ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 5/7 言葉で遊ぶ

幸福感

難破は悲劇だけれど、しかし、束縛から逃れ、自由になることでもある。疲れ果てることもあるが、美と遭遇し、癒やしを感じることもある。
第15詩節では、ランボーの筆から、肯定的な雰囲気を持つ言葉が数多く繰り出される。

J’aurais voulu montrer aux enfants ces dorades
Du flot bleu, ces poissons d’or, ces poissons chantants.
Des écumes de fleurs ont bercé mes dérades
Et d’ineffables vents m’ont ailé par instants.

ぼくは子ども達に見せてやりたかった。青い波の鯉や、
黄金の魚や、歌を歌う魚を。
花々の泡が、ぼくの漂流を揺り籠のように揺すった。
心地よい風が、時々、ぼくに翼をつけてくれた。

ランボーは、現実に存在しないものを言葉で生み出し、さらには存在しない言葉まで作り出す。

できることなら子どもたちに見せたかったという3種類の魚は、青い波で出来ていたり、歌ったりする。金の魚も、黄金でできた魚となれば、実在しない。
現実の対応物を探すよりも、言葉が読者の想像力を動かし、自由なイメージを作りあげるように要請する詩句である。

青い波の鯉に関しては、青い波(flot bleu)が、1行目では収まらず2行目にとばされ、鯉(dorades)という単語と切り離されることで、強調されている。ルジェ(rejet)と呼ばれる詩の技法。
さらに、doradeの[ 0 ]がflotにつながり、orと黄金になる。母音 [ o ]の反復(アソナンス)によって、最初の2行は金色に染められる。

次の2行では、新語が作り出される。
dérade
ailer

フランス語の単語も、漢字と同じように、核になる部分の組み合わせで出来ている。
例えば、峠という漢字は、山、上、下の組み合わせ。核になる部分の理解ができれば、意味の推測は付く。

déradeは、dérader(停泊地を離れる)という動詞に由来する。
なぜこんな新語を造ったかと言えば、鯉を意味するdoradeと韻を踏み、しかも、dの音も共通する。dorade – déradeという音の言葉遊び。

ailerは、aile(翼)という名詞を動詞にした言葉。フランス語を解する読者にはすぐに推測がつく。

この二つの新語の周りには、花の泡、揺り籠で揺する、言葉で言い表せないほど心地よい風という、美しく気持ちのいい言葉が繋げられ、幸福感を醸成している。

休息

第16詩節

Parfois, martyr lassé des pôles et des zones,
La mer dont le sanglot faisait mon roulis doux
Montait vers moi ses fleurs d’ombre aux ventouses jaunes
Et je restais, ainsi qu’une femme à genoux…

時折、南極や北極、様々な地域を回って疲れ果てた殉教者であるぼくの方に、
海は、すすり泣いて船の横揺れを和らげ、
黄色い吸盤の付いた影の花々を持ち上げてくれた。
ぼくは留まっていた。ひざまずく女のようにして。。。

ランボーの詩句では珍しく、ここでは構文が故意に混乱させられている。

Parfois は、海が花を持ち上げるに関係する状況補語だが、parfois とmonterの間に別の要素が入り込み、関係がわかり難くなっている。

殉教者Martyrは「ぼく=酔いどれ船」。しかし、構文的には、mon roulisのmonにも、vers moiのmoiにも関係付けられない。

このように、構文への挑戦が試みられていることがわかる。
その挑戦とは、構文の規則に従わなくても、言葉が自立して、ある意味を伝えうることの証明だろう。

様々な航海の果てに、疲れ果てた「ぼく=酔いどれ船」の姿が浮かぶ。
長い旅路の中、時には停泊することもある。その姿は殉教者のようであり、祈るためにひざまずく女を連想させる。
その時に慰めてくれるのは、海。荒れ狂う海ではなく、すすり泣く海。
海は、船を穏やかに揺らし、時には「黄色い吸盤の付いた影の花々」を捧げてくれる。
吸盤は人が病気になったときに血を吸い取る治療のために使われた。従って、癒やしとつながる。吸盤に付けられた黄色は、その時の色なのだろう。

第16詩節は、大航海の中での、わずかな休息の時を告げている。

後ずさりしながら

第17詩節では、最初に停泊している状態が描かれ、次に再び動き始める。

Presque île, ballottant sur mes bords les querelles
Et les fientes d’oiseaux clabaudeurs aux yeux blonds.
Et je voguais, lorsqu’à travers mes liens frêles
Des noyés descendaient dormir, à reculons !…

まるで島のような、ぼくの甲板の上で揺れているのは、
金色の目をした騒々しい鳥たちの、けんかや糞。
そしてまた、航海を続けると、弱った綱を横切って、
溺れた人間たちが、眠るために下っていた。後ずさりしながら!

Presque île(まるで島のよう)という表現は、言葉遊び。
ランボーは、presqu’île(半島)という言葉を、元の二つの言葉、presque(ほとんど)とîle(島)に戻してしまう。

次に、詩の中では誰も使わないような汚い言葉を吐き出す。
糞 fiente
詩のヴォキャブラリーに関するルール違反だ。

こうした語彙とは対照的に、詩句の意味は明白だ。
船が止まっていると、うるさい鳥たちがやって来て、糞を落とす。だから、休息もほどほどに、再び出航する。

航海を再開すると、以前と同じように、死体が流れているのが見えてくる。
第6詩節の水死者たちは、詩の海の中に浮かび、考え深げに下っていく溺死者。(un noyé pensif parfois descend.)
今度の死者たちは、船の摺り切れた綱の間を流れていく。
その綱は、最初に出てきた綱曳人たちの綱かもしれない。つまり、導きの綱であるとともに、自由を束縛する綱。
その切れ端が、まだ残っていたのだろう。

綱の間を流れ落ちていく複数の水死者たち。その一人一人は、「ぼく=酔いどれ船」の様々な姿だと考えられないだろうか。
ぼくの複数の側面が、船から離れて、下っていく。

ここでランボーは、また構文を混乱させ、一つのトリックをしている。
「後ずさりしながら」à reculonsという表現が、「航海していた」je voguaisから引き離され、船が後ろ向きに進んでいるのか、水死体が後ろ向きに下っているのか、曖昧にされるのである。
船と死体が離れていくことは確かで、一方から見れば他方が後ろ向き。視点によって向きは相対的になる。
休息していた船が、後ろ向きに動きだすとしたら、面白い。
ランボーの遊び心が、こんなところにも示されている。