分に理解可能だし、美しい。

他方、英語やフランス語に訳す場合、どうしても主語をはっきりさせないと文章を構成することができない。主語、動詞、そして多くの場合目的語があって初めて文章が成立する。

この違いはどこからくるのだろうか。

日本語はウチの言葉であり、一般的で普遍的な真実を伝えるよりも、情感や情緒を大切にする。話し手がいつでも話の内容の中に入り込んでいて、具体的な状況から離れて客観的に考察することが少ない。

4年前にパリに住んでいた。

2015年にパリに住んでいた。

日本語で普通に口にするのは、「4年前」の方である。その場合には、今から4年前であり、その今というのは話をしている人の今である。つまり、何気なしに「4年前」という時、「話している私がいる今の時点から見て」という視点が含まれている。

2015年と言う場合には、発話者の今とは関係なく、客観的な年代にパリ滞在を位置づけることになる。今の私とは切り離された、一般的で普遍的な年が2015年である。

この例から推測できることは何か。

日本語では、パリの滞在という事実に対して、今の私から見てそれがいつだったのか、それをどう感じているのか等が関心の中心になる。主体が発話のウチにいて、滞在した事実を今の私の出来事の(完了した)一部として捉える。

客観的な視点を取り入れ、私とは関係のない一般的な出来事として表現すると、科学的には正しいかもしれないが、どこか冷たい。何となく人ごとのような感じといったらいいだろうか。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という文を読むと、主語がなくても、話者あるいは書き手が感じられ、読者も、すっと雪国の世界に入っていくことができる。

英語やフランス語ではそうはいかない。文章には構文が不可欠とされる。
ある出来事に対して距離を置き、客観的な視点から分析を行い、一般的、普遍的な事柄あるいは真実を導く出すという思考を取る。
そして、結果から原因を探り出した場合、その原因を主語として、作用は動詞、主語が働きかけた対象を目的語とする。それがSVOの構文で表現される。

そのことを最もよく示すのが、いわゆる無生物主語の構文だろう。
雨が降るので外出するのをやめるという時、フランス語では、とりわけ書き言葉において、雨が私の外出を妨げる(La pluie m’empêche de sortir.)という表現を使うことがある。
外出できない理由を考え、雨という原因を取り出す。その原因である雨を主語として、構文を構築する。
その意味で、分析的であり、その分、日本人には冷たく感じられる。
事実に即してそのまま表現するのではなく、頭で考え、理屈で作り出された文章。それがソトの言葉的表現だといえる。

道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。(川端康成『伊豆の踊子』)

この文には、主語と動詞、目的語が存在している。それにもかかわらず、『雪国』と同じような文体の効果を持っている。それは、道とか雨脚がヨーロッパの言語と同じ意味での主語として働いていないからだろう。あってもなくてもいいので、あったとしてもそれほど中心的な要素ではない。状況を示す他の言葉と同程度の役割と考えると、主語があってもなくてもいい日本語文の特色の理由がよく理解できる。

山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり

この和歌は、山や川、風、紅葉に言及しながら、が、単なる風景を描いているにすぎない。論理性、一般性、抽象性といった要素はかけらもない。
しかし、しがらみが葉を留めるという意味から、人の世のしがらみを連想させ、作者である春道列樹(はるみちのつらき)の心の様子を感じさせもする。

山川草木を歌いながら、それがそのまま心情の表現であるのは、日本語がウチの言葉であるからといえるだろう。

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