日本語 擬音語・擬態語

日本語の豊かさの一つに、擬音語や擬態語が数多いということがあげられる。雨が降るときの表現として、シトシト、ザーザー、ポツポツ、パラパラ、ショボショボが付け加えるだけで、実感が湧いてくる。

擬音語や擬態語は、動詞や形容詞が表現する状態に具体性を与え、より詳しく、活き活きとした感じを生み出す働きをする。
その理由はどこにあるのだろうか。

三島由紀夫は擬音語や擬態語が嫌いらしい。『文章読本』の中で、擬音語の特徴の一つは抽象性がないことで、言語の抽象性を汚し、それを乱用すると作品が作り出す世界の独立性を汚すとまで書いている。その理由は、擬音語や擬態語というのは事物を事物のままに人の耳に伝達するだけで、言語が本来持つ機能をもたないから、としている。

それに対して、井上ひさしは、擬音語や擬態語を擁護する立場を取る。
「ある事柄をできるだけ委しく、生き生きと、そして具体的に語って、聞き手や読み手を自分のつくった世界に引きずり込みたいなら、擬音語や議題語をどしどし使って構わないのだ。」(『私家版 日本語文法』) 
実際、彼は、この文の中でも、どしどしという擬音語を使っている。

この争い、三島よりも井上に勝ち目がある。というのも、日本語は擬音語や擬態語の宝庫だし、それに基づいた動詞表現も数限りなく存在するからである。
ザワザワからざわめく、ざわつくが生まれ、キラキラからきらめくが生まれたりする。

こうした擬音語や擬態語は、日本人が音に対して鋭い感覚を持ち、敏感に反応し、その音をそのまま再現したものかもしれない。
目や耳にした現象を分析するのではなく、全体的な印象として受け取り、感覚上で関連のある言語の音声とつなげ、表現する。こうした説明がなされることもある。

しかし、それ以上に日本人の言語感覚に根ざした理由があると思われる。大野晋の次の説明には説得力がある。

「このオノマトペイア(擬音語・擬態語)の表現は、物の状態を単純に客観的に見て、自分自身と切り離して対象化して扱うものではなく、どこかで自分自身の情意や感覚と対象とを融合させ重ね合わせ、未分化のままで言語化してゆく表現法だということである。」(『日本語の文法を考える』)

言い換えると、日本語はウチの言葉であり、自然現象もウチの中に取り込んで把握する。そのために、例えば、雨が小さな粒で降っているとき、それをソトの世界のこととして分析的に捉えるのではなく、ウチの世界のこととして感覚的に感じ取る。シトシトが客観的な雨の様子を表すのではなく、情感を伴っているのはそのためだといえる。

ポール・ヴェルレーヌのいくつかの詩は、日本でとりわけ好まれている。

秋の日の ヰ゛オロンの ためいきの 
ひたぶるに 身にしみて うら悲し。

Les sanglots longs
Des violons
De l’automne
Blessent mon cœur
D’une langueur

巷に雨の降るごとく われの心に涙ふる
かくも心ににじみ入る この悲しみは何やらん?

Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville ;
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur ?

ヴェルレーヌは、ヴァイオリンの音や雨を心のウチに取り込み、抒情的な世界を作り出している。こうした感受性が日本的な感性とつながることが、日本で愛される所以だろう。

もしヴェルレーヌが日本語を知っていたら、わざわざ巷と心を区別しなかったかもしれない。雨がしとしと降っていると言うだけで、彼の心を満たす物憂い悲しみが伝わったのだから。

人間と自然界がウチと感じる言語感覚の中で、擬音語・擬態語は生み出される。そのために、外的な事象が同時に心の表現でもある、ということになる。

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