
「万引き家族」は、親の死亡届を出さず、年金を不正に受給していた家族の実話に基づき、是枝裕和監督が家族のあり方を考えた映画だという。(wikipedia)
現在、実の親による子どもの虐待が度々ニュースで報じられる中、血の繋がらない大人と子どもが集まり、家族のように暮らす人々を描いたの映画。
家族は血が繋がっていると考えるのが普通の考え方。血縁関係にない人々がいかにも家族のように暮らしても、疑似家族にしかならない。家族のまねごと?
「万引き家族」の家族は、夫と妻、おばあちゃん、妹、二人の子どもという6人で出来上がっている。彼等は一つの家の中で家族のように暮らしているが、血のつながりはない。
映画の最初の構想では、拾ってきた子どもに「お父さん、お母さん」と呼んでもらいたい夫婦の話だった。しかし、祥太はなかなか治をお父さんとは呼べない。
二番目の子どものゆりは、実の親から虐待され、アパートの廊下にいるのを治が見つけ、家に連れてくる。
おばあちゃんの初枝は、表向きは独居老人となっていて、夫婦は居候のような存在でしかない。
私たちの自然なリアクションとして、実の親、血の繋がりのある家族関係が大切であり、子どもは本当の親の元で育つのが幸せだと考えてしまう傾向にある。
是枝監督はこの点にスポットライトを当て、家族と血の繋がりの問題を何度か描いてきた。2003年の「誰も知らない」、2008年の「歩いても歩いても」、2013年の「そして父になる」等。
https://www.huffingtonpost.jp/2018/06/20/hirokazu-koreeda-shoplifters_a_23458656/

このテーマは、別のジャンルの映画でも扱われている。
2004年に、血の繋がりとは関係のない人々が家族のような集団を形作る映画が上映され、大ヒットした。
ソフィーとハウルを中心とし、荒野の魔女がおばあさん、マルクルが子ども。犬のヒンがペット。カルシファーもその一員に加わる。そして家は動く城。
ソフィーは、血の繋がった家族の家を出て、友愛による疑似家族を形成していく。
宮崎駿監督の「ハウルの動く城」は、血のつながらない家族の物語だった。
https://bohemegalante.com/2019/06/13/chateau-ambulant/
近代社会の中で、家族の中心となるのは、妻と夫である。そして、ふと振り返ってみると、二人に血の繋がりはない。
二人を繋ぐのは、愛を基本とした複雑な感情。一言では言葉にできない。
家族にとって大切なのは、血の繋がりなのか、言葉で言い表せない感情なのか。
「万引き家族」と「ハウルの動く城」で二人の監督が提案したのは、その問いを観客が自分に問いかけてみることだったのではないか。
血の繋がりがある場合にも、家族愛といった感情が自然に存在していると考えるのではなく、治と信代夫妻やソフィーのように、その感情を作り出していく必要があるのではないか。

「万引き家族」には、家族のあり方以外に、もう一つの問いかけがある。
それは、言葉が本心の表現しているかどうか、という問題。
登場人物の言葉が現実を反映しているのか、それともその場その場での言い逃れなのか、わからないことがあったりする。
最初に気にかかるのは、人の名前。柴田治の本当の名前は祥太。その名前を彼は拾ってきた子どもに与え、自分は別の名前を名乗る。
虐待されていた女の子の名前はじゅりだが、彼女は自分をゆりだと言い、みんなゆりと呼ぶ。しかし、テレビで彼女のニュースが流れると、見つかることを心配して、りんという名前に変える。
固有名は本来、その名で呼ばれる一人の人間を指すはずなのに、この映画の中では、偽りの道具として使われている。
そこから、言葉に対する不信を感じ取ることができる。
その言葉に対する不信が映画の中で実に巧みに仕組まれ、観客の想像力をかき立てる。

疑似家族の一人一人が、この家族に愛を感じ、そこでしか得られない幸福感と安らぎを得ていることは、映画を通してずっと感じられる。
海水浴の場面が、その頂点だろう。
しかし、言葉の上ではそうではない。
亜紀はおばあちゃんに甘え、信頼している様子がうかがわれる。しかし、警察の事情聴取を受けているとき、おばあちゃんが亜紀の両親から金銭を得ていたことを聞かされ、「おばあちゃんはお金のために私を。。。」と涙ぐむ。
では、本当にお金のためなのか、そうでないのか。どちらかわからないし、決められないかもしれない。
祥太が捕まった後、一家のみんなは家から逃げようとして、警察に捕まる。そのことを知った祥太は治に本当かどうか確認する。治は本当だと答え、「ゴメン。」と付け加える。
確かに一家で逃げだそうとしたが、本当に祥太を捨てて逃げようとしたのかどうかわからない。
映画の最後の場面、バスに乗る前、祥太は万引きして捕まったことにふれ、「自分はわざと捕まった」と治に言う。確かに、スーパーマーケットで万引きしたとき、わざと目立つようにして、捕まるきっかけになる。
しかし、妹のりんが万引きしようとしたのを見て、注意を自分の方に向けるためだったようにも見え、わざと捕まったのかどうかはわからない。
あるいは、駄菓子屋のおじさんに、「妹にはさせるなよ。」と言われてから、万引きに対する意識が変わってきていて、そろそろ止めたいと思い、わざと捕まったのかもしれない。
祥太の「自分はわざと捕まった」という言葉は、本心かどうかもわからない。彼自身何が本心かわからないかもしれない。バス停での治との会話の中で、その時に思いついただけであるかもしれない。
私たちが現実でもしばしば経験するように、祥太は自分の中にあるいろいろな気持ちの中から、たまたま一つだけを選んで言葉にした。
私たち観客は、祥太の言葉を聞き、彼の複雑な気持ちを推し量ることになる。ちょうど、実際の生活の中で、そうしているように。
だからこそ、登場人物たちの言葉から、様々な感情を読み取り、映画の中に深く引き込まれる。
「万引き家族」のリアリティの源泉は、俳優の演技力だけではなく、セリフの巧みさにもよっている。

言葉が現実と対応しない時代。そうした時代に信じるものがあるとしたら、それは感情を感じ取る感覚だろう。
言葉ではお互いを悪く言うかもしれない。しかし、柴田家という疑似家族には愛に基づいた感情が感じられる。
「万引き家族」の最大の魅力は、そこにあるだろう。
この作品を見たときは衝撃でした。
幸いフランスでV.Oで見る事ができたのですが(字幕が大変邪魔でしたが)、見終わった後どうしでも全うに言語化してコメントすることができなかったのを覚えています。
言葉にできなかった一部がこの「万引き家族 言葉と現実」に書かれてあったと感じます。
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コメント、ありがとうございます。
気持ちと言葉について言うと、私たちの中には一つの事柄に関していろいろな気持ちが共存していて、言葉はその中の一つをすくい上げるけれど、決して全体を表現するものではない、ということでしょう。
家族のあり方で言えば、最近の日本で多発している児童虐待のニュースを聞くと、家族の愛は自発的なものと考えるのではなく、じょじょに作るものと考えた方がいいというメッセージが伝わってきます。
とにかく、監督の演出や俳優の演技も含め、素晴らしい映画だと思います。
是枝監督は、今、カトリーヌ・ドヌーヴやジュリエット・ビノシュと一緒に新作を撮影しているようです。楽しみです。
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『存在のない子供たち』という映画に波及しているような気がしました。
(=^ェ^=)
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コメント、ありがとうございます。
『存在のない子供たち』はまだ見ていません。
面白そうな映画ですから、機会があり次第、見てみます。
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