
最初に見るフランス映画として、「最強のふたり」は最適な作品だろう。
主人公の二人、車いすに乗ったフィリップと、彼の世話をする黒人のドリスの間に出来上がっていく心の絆は、他の人間からは触れられない、貴重なもの。
フランス語の題名Untouchable(触れてはならないもの)は、その二人の関係を示している。
この映画を気難しく見てしまうと、社会階層が違う二人が触れ合うという偽善的な内容と受け取られ、安易な感動を誘う映画と思われてしまうかもしれない。
しかし、そうした見方では、映画の一面しか見ていないことになる。
「最強のふたり」の素晴らしさは、まず第一に、二人の俳優の演技にある。
車いすに座っただけのフィリップを演じる、フランソワ・クリュゼ。
陽気だけれど影もあり、人種や社会階層、身体の障害等、違いが差別を生む問題を何気なく乗り越えるドリスを演じる、オマール・シー。
二人の俳優はフィリップとドリスになりきっていて、観客を完全に二人の世界に引き込んでしまう。
映画は、確かに、二つの社会階層の対立が図式的に用いられている。
社会階層(貧富の差)と人種問題(白人、黒人)は、フィリップの豪華なアパルトマンとドリスの母の貧しいアパート、クラシック音楽や絵画とポップ・ミュージック等の対比によって表現される。
しかし、音楽の対比は、社会階層の表現として以上に、映画に独特のリズム感を生み出す。
冒頭、車がパリの街を疾走し、観客を一気に映画の世界に引き込む。そして、Earth, Wind and Fireの’September’。
クラシック音楽の使い方もよく考えられている。
そして、ラスト・シーンで流れるLudovico Einaudiのピアノ曲。
音楽は社会階層を象徴しているだけではなく、映画表現の一部であることがわかる。
映画を構成するもう一つ重要な要素はセリフ。
とりわけ、フランス映画では、洗練されたセリフが、巧みにメッセージを伝えることが多い。
友人が、フィリップを公園のカフェに呼び出し、忠告をする場面。友人は、社会一般の価値観に従い、家の中に黒人(ドリス)を入れることを心配する。
みんなが心配している。家の中にああいう人間を入れない方がいい、とりわけ君みたいな状態では。
この時、友人は、フィリップの心配をしているようでいながら、「とりわけ君みたいな状態では」という言葉で、身体に障害のある人間に対する偏見をあからさまにしていることを意識していない。
それに対して、フィリップは、「私の状態では」と友人の表現を逆手に取り、彼の本心を告げる。
ドリスは自分に対して「哀れみの気持ち」(pitié)を持たない。そこがいい。
私の状態では、ドリスの出身とか、過去に何をしたかなんてどうでもいい。
こうした会話を通して、映画のメッセージが観客に伝えられる。違いに対して哀れみを持たないことは、優越感を持たないことでもある。
大切なことは、目の前にいるその人をその人として見ることなのだ。
「最強のふたり」では、映像表現も考えられている。
冒頭、夜のパリを車が疾走する場面は、スリルがあるだけではなく、街並みの美しさも観客の目にすぐに飛び込んでくる。
また、深夜、車椅子のフィプップとドリスがセーヌ河の湖畔を歩き回る場面も美しい。
さらに、ラストシーンの前、パリから海辺に向かう車を映し出す際、空からの遠景で、フランスの田舎の自然が美しく描き出される。
この映像は、物語の必然性からではなく、映像美だけのためにある、映画的シーンだといえる。

「最強のふたり」は、フランス歴代観客動員数3位であり、フランス映画のみでは第2位という人気作品。
そのことは、誰もが楽しめる映画であることを示している。
それと同時に、映像、音楽、セリフ、俳優の演技、どれをとっても素晴らしく、映画としての質も一流だといえる。
その意味でも、フランス映画入門として最良の作品の一つとして推薦できる映画だといえる。