名詞の単数と複数

夏目漱石『草枕』の訳者と話をしている時、彼女が面白いことを言っていた。
これまでの仏訳では、Oreiller d’herbesと、草を意味するherbeは複数形だった。でも、herbeは単数形でないとおかしい。
実際、出版された彼女の訳では、herbeは単数形になっている。

普通に考えると、名詞の単数と複数はとても単純で、一つなら単数、それ以外は複数。それで何の疑問もないと思い込んでいる。
しかし、英語やフランス語の文を書く時に、単数にするのか複数にするのか迷うことがある。
そこに冠詞の問題がからみ、正解がわからないことが多くある。
名詞の数は、本当に数だけの問題なのだろうか?

結論から書いてしまうと、名詞の数は、現実に存在する物の数だけで決まる訳ではない。
池上嘉彦は次のように記している。

〈単数〉ー〈複数〉いずれの形として言語化するかは、表現の対象となるものの数が客観的にいくつかということで決まるのではなくて、話し手が対象を〈個体〉性のあるものとして捉えるか、捉えないかーーつまり、話し手の主体的な判断によって決まる。(『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫)

要するに、物が一つだから単数、いくつかあるから複数という客観的な事実で単数・複数が決まるわけではなく、話し手がどのように捉えるかで、名詞の扱いが違う、ということである。

その点を一番感じるのは、フランス語の部分冠詞を勉強する時かもしれない。

部分冠詞は物質名詞、抽象名詞に付き、それらは不可算名詞なので複数形はない。
初級文法では、飲むや食べるといった行為の対象となる物に付くと説明され、次のような例文がしばしば用いられる。
Je mange du poisson.

でも、と私たちは思う。魚は絶対に数えられる。それなのに、食べる時になると不可算名詞とされ、数えられない名詞として扱われる。
教師に説明を求めると、食べるときは切り身だったりして、一匹のままではないから、等と言われることもある。
そして、結局は、食べる時はdu poissonと部分冠詞を使うと覚えるしかないということになる。

しかし、食物としての魚だとしても、肉よりも魚が好きという場合には、定冠詞を使う。
Je préfère le poisson à la viande.
この場合には、種類とか概念を指していると説明される。

もちろん、魚を釣る時には、一匹、二匹と数えるのだから、数えられる名詞として扱われる。
Je n’ai péché qu’un poisson ce matin. Hier matin, c’étaient 10 poissons.

こうした例を見ると、池上嘉彦の言うことがよく理解できる。
つまり、魚が何匹かで単数と複数が決まることもあるが、しかし部分冠詞を使う場合のように、魚をどのような視点から捉えるのかは、話者の主体的な判断によって決まる。

では、どのような判断の働きで、単数・複数が決まるのだろうか。
それを知るためには、名詞そのものの本質を理解するところから始めないといけない。

無印の名詞

無印というのは、名詞の最後に複数を示すs/xを付けないだけではなく、名詞の前に冠詞等の限定詞(le, un, mon, ce, etc.)を付けない、という意味。

英語であれば、例えば、go to schoolのように、冠詞を付けずに使うschool.
学校は実際に存在しているのだから、my schoolとか、the schoolと言いそうなのだけれど、「学校に行く」という時には、無印で使う。

フランスであれば、sortir de prisonのprison等。
どの監獄に入っているのかわかっていれば、la prisonと言いそうだし、分かっていなければ、une prisonと言いそうだけれど、「監獄から出る」という表現でや、無印で使う。

その理由は、go to schoolやsortir de prisonと言う時、schoolやprisonが具体的で個別の建物を指しているのではなく、学校や監獄という概念を意味しているからである。
別の言い方をすると、無印の名詞は、一般的で抽象的な概念、あるカテゴリーのプロトタイプを意味している、ということになる。

英語で、on foot(歩いて)、by train(電車で)等と言う時にも、無印で名詞を使用する。この時、具体的な足や電車を思い描いていないことは明かである。

フランス語でも、avec plaisir(喜んで)等の表現では、無印の名詞を使用する。

ところで、英語とフランス語を比較すると、面白いことがわかる。
フランス語で「学校に行く」と言う時には、aller à l’écoleと、écoleに定冠詞を付けるのが普通である。
つまり、それぞれの言語で、名詞を無印で使うか、冠詞等の印を付けるかは、異なっている。そのことから、概念を具体化する仕方は論理的な理由があるのではなく、一つ一つの言語によって習慣的に決まっていることがわかる。

名詞に印を付ける

無印の名詞が概念を示しているとすると、名詞に印を付けることは、その概念を具体化することにつながる。
sや冠詞を付けることで、名詞は具体化され、多くの場合、現実に存在するものを指し示す役割を果たす。つまり、具体的な場面で、特定の個体あるいは不特定多数のものを指示するようになる。

1)名詞の後ろのs/x 

複数形のs/xは、確かに複数の存在を示すが、その前に、無印の名詞を具体化する役割がある。
そのことを知ると、最初に話題にした漱石の小説の題名『草枕』のフランス語訳の違いが理解できる。

Oreiller d’herbes / Oreiller d’herbe

herbeにsを付けると、草のイメージが具体化され、本当に草でできた枕を思い浮かべることになる。
それに対して、herbeと無印のままであれば、草という抽象的な概念を示している。
『草枕』から漱石が考えたのは、決して具体的な草の枕ではない。としたら、フランス語の題名としては、Oreiller d’herbeとherbeを無印のままにしておいた方が相応しい。

このように考えると、名詞の後ろに付けるsは単に複数形の印というだけではなく、名詞を具体化する一つの印だということがわかってくる。

2)加算名詞・不可算名詞と部分冠詞

英語では、可算名詞と不可算名詞という言葉がよく使われ、可算名詞つまり数えられる名詞には単数形と複数形があるとされる。そのために、私たちは、名詞には数えられる名詞と数えられない名詞があると思い込んでしまう。

しかし、名詞に可算/不可算の区別があるわけではない。最初に引用した池上嘉彦の主張からもわかるように、加算/不可算を決めるのは、言葉を使う主体なのだ。話し手が、名詞の指す概念を具体化するときに、明確な輪郭を持つ〈個体〉として取られるかどうかが問題となる。

英語の例で示してみよう。
News is necessary to live.(ニュースというものは、生活のために必要。)
I have a good news for you.(君にいいニュースが一つある。)
同じnewsという単語でも、最初は不可算として、次は加算として扱われている。
最初の例では、話し手がnewsという単語を、ニュースというもの(一般的で抽象的なもの)と捉えているために不可算名詞扱いになり、動詞は単数のisが使われる。

ただし、日本語を母語としている人間には、加算/不可算の区別がわかりにくい。日本語では、その区別が言語的に明示されず、コンテクストに依存しているという理由による。(この記事の最後に記す。)

数えられる/数えられないの区別を、次の例で考えてみよう。

これをコーヒーカップとみれば、はっきりとした輪郭を持った個体であり、一つ二つと数えることができる。その場合、これを指す名詞cup / tasseは加算名詞と見なされる。
two coffee cups / deux tasses de café

その一方で、別の見方をすることもできる。
これは陶磁器であり、素材として捉えるとセラミック(ceramic / porcelaine)。そのように見る場合には、個体性が失われ、数えられないものとして捉えられる。

この捉え方の違いがわかると、フランス語を学習するときの難所の一つである部分冠詞の使い方が理解できるようになる。

魚の例をとれば、釣り上げる時には、それぞれの魚が個体として捕らえられる。その際には当然、un poisson, deux poissonsと数えることができる。

ところが、その魚が食卓のお皿の上にある時、切り身であろうと、2匹が並んでいようと、食べるという視点に立ち、〈魚肉〉として捉えることになる。
その際、カップのセラミックと同じように、個体ではなく、素材(ここでは魚肉)が問題となる。
その場合には、数えることができないもの(不可算)として捉えられる。
フランス語ではそうした物質を指す名詞に部分冠詞を付ける。
Je mange du poisson.

従って、poissonという名詞自体が加算名詞/不可算名詞という区別を持つのではなく、話者が魚をどのように捉えるかで、名詞への印付けが決まるということになる。
個体として捉えれば、un poissonとかdeux poissonsと可算名詞として扱う。
食材として捉えれば、部分冠詞という印を付けて、du poissonとする。

ただし、魚を10匹出され、それら10匹全部を食べたという風に、個体として捉えるのであれば、j’ai mangé les dix poissonsと可算名詞扱いにすることも可能だろう。

面白いことに、英語では、fishは無冠詞で、印を付けない。
I eat fish.
こうしたところにも、それぞれの言語による違いが見られる。
また、英語でも、生の魚を一匹食べると言う場合のように、個体性が意識されると、可算名詞扱いされることもある。
Il eat a raw fish. (生の魚を一匹食べる)

以上をまとめると、次の様に考えることができる。
1)名詞の扱いは、話し手が名詞の指す概念をどのように捉えるのかによる。
2)名詞それ自体は、物の概念を表示するだけ。
3)名詞を具体化して、指示機能を持たせるためには、印を付ける。
語尾のs/zのは、複数の印であると同時に、概念を具体化する印。
部分冠詞は、不可算名詞であることの印。


日本語の文脈依存性と読者の役割

日本語には単数と複数の区別がないと言われる。
例えば、「古池や 蛙飛び込む 水の音」
カエルが何匹なのかわからない。

他方、英語やフランス語では、単数と複数は必ず区別される。
芭蕉の句を英語やフランス語に翻訳する場合も、蛙の数を指定することは避けられない。

Old pond / frogs jumped in / sound of water.
(小泉八雲=ラフカディオ・ハーン訳 )

The ancient pond / A frog leaps in / The sound of the water.
(ドナルド・キーン訳)

ラフカディオ・ハーンはfrogsと複数にし、ドナルド・キーンはa frogと単数にしている。

フランス語でも、複数と単数の例がある。

Vénérable étang ! / Les rainettes plongent, / Ô le bruit de l’eau… 
(Christian Faure訳)

Dans le vieil étang / Une grenouille saute / Un ploc dans l’eau !  
(G. Renondeau訳)

以上の例が示しているように、日本語では、単数と複数を明示しない傾向にあり、その区別は文脈に依存している。
そして、文脈を読み取り、単数か複数かを判断するのは、読者の役割。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」
この句の蛙を単数と見なすか、複数と見なすか。
その判断は読者に委ねられ、読者は芭蕉に試されているとも言える。

名詞の単数と複数」への1件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中