ランボー 「酔いどれ船」 Rimbaud « Le Bateau ivre » 6/7 自省の時

第18詩節から第21詩節までの4つの詩節では、「ぼく=酔いどれ船」がどのような存在であるのかが、”moi”という言葉を先頭にして示される。

第18詩節

Or moi, bateau perdu sous les cheveux des anses,
Jeté par l’ouragan dans l’éther sans oiseau,
Moi dont les Monitors et les voiliers des Hanses
N’auraient pas repêché la carcasse ivre d’eau ;

ぼくは船。小さな湾の髪の毛の下で難波し、
暴風で投げ出され、鳥もいない空中を漂う。
ぼくは船。護衛船やハンザ同盟の帆船が、
この骨組をもう一度釣り上げようとはしなかっただろう。水で酔っ払っているんだ。

この詩節の最後で、酔っているという言葉が出現し、「酔いどれ船」という題名の説明になっている。
その酔いが、酒ではなく、水によってもたらされることに注目しよう。

第1−2詩行では、「ぼく=酔いどれ船」が二つの次元を通底させることが示される。つまり、湾の下と天空。
ランボーらしく、湾(anses)には髪(cheveux)を生やさせ、読者を煙に巻く言葉の連結がなされている。
天の方には、エーテル(l’éther)という言葉を使い、神秘性が付与されている。かつては、空はエーテルという流体が天空の充満していると考えられていた。
(ちなみに、Étherという言葉をwikitionnaireで調べると、ランボーのこの詩節が例文として引用されている。)

第3−4詩行になると、難波のイメージが前面に出され、例え救援があったとしても救われない船であることが強く印象付けられる。

護衛船やハンザ同盟の帆船は、ぼくという船のイメージをもう一度思い起こさせるためだろう。

救援されない理由は、酔っているから。ぼくは酔いどれ船なのだ。

第19詩節

Libre, fumant, monté de brumes violettes,
Moi qui trouais le ciel rougeoyant comme un mur
Qui porte, confiture exquise aux bons poètes,
Des lichens de soleil et des morves d’azur ;

自由で、煙を吐き、紫色の靄が立ち篭めている、
ぼくは、赤く染まった空に穴を開けていた。壁に穴を開けるように。
そこには、よき詩人たちにはこの上もなく甘美なジャムである、
太陽の苔と蒼穹の鼻汁が付着している。

この詩節は、自由(libre)で始まり、蒼穹(azur)で終わる。

「酔いどれ船」の 第一節から、「ぼく=酔いどれ船」が求めるのは「自由」。
そして、大海原での航海の目的は、これまでの束縛から解放され、新しい言葉の結合によって、新しい詩を生み出すことだった。
赤く燃え上がる空に穴を開けることは、新しい詩への道を切り開くことだ。

そのような航海の後で、今、船体に付着しているのは、「太陽の苔」と「蒼穹の鼻汁」。
この表現がいかにもランボーらしい。
太陽も蒼穹も、理想を象徴するのに相応しい。
とりわけ、蒼穹(Azur)という言葉は、マラルメの詩からも類推できるように、詩の理想郷を象徴する。
https://bohemegalante.com/2019/06/20/mallarme-lazur/
それに対して、苔(lichen)や、とりわけ鼻水(morve)は、価値を低下させる言葉。
第17詩節で使われた「糞」’fiente’という言葉も含め、苔や鼻水などという言葉は、詩的言語として用いられることはなかった。ランボーはわざとそうした言葉を使い、慣習的な詩法に語彙のレベルで風穴を開けようとしたのだと考えられる。

第20詩節

Qui courais, taché de lunules électriques,
Planche folle, escorté des hippocampes noirs,
Quand les juillets faisaient crouler à coups de triques
Les cieux ultramarins aux ardents entonnoirs ;

走り続け、、電光が光る半月形の染みがついていた。
狂った板だ。黒い海馬たちが併走していた。
そんな時、7月が太い棒でぶんなぐって 崩壊させたのは、
燃え上がる漏斗の付いた、真っ青な空。

冒頭の« Qui courais »は、第19詩節の« Moi qui trouvais »に続き、「ぼく」の行為を描く。

第20詩節で中心になるのは、「走る」こと、つまり航海の状況。
それは、染みがついた(taché), 板(planche), 付き添われる(escorté)という3つの言葉で示される。

染みを具体的に表現する、lunuleは爪の根に近い白い部分。
狂った板は、船が狂ったように走り回っている様子をわかりやすく表現している。
同伴している海馬(Hippocampe)は、ギリシア神話で、海神の馬車を引く馬。

3−4行目の詩句では、複数形の7月(les juillets)が主語となり、「ぼく=酔いどれ船」が航海しているときの状況を具体化する。
太い棒というのは、ハリケーンのことだろう。暴風雨が青い海に打ちつけ、その激しさが崩壊(crouler)という言葉で比喩的に表される。
高い波が上がり、波の間には深い谷(=漏斗)が出来る。

こうした高い波は、北斎の「神奈川沖浪裏」を思わせる。この浮世絵は、フランスでは「大浪」(Grandes vagues)という名前でよく知られている。

北斎 「神奈川沖浪裏」

ギュスターヴ・クールベも波をテーマにした絵画を描いている。

Gustave Courbet, La Vague

ランボーが「酔いどれ船」を書いたとき、まだ海を見たことがなかったということはしばしば指摘される。しかし、挿絵入りの雑誌などで、クールベや北斎の大波の絵を見たことがあったかもしれない。
そして、こうした波の形象から漏斗を想像し、そのエネルギーを「燃えるような」と感じたのではないだろうか。

第21詩節

Moi qui tremblais, sentant geindre à cinquante lieues
Le rut des Béhémots et les Maelstroms épais,
Fileur éternel des immobilités bleues,
Je regrette l’Europe aux anciens parapets !

ぼくは震えていた。50海里向こうで呻くのを感じたのは、
悪魔の動物たちの発情と、メールストロームの巨大な渦潮。
青い不動の海や空から永遠に逃げ続ける
ぼくは、ヨーロッパを懐かしんでいる。城の古い胸壁のあるヨーロッパを!

この詩節には、moiからjeへの転換がある。
第1詩行はMoiで始まり、第4詩行がJeで始まる。
この転換は、第18から始まったmoiの状況を描写する部分が21節で終わり、
第22詩節から始まる je の行為を語る部分への移行することを予告している。

遭難し、小さな湾に閉じ込められたり、大海原で嵐に打たれたりしながら、
空を穿ち、様々な試練を経てきた「ぼく=酔いどれ船」は、ここに来て、震えている。
恐ろしい怪獣や大嵐の呻きを恐れたためだろうか。
Béhémotsは旧約聖書の「ヨブ記」に出てくる怪物。
メールストロームの渦潮は、ノルウェー沖の巨大な渦巻き。エドガー・ポーの小説を通して、文学的な形象として定着していた。

この時、ぼくは、不動の青い空や海(immolibités bleues)から逃げ出す存在になっているように感じている。
「芸術家の告白」のボードレール的に言えば、詩人は、美との戦いの中で、常に負けるしかない。
https://bohemegalante.com/2019/02/20/baudelairle-confiteor-de-lartiste/

「ぼく=酔いどれ船」は、長い航海の果てに、蒼穹を求める旅に疲れたのだろうか。
急に、自由を求めて旅立ったヨーロッパが恋しく思われる。
古い胸壁に象徴される古いヨーロッパ。

では、「ぼく=酔いどれ船」は自由を捨て、過去の規範に戻るのだろうか。
視点を変えると、「酔いどれ船」は、自由の探求に失敗し、束縛へと回帰する詩なのだろうか。

第22節以降で、その答えが示される。