ボードレール 「旅への誘い」 散文詩 Baudelaire « L’invitation au voyage » en prose 1/2

韻文詩「旅への誘い」を、ボードレールはなぜ散文で書き直したのだろうか?

伝統的な考えでは、詩とは韻文で書くものと決まっていた。
韻を踏み、一行の詩句の音節数詩句の音節数が一定であることが、詩と見做される条件だった。

そして、散文は、詩との関係で言うと、韻文を書く前に構想を書き留めるものくらいに考えられていた。

そうした伝統に対して、ボードレールは、韻文で書かれた詩とほぼ同じ内容を散文にし、その散文を詩として成立せようという大胆なチャレンジに挑んだ。
言い換えると、散文詩というジャンルを新たなジャンルを確立することが目標だといえる。

散文詩「旅への誘い」を通して、散文詩とはどのようなものなのか見ていこう。

第一詩節では、訪れることを夢見る国の紹介がなされる。

Il est un pays superbe, un pays de Cocagne, dit-on, que je rêve de visiter avec une vieille amie. Pays singulier, noyé dans les brumes de notre Nord, et qu’on pourrait appeler l’Orient de l’Occident, la Chine de l’Europe, tant la chaude et capricieuse fantaisie s’y est donné carrière, tant elle l’a patiemment et opiniâtrement illustré de ses savantes et délicates végétations.

素晴らしい国がある。こう言ってよければ、全てが豊かな国。昔からの恋人と訪れることを夢見る国。北方の靄に沈む、独特な国。西欧の東洋、ヨーロッパの中国と呼べるかもしれない。それほど、熱気があり気まぐれな空想が、思う存分活動していた。それほど、空想が、忍耐強く、かつ執拗に、博識で繊細な植物で、その国を彩っていた。

フランス語の散文では、一つの文章の中で同じ単語を何度も使うのは避ける傾向にある。同じ物でも別の単語を使ったり、別の言い回しをする。

ところが、この第一詩節では、国(pays)という単語が、pays superbe, pays de Cocagne, pays singulierと3度反復され、文体的な効果を出している。

その国はまず北にあると言われ、次にヨーロッパの中国だと言われる。
そのことで、夢の国がオランダを思い描いていることが暗示される。19世紀半ば、オランダは、東インド会社を通して、東洋の窓口だった。

また、国が植物で彩られているという記述も、チューリップを始めとする植物の栽培が盛んなオランダを連想させる。

しかし、それと同時に、西洋と東洋という異なるものの共存、あるいは対立するものの一致が、ほのめかされている。
夢の国では、現実の次元では対立する、光と闇、上と下、右と左、プラスとマイナス、陰と陽等々が、溶け合っている。

だからこそ、空想が自由に羽を広げ、そして、様々な植物が夢の国を彩ることになる。

第2詩節

Un vrai pays de Cocagne, où tout est beau, riche, tranquille, honnête ; où le luxe a plaisir à se mirer dans l’ordre ; où la vie est grasse et douce à respirer ; d’où le désordre, la turbulence et l’imprévu sont exclus ; où le bonheur est marié au silence ; où la cuisine elle-même est poétique, grasse et excitante à la fois ; où tout vous ressemble, mon cher ange.

本当の夢の国。全てが美しく、豊かで、静かで、誠実。豪華さが秩序の中に喜んで自分を姿を移し込む。生が豊かで、吸い込むと心地よい。混乱も、騒ぎも、予見できなことも排除されている。幸福が沈黙と一つになっている。食事そのものが詩的であり、たっぷりとし、人を高揚させる。全てがあなたと似ているんだ、我が天使よ。

ボードレールは、ここで、韻文詩のリフレインを散文で表現していることを、あえて明確に示している。

Là, tout n’est qu’ordre et beauté,
Luxe, calme et volupté.

彼方では、全てが整然とし、美しい、
豪華で、静か、そして官能的。

秩序、美、豪華さは単語のレベルで共通する。
韻文詩の静けさ(calme)は散文詩では沈黙(silence)に、官能(volupté)は興奮(excitant)という言葉で表現される。
そして、その国は、愛する女性と似ている。
このようにして、韻文でも、散文でも、ボードレールが感じる美とは何かが、表現されていることがわかる。

その上で、散文では、韻文には出て来ない要素が付け加えられる。
1)生命感
2)幸福感
3)食事

食事が詩的であり、人を高揚させるという表現は、夢の国が詩そのものであり、忘我(extase)へと導いてくれることを、読者に伝えている。

最後にボードレールは、我が天使に向かって、あたな(vous)という代名詞を使っている。それに対して、次の詩節では、君(tu)は知っているかと、より近い関係の相手に使う代名詞を使う。
詩人は、その違いによって、第2詩節までが一般論であり、第3詩節ではより個人的な思いへの踏み込むことを示していると考えることができる。

第2詩節までは詩に関する一般論が語られてきたが、第3詩節になると、愛する人との語らいの中で、今読まれつつある散文が詩であることが示される。

第3詩節

Tu connais cette maladie fiévreuse qui s’empare de nous dans les froides misères, cette nostalgie du pays qu’on ignore, cette angoisse de la curiosité ? Il est une contrée qui te ressemble, où tout est beau, riche, tranquille et honnête, où la fantaisie a bâti et décoré une Chine occidentale, où la vie est douce à respirer, où le bonheur est marié au silence. C’est là qu’il faut aller vivre, c’est là qu’il faut aller mourir !

君は知っているのか? 冷たい惨めさの中で私たちを捉える熱病を、知らない国へのノスタルジーを、苦しいほど知りたいと思う好奇心を。君に似ている地。そこでは、全てが美しく、豊かで、静かで、誠実。空想が作り出し、飾り付けをしたのは、西洋の中国。生は吸い込むと心地よい。幸福が沈黙と一つになっている。そこに行き、生きること、そこに行き、死ぬこと!

夢の国への旅立ちは、ノルタルジーに導かれて向かう、故郷への帰還でもある。しかし、その故郷を知らない。知らないからこそ、ますます惹かれる。旅立ちへの思いはますます強くなる。

ボードレールは、最初この詩節で、ゲーテの『ウイルヘルム・マイスター』から取られた「ミニョンの唄」を下敷きにし、「もしぼくが君のミニョンだったとしたら」と書いていた。
「ミニョンの唄」は、「君知るや、レモンの花咲くあの国を」で始まり、ドイツに連れ去られた少女が、故郷のイタリアを思う、痛切なノスタルジーを歌っている。
その感情は、シューベルトが作曲した「ミニョンの唄」からも、はっきりと感じ取ることができる。

理想の美へ向かう気持ちを「熱病」「ノルタルジー」「苦しいほどの気持ち(angoise)」と定義した後、目的地である理想の国が描写される。

その際、これまで使われた表現がそのまま使われ、この散文が自らを詩であると宣言している。
それは、どういうことか?

散文と韻文の違いを考えてみよう。

韻文は、言葉の意味を伝える目的と同じ比重で、言葉そのものへの注意を引く。意味内容と同時に、言葉の表現そのものに注意を向け、そこに価値を置く。

散文では、多くの場合、考え、感情、情報を相手に伝えることが目的とされる。従って、意味さえ伝われば、表現そのものに注意が向かなくても問題はない。
表現は透明で、スムーズに意味が伝わる方が好ましいとさえいえる。
そして、意味が伝われば、同じことを言う必要はない。同じことの反復は冗語と呼ばれ、好ましいことではない。

こうした散文の性格を前提にして、ボードレールは、散文でポエジーを生み出すために、あえて同じ言葉や表現を積み重ねる。

「全てが美しく」以下の文は、前にすでに書かれたことの反復であり、まったく同じ表現を使ったり、少し変更を加えヴァリエーションを生みだしている。

さらに、生きる(vivre)、死ぬ(vivre)は、韻文詩「旅への誘い」の第一詩節を参照している。

D’aller là-bas vivre ensemble !
  Aimer à loisir,
  Aimer et mourir
Au pays qui te ressemble !

彼方に行き、一緒に暮らすんだ!
  おもいきり愛し、
  愛し、そして死ぬ、
君に似たあの国で!

反復を知ることで、意味と同時に、言葉の表現そのものに焦点が当たっていることがわかってくる。
そのことによって、意味を伝えるための道具以上の価値を持つ散文が存在しうることが示されることになる。
ボードレールの目的は、散文が詩として成立する可能性を追求することだった。

続く二つの詩節では、「生きる・死ぬ」という動作をさらに展開する。

第4・5詩節

 Oui, c’est là qu’il faut aller respirer, rêver et allonger les heures par l’infini des sensations. Un musicien a écrit l’Invitation à la valse ; quel est celui qui composera l’Invitation au voyage, qu’on puisse offrir à la femme aimée, à la sœur d’élection ?
 Oui, c’est dans cette atmosphère qu’il ferait bon vivre, — là-bas, où les heures plus lentes contiennent plus de pensées, où les horloges sonnent le bonheur avec une plus profonde et plus significative solennité.

 そう、あそこに行き、息をし、夢を見、感覚を無限に広げて時間を延ばさないといけない。ある音楽家は「ワルツへの誘い」を書いたことがあった。としたら、どんな人が、「旅への誘い」を作曲するのだろう。愛する女性に、選び抜かれた妹に、捧げることができるような誘いを。
  そう、できることなら、この雰囲気の中で生きるのがいい。彼方では、時間がここよりもゆっくりと流れ、ここよりも多くの思考を含んでいる。そこでは、時計が幸福の鐘を鳴らす、ここよりも奥深く、意味深い厳粛さとともに。

この二つの詩節で中心的な話題になるのは、時間。
時計で計られる時間は、誰にとっても同じ早さで過ぎ去り、人間とは無関係に存在する。
それに対して、一人の人間が心の中で感じる内的な時間は、楽しいときにはゆっくりと流れ、ある時にはその存在を感じないこともある。また別の時には、一分が永遠に続くと思われるほど長く感じられることもある。

ボードレールが求めるのは、忘我の時間。
とすれば、時間が消え去ることが理想。しかしここでは、時計の時間との関係で、スピードを遅くし、瞬間を無限に近づけることで、彼が望む時間を表現する。
その時には無限に様々な感覚を体験し、時間が止まっていると感じられるだろう。だからこそ、時間の中に多くの思考が含まれる。
また、時計が時を知らせるとしたら、それは幸福を告げる音になる。

こうした時に人を導いてくれるものとして、ウェーバー(Carl Maria von Weber)の「ワルツへの誘い(Aufforderung zum Tanz)」の名前が挙げられる。
つまり、音楽が忘我の世界への導き手になる。

その後すぐに、「旅への誘い」へ作曲家を誘うような詩句を続け、散文「旅への誘い」も、韻文詩に劣らず音楽に相応しいことが暗示される。

詩にとって音楽が重要な役割を果たすとしたら、音楽への誘いとなる散文「旅への誘い」もポエジーの世界へと人を誘うことになる。

韻文詩「旅への誘い」に付けられた曲は、散文詩にも相応しいことになる。

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