
第6詩節では、室内の様子が絵画的に描きだされる。
ワルツへの招待に倣って言えば、絵画への招待。
Sur des panneaux luisants, ou sur des cuirs dorés et d’une richesse sombre, vivent discrètement des peintures béates, calmes et profondes, comme les âmes des artistes qui les créèrent. (以下録音の続き)Les soleils couchants, qui colorent si richement la salle à manger ou le salon, sont tamisés par de belles étoffes ou par ces hautes fenêtres ouvragées que le plomb divise en nombreux compartiments. Les meubles sont vastes, curieux, bizarres, armés de serrures et de secrets comme des âmes raffinées. Les miroirs, les métaux, les étoffes, l’orfèvrerie et la faïence y jouent pour les yeux une symphonie muette et mystérieuse ; et de toutes choses, de tous les coins, des fissures des tiroirs et des plis des étoffes s’échappe un parfum singulier, un revenez-y de Sumatra, qui est comme l’âme de l’appartement.
輝く壁の板や、黄金色と豊かな闇の入り交じった皮の上では、静かで深みがある至福の絵画が、ひっそりと息づいている。食堂やサロンを豊かに染め上げる夕日は、美しいカーテンや細工を施された高窓を通って、柔らかな光を投げかけている。その高窓は、鉛の枠で数多くの部分に分割されている。家具は巨大で、奇妙で、興味を惹かれるもの。鍵穴と隠し戸棚が備えられている。ちょうど洗練された魂のように。鏡、金属が、布地が、金銀細工が、陶磁器が、目に対して、無音の不思議なシンフォニーを奏でている。全ての物、全ての角、引き出しの隙間、布の折れ目から、独特の香りが漏れ出す。その「スマトラから戻っておいで」の香りは、この部屋の魂のよう。
韻文詩「旅への誘い」でも、旅先の部屋には輝く家具があり、花と琥珀の香りに満たされ、天井も鏡も含め、全てが魂に故郷の言葉を語りかけていた。
その部屋は、視覚と臭覚と聴覚が豊かに響き合う共感覚の時空間であり、魂の故郷だった。
散文詩では、記述がより具体的になり、修辞学の用語で言えば Hypotypose(イポティポーズ)、つまり、「現実の場面を甦らせるような生き生きとした描写」になっている。
ボードレールの年代のフランスでは、オランダ絵画への興味が強まった時期があった。ボードレールもそうした流行に無関心ではなかっただろう。
描写の中であえて「絵画」という言葉を使っているところから見ると、もしかすると第6詩節の詩句は、実際の絵画を記述するEkphrasis(エクフラシス)、つまり「絵画作品の描写」なのかもしれない。
ボードレールは美術批評家でもあり、彼の美術評論の中で、実際に絵画の描写を数多くおこなっている。



絵画を描き出し、視覚に訴えかけた上で、ボードレールは共感覚の時空間を生み出すために、音楽と香りを共存させる。
視覚的に配置された部屋の全てが、オーケストラの楽器のようにシンフォニーを奏でる。
そして、全ての隙間や折り目から香りで流れ出、臭覚を刺激する。
詩人はここであえて、「スマトラから戻っておいで」という名前の香水の名前を挙げている。
本当にそんな名前の香水があったのかどうか、わからない。しかし、「戻る」という動詞の入ったこの名前は、詩の最後を予告する暗示になっている。
ちなみに、芥川龍之介はこの名称を「スマトラの忘れな草」としている。その方が訳としては美しい。
が、ボードレールは「私を忘れないで」ではなく、「無限から戻る」ことを詩のテーマにしている。
戻ることの重要性は、その香水が、「部屋の魂のよう(comme l’âme de l’appartement)」と言われることからも、推測することができる。
共感覚の時空間は、魂なのだ。
魂が洗練されていれば、美しく細工の施された表現の奥に、人の目から遠ざけられている秘密の隠し戸棚がある。
家具と香水に「魂」という比喩が使われるのは、どうしてだろう。
オランダ絵画のように描き出された空間が、単に北の国の市民生活の再現というだけではない。
それが魂の姿だということは、そこが共感覚の世界であることを打ち明けているということである。
実は、ここに描かれた絵画は、それらを描いた画家たちの魂(les âmes des artistes)の表現であることが、最初から明記されていた。
このように、魂のよう(comme)という直喩によって、絵画も、家具も、香水も、共感覚を展開する魂の表現であることが示されている。
第7詩節は、再び「本当の夢の国(Un vrai pays de Cocagne)」という表現が使われる。
同じ言葉や表現が詩句の最初に使われるのは、アナフォール(Anaphore)と呼ばれる詩の手法である。
Un vrai pays de Cocagne, te dis-je, où tout est riche, propre et luisant, comme une belle conscience, comme une magnifique batterie de cuisine, comme une splendide orfèvrerie, comme une bijouterie bariolée ! Les trésors du monde y affluent, comme dans la maison d’un homme laborieux et qui a bien mérité du monde entier. Pays singulier, supérieur aux autres, comme l’Art l’est à la Nature, où celle-ci est réformée par le rêve, où elle est corrigée, embellie, refondue.

本当の夢の国、とはすでに言ったこと。そこでは、全てが豊かで、清潔で、輝いている。美しい心のように、素晴らしい料理道具一式のように、輝かしい金銀細工のように、いろいろな色の宝石のように! そこには世界中の宝物が溢れている。働きもので、世界中の賞賛に値する男の家の中のように。独特な国で、他の国より優れている。「芸術」が「自然」よりも優れているように。そこで、自然は、夢によって形を変えられ、矯正され、美化され、再び鋳造し直されている。
「本当の夢の国」の美を伝えるためにボードレールは形容詞を列挙するが、その際、すでに出てきた表現を単に反復するだけではなく、変化が加えられる。
1)tout est beau, riche, tranquille, honnête
2)tout est riche, propre et luisant
このように、豊かという形容詞以外は、別の形容詞に置き換えられている。
しかし、それ以上に大きな変化が、続く直喩の表現によってもたらされる。
「のような(comme)」という表現を介して、具体的なイメージが示されるのである。
美しい心(belle conscience)
料理道具一式(batterie de cuisine)
金銀細工(orfèvrerie)
宝石(bijouterie)
こうして、裕福なブルジョワの家庭生活の一場面を連想させる記述が行われる。
直喩を導く「のような」という表現は、現実的な場面を描き出すHypotypose(生き生きとした描写)の役割を果たしていると考えてもいいだろう。
しかし、それは現実を再現するためではない。
散文で綴られた詩句は、現実ではなく、絵画を描き出してる。
「芸術は自然より優れている」のだ。
なぜなら、絵画は現実を夢が再創造したものであり、そこにこそ共感覚の時空間があるからだ。
現実世界では独立しているそれぞれの感覚が、お互いに対応し合う世界。
だからこそ、芸術は自然よりも優れている。
その原理の根本にあるのは、想像力の働き。
想像力が、現実を共感覚の世界に変形する。
https://bohemegalante.com/2019/11/02/esthetique-baudelaire-imagination-presence/
散文詩「旅への誘い」では、夢が想像力の働きをすると考えてもいいだろう。
第8詩節では、園芸の錬金術師に対する呼びかけが行われる。
Qu’ils cherchent, qu’ils cherchent encore, qu’ils reculent sans cesse les limites de leur bonheur, ces alchimistes de l’horticulture ! Qu’ils proposent des prix de soixante et de cent mille florins pour qui résoudra leurs ambitieux problèmes ! Moi, j’ai trouvé ma tulipe noire et mon dahlia bleu !
探せ、探し続けろ、幸福の限界を絶え間なく向こうに押しやるのだ 、園芸の錬金術師たちよ!60フロリンでも、10万フロリンでも、対価を提示しろ、これらの野心的な問題を解決することになる人間に向かって。私はといえば、私は見つけたのだ、私の黒いチューリップを、私の青いダリアを。

フロリンはオランダの通貨。その貨幣単位によって、オランダとその国の園芸栽培を思わせることになる。
その連想は、園芸の錬金術師から、チューリップやダリアへと繋がる。
黒いチューリップはアレクサンドル・デュマの小説を、青いダリアはピエール・デュポンの歌のリフレインから来ているという指摘もある。そうした同時代の知識なしでも、そうした花が錬金術によって作り出された奇跡の花として言及され、それらが幸福の鍵であることは、詩句から自然に理解できる。
Fleur incomparable, tulipe retrouvée, allégorique dahlia, c’est là, n’est-ce pas, dans ce beau pays si calme et si rêveur, qu’il faudrait aller vivre et fleurir ? Ne serais-tu pas encadrée dans ton analogie, et ne pourrais-tu pas te mirer, pour parler comme les mystiques, dans ta propre correspondance ?
何にも比べられない花よ、再発見されたチューリップよ、寓意的なダリアよ、あそこ、あの美しく、静かで、夢見がちな国に行き、そこでこそ生き、花開かなければならないのではないか? お前は、お前のアナロジーの中に閉じ込められていないだろうか? お前は、神秘主義者のように言うとすれば、お前自身の「コレスポンダンス」の中に、自分の姿を映していないだろうか?
この第9詩節では、再び、「そこにこそ行かなければならない(c’est là qu’il faut aller…)」という表現が姿を現し、この散文が情報伝達を目的にするのではなく、言葉そのものへの注意を促す、つまり詩的言語であることを主張する。
その際、単に反復するのではなく、先には直接法現在形であったil fautが、ここでは条件法現在il faudraitとなり、意味の上でも、形態の上でも、変形を加えられている。
第8詩節で、私は見つけた(j’ai trouvé)と複合過去で語られたチューリップやダリアに向かい、ここでは条件法で問いかけることで、それが現実ではなく、頭の中で考えた、ある意味では夢の出来事として提示される。
では、描き出された絵画の中で、夢の花が閉じ込められるアナロジー、自分の姿を映すコレスポンダンスとは何だろう。

第6節から、詩人は「のように(comme)」という印を付けて、数多くの直喩を使ってきた。直喩とは、AがBのようだということで、AとBという二つの項目が文の中で明示される比喩である。
それに対して、寓意(アレゴリー)や隠喩(メタフォール)の場合には、Bと言われるだけで、Aは明示されない。読者はBから出発して、Aを発見することが求められる。
アナロジーは心の中で二つの項目を結びつける働きをする類似であり、メタフォールの基礎になる。
そして、コレスポンダンスは、目に見える地上の世界と、目に見えない天井の世界の対応であり、宗教的なメタフォールであると言ってもいいだろう。
いずれにしても、一つの項目が、提示されていないもう一つの項目を暗示する(suggérer)という構図に基づいている。
(ボードレールにおけるコレスポンダンスの重要性は、彼自身の詩「コレスポンダンス」によって見事に描き出されている。)
https://bohemegalante.com/2019/02/25/baudelaire-correspondances/
この詩節の最初、三つの花を列挙しながら、ボードレールは最後に「寓意的ダリア(allégorique dahlia)」と書く。
では、そのダリアは、何の寓意だろうか?
答えは、愛する女性。
一緒に旅に出ようと誘いかける、その対象の女性に他ならない。
そして、その女性が、コレスポンダンスの中に自分の姿を映す(se mirer)としたら、彼女の姿は共感覚の部屋にあり、彼女自身が共感覚の時空間に他ならない。
その確認は、最後の第11詩節でなされることになる。

第10詩節では、旅で訪れる国が人工楽園であると、密かに告げられる。
Des rêves ! toujours des rêves ! et plus l’âme est ambitieuse et délicate, plus les rêves l’éloignent du possible. Chaque homme porte en lui sa dose d’opium naturel, incessamment sécrétée et renouvelée, et, de la naissance à la mort, combien comptons-nous d’heures remplies par la jouissance positive, par l’action réussie et décidée ? Vivrons-nous jamais, passerons-nous jamais dans ce tableau qu’a peint mon esprit, ce tableau qui te ressemble ?
夢を見ること!常に夢を見ること! 魂の望みが大きく繊細であれば、それだけ夢は魂を可能世界から遠ざける。人はみな自分の中に天然の阿片を持っている。阿片は絶えず滲み出し、新しくなる。誕生から死の時まで、私たちはどれだけ、実際の喜び、はっきりと成功した行為によって満たされた時間を持っているだろう? 私たちはいつか生きることができるだろうか、いつか過ごすことができるだろうか、この絵画の中で? 私の心が描き出した絵画、あなたに似たこの絵の中で?
阿片(opium)という薬物を使い、幻覚を生みだし、その中に生きる。その幻視世界をボードレールは人工楽園(Les Paradis artificiels)と名付けた。
そこで重要なことは、この楽園はあくまでも人工的なものであり、詩人がそれを描くのは、楽園とはどのようなものか示すためにすぎない、ということである。
詩人が目指すのは、人工ではない、共感覚の楽園。
そこへの入り口は、薬物ではなく、絵画であり、詩である。

現実生活の中でも、私たちはある成功を収め、喜びを感じるかもしれない。「実際の喜び(la jouissance positive)」、「はっきりと成功した行為(l’action réussie et décidée)」とはそうした現実次元の出来事を指す。この詩節の最初で言及される「可能世界(le possible)」も同様に考えることができる。
夢は、そうした現実から楽園を遠ざける。
現実の全てが時間の中で失われていくのに対して、夢の時間は時計の時間には従わない。夢の中では、人間の内的な感覚と対応する生きた時間が流れる。
旅で向かう絵画も、生に息づく世界である。
最終の第11詩節では、描き出された絵画が、愛する女性その人の肖像画であると明かされる。そして、最後に、旅から戻る。
Ces trésors, ces meubles, ce luxe, cet ordre, ces parfums, ces fleurs miraculeuses, c’est toi. C’est encore toi, ces grands fleuves et ces canaux tranquilles. Ces énormes navires qu’ils charrient, tout chargés de richesses, et d’où montent les chants monotones de la manœuvre, ce sont mes pensées qui dorment ou qui roulent sur ton sein. Tu les conduis doucement vers la mer qui est l’Infini, tout en réfléchissant les profondeurs du ciel dans la limpidité de ta belle âme ; — et quand, fatigués par la houle et gorgés des produits de l’Orient, ils rentrent au port natal, ce sont encore mes pensées enrichies qui reviennent de l’infini vers toi.
これらの宝、家具、贅沢、秩序、香水、奇跡の花、それはあなた。あたなは、これらの大きな河、静かな運河。その流れに運ばれるこれらの巨大な船。豪華な品々を載せた船からは、船乗りたちの単調な歌が立ち上る。それは、私の思考。あなたの胸の上で眠り、そこを流れる。あなたは私の思考をゆっくりと海へと運ぶ。海は無限、空の深みをあなたの美しい魂の透明さの中に映し込む。ーー波のうねりに疲れ、東方の品々を満載して、船が故郷の港に戻る時、再び、豊かになった私の思考が、無限から戻ってくる、あなたに向かって。

運河に浮かぶ船。そこに積み込まれた豪華な品々。船乗りの歌。それは、これまで描き出されてきた絵画を、もう一度描き直したものだといえる。
その上で、描き出された全ては愛する人そのものであり、その風景への旅立ちは、あなたという美への旅であったことが、贅沢(luxe)と秩序(ordre)という言葉によって暗示(suggérer)される。
それは、韻文詩「旅への誘い」のリフレインを参照している。
Là, tout n’est qu’ordre et beauté / Luxe, calme et volupté
その美は、「あなたの美しい魂(ta belle âme)」という表現によって、再度確認される。

そして、旅への誘いの主体は「私」ではなく、愛の対象である女性であることが明かされる。彼女が私の思考を彼女への旅へと導くのだ。
その旅は無限への旅。その無限は海によって表され、女性の魂の中でどこまでも伸びていく。
その旅を描いた海洋画は、共感覚の時空間を描き出し、全てがコレスポンダンスする、無限の世界を表現する。
それこそがボードレール的な美の世界であり、その絵画を「あなた(toi)」だと言うことは、あなたは美そのものだというに等しい。
散文詩「旅への誘い」は、従って、愛する女性の美しさを褒め称える恋愛詩なのだ。
そして、最後、あなたに向かって戻ってくる。
そのようにして、あなたという無限の国を旅する夢想を終え、再び現実のあなたを見つめるのである。

「旅への誘い」は、恋人のマリー・ドブランを頭に置いて書かれたと言われている。
とすれば、ボードレールは彼女の美に刺激されて、官能的な喜び(volupté)に導かれ、詩句を書き連ねたのかもしれない。
もしそうだとしても、書き上げられた言葉は、時と共に消え去る愛をはるかに超え、無限への旅へと読者を誘う、普遍的な夢想へと昇華されている。
韻文詩では、その夢想が伝統的な詩の形式で表現され、音楽性が際立っている。
散文詩では、より絵画的な側面が強く押し出されると同時に、情報を伝える散文の特質が活かされ、コレスポンダンスや無限について暗示的ではあるが韻文では難しい説明が加えられている。
韻文詩と散文詩の優劣を比較する意味はなく、一つの詩の二つの側面と考えることが、詩の楽しみを広げることにつながる。
そして、ボードレールが散文詩を詩のジャンルとして成立させるチャレンジをしたことの意義を理解することにもつながるだろう。
「ボードレール 「旅への誘い」 散文詩 Baudelaire « L’invitation au voyage » en prose 2/2」への1件のフィードバック