ジェラール・ド・ネルヴァル 「10月の夜」ユーモアと皮肉 Gérard de Nerval « Les Nuits d’Octobre » humour et ironie 2/5

1852年10月23日に『イリュストラシオン誌』に掲載された、「10月の夜」の第2回。

当時場末だったモンマルトルから、さらにディープな場末であるパンタンへと二人は向かう。
そこにある酒場では、秘密結社の集会が行われていて、ネルヴァルはその様子を細かく語っていく。

21世紀の読者にとっては、知らないことばかりで、わからない!と思うこともたくさんあるだろう。
しかし、19世紀半ばの読者でも、モンマルトルやパンタンは普通では足を踏み入れない地区であり、へえーと思うことがたくさんあったに違いない。
私たちも、知らないことは知らないこととして、ネルヴァルの後について、怪しげな夜の町に忍び込んでみよう。

6.二人の賢者

  ぼくたちはとても気が合う。だから、舌を動かすためとか、気持ちを少し高めるためでなければ、ちょっとした会話もする必要がない。ぼくたちに似ているとしたら、マルセイユの二人組の哲学者たち。彼等はあまりにも長い間「‘たぶん’という大きな問題」を議論して、身体を痛めてしまった。で、ずっと論争を重ねた後、同じ意見だと気づいた。―― 二人の考えは‘妥当’であり、一方の推論の凸の角が他方の推論の凹んだ角と正確に一致している、とわかったんだ。
  そんなわけで、肺の節約をするために、二人は、哲学にしろーー 政治にしろーー 宗教にしろ、あらゆる問題に関して、「‘あー’、あるいは、‘うー’」と言うだけ。―― 様々な抑揚をつけると、それだけで問題の解決を導き出すことができた。
  一人がもう一人に差し出したのは、―― 一緒にコーヒーを飲んでいる時だったーー 「王党派とオルレアン派の統一」 に関する新聞記事。
  ――「‘あー’!」と一方が言うと、「‘うー’!」と他方が言った。
  古典派哲学とスコラ哲学の問題が、よく知られている新聞で取り上げられていた。二人にとって、アベラールの時代のレアリスト(実念論者)とノミナリスト(唯名論者)の問題と同じだ。「‘あー’!」と一方が言った。――「‘うー’!」と他方が言った。
  女性と男性、猫と犬に関しても同じ。自然と自然から遠ざかるものに関してもそう。何一つ二人を特別驚かせるものはなかった。
  そして、いつもドミノで終わった。―― 特別に静かで、瞑想的なゲームだ。
  ―― 「でも、どうして、」とぼくは友だちに言う。「ここはロンドンみたいじゃないんだろう? 大都会は絶対眠らないはずなのに。」
  ――「だって、ここ、パリには、門番がいる。ロンドンだと、一人一人が外のドアの合鍵を持っていて、好きな時間に家に戻ることができる。」
  ――「でも、50サンチーム払えば、ここでも、真夜中過ぎに、どこにでも入れるじゃないか。」
  ――「だけど、素行不良の奴みたいに見られることになる。」
  ――「ぼくが警視総監だったら、夜の12時に、店、劇場、カフェ、レストランなんかを閉めさせるなんじゃなくて、朝まで開いている店に報奨金を出すね。だって、結局のところ、そうしたとしても、警察が泥棒を優遇したことにはならない。今のやり方だと、警察は泥棒に無防備な町を差し出してるように思える。―― 町では、大多数の住民、印刷工、俳優、批評家、劇場の仕掛けを担当する人、ガス燈に火を灯す人等々、彼等は、12時すぎまで働かなくちゃいけない。―― それに外国人もいる。外国人が笑っているのを、何度聞いたことか・・・。パリジャンはとっても早く寝かされるってね。」 ―― 「習慣の問題だよ!」と友人。

7.盲人カフェ

  ―― 「ところで、」と友人。「‘追い剥ぎ’が怖くないなら、まだ夜遊びできる。その後、夕飯に戻って来てもいい。モンマルトル大通りの‘パティスリ’はどう。 ‘ブランジュリ’とか。‘ブランジュ’って呼ぶ人もいるけどね。リシュリュー通りにあるやつ。ああいう店は夜2時までの営業許可を持っている。ただし、‘がっつり’食べるとこじゃない。あるのは、パテとか‘サンドイッチ’。―― 鶏もあるかな。後は、お菓子の添え物のついた料理が少々。必ずマディラ・ワインをだぶだぶかけて食べることになっている。端役とか、研修生たちの夕飯なんだ・・・歌劇場の。そうだ、サン・トノレ通りの焼き肉屋へ行こう。」
  実際のところ、まだそんなに遅くなかった。暇だったので、時間が長く感じられたのだった・・・。パレ・ロワイヤルを横切ろうとして階段の石段まで来た時、太鼓の大きな音がして、「未開人」が盲人カフェで出し物を演じているのがわかった。
  ‘ホメロス(盲人)’オーケストラが、熱心に伴奏していた。平土間にいる多くの観客たちときたら、見たこともないほどぎゅうぎゅう詰めで、テーブルの飾りみたいだった。フュナンビュール座と同じように、毎晩規則正しくやって来て、同じ芝居、同じ俳優を見る。知ったかぶりをしている女性たちが言うには、ムッシュー・ブロンデット(未開人氏)は疲れていて、昨日の夜の微妙な演技が今夜はできていない。ぼくとしては、その批判の評価はできなかった。でも、彼をとてもカッコいと思った。本当に目が見えないのだろうか。彼の目はエナメルかもしれない。
  どうして、彼等は未開人たちと呼ばれるのだろう、と言われるかもしれない。彼等のいるたった一つのカフェは、地下室の中にある。それが作られたのは、革命の時代。以前は楽団の慎みを憤慨させるようなこともあった。今では、全てが静かで、しかるべき状態にある。地下室の廊下も、警官の警戒の目が届くところに置かれている。
  いつも通りの「人形の男」という演目だったので、ぼくたちは逃げ出した。もう見たことがあったんだ。その人形男ときたら、ベルギーのフランス語を完璧に真似している。
  さあ、これから、もっともっと深く、パリという地獄のこんがらがった輪を下っていこう。友だちはぼくに、‘パンタン’で夜を過ごさせてやると、約束してくれた。

8.パンタン

  パンタン―― それは闇のパリ、―― 低俗なパリと言う人達もいる。俗語では、パントリュシュと呼ぶ。それ以上はやめておこう。
  ヴァロワ通りを曲がり、一ダース位ある窓で輝いている正面玄関に行き着いた。 ‘古いアテネ’だ。ラ・アルプの博学な講義が、そこでの最初の授業だった。今では、 ‘ナシオン’のゴージャスな酒場になっている。ビリアードが十二台くらいある。美的であればあるほど、詩的になる。―― そこにいる人達は腕前がよくて、緑のクロスの上に規則正しく配置された3つのオブジェクト・ボールの周りに玉を転がすことができる。その3つの場所には印がついている。相手の動きを妨害することはもうしない。進歩したおかげで、我々の先人の成し遂げた虚しい偉業、つまり妨害するような行為は、もう行われなくなっていた。続けて二つの的に当てるキャロム・ショットは、まだ認められている。でも、それ(キャロム・ショット)を一つでも、しくじるのはだめだ。
  ぼくはもうフランス語が使えないのだろうかと心配になっている。―― だから、「それ」という代名詞にカッコを付け、注を入れたんだ。―― スクリーブのフランス語、モンタンシエのフランス語、酒場のフランス語、娼婦たちのフランス語、アパートの管理人のフランス語、ブルジョワたちの集会やサロンのフランス語、そうしたフランス語は、偉大な世紀の伝統から離れ始めている。コルネイユやボッシュエの言葉は、徐々にサンスクリット語(学者の言葉)になってきている。プラクリ(俗っぽい言葉)の支配が始まるのは、――  私の入場券や友人の券を手にすると、それを納得するしかない、――‘オノレ’通りにあるダンスホールに入った時から。意地悪い奴らは、そこを‘犬どものダンスホール’と呼ぶ。常連の一人が使った言葉はこんなだった。あんたたちは、バル(ブ・ア・ルと発音する)に転がり込む(入る)。今夜はかなり‘リゴロ’だ。
  リゴロとは、楽しいという意味。
  実際、あの時は‘リゴロ’だった。
  内部の建物まで行くには長い廊下を通るのだが、そこは古い体操場と似ている。若者たちは色々な訓練をして、体力や知性を向上することができる。一階はビリヤード・カフェ。二階はダンスの部屋。三階はフェンシングとボクシングの部屋。四階には写真機の原形であるダゲレオタイプがある。忍耐を必要とするこの機械は、考えるのに疲れた人々に向けられ、幻想を破壊し、一人一人の顔に真実の鏡を差し出す。
  しかし、夜になると、ボクシングも、肖像写真もなし。―― 耳をつんざくような金管楽器のオーケストラが、エスさん、通称‘デカティ’の指揮で演奏され、みんなは抵抗する余地もなくダンスホールへと呼び込まれる。そこでは、ビスケットやお菓子の売り子たちとの戦いが始まる。最初の部屋に入るとテーブルがあり、誰もが25サンチームの紙幣を同じ額の商品に交換する権利を持つ。柱が何本か見え、その間越しに見えるのは、楽しげにカドリーユ・ダンスを踊る人々の動いている姿。親切にも一人の警官が、煙草が吸えるのは入り口の部屋――  プロドローム―― だけだと教えてくれる。
  ぼくたちが煙草の吸い殻を投げ捨てると、すぐに若者たちがかき集める。ぼくたちよりも金欠なんだ。―― とにかく、本当に、ダンスホールはいい。社交界にいるみたいだ。―― ただし、服装で問題のあるところは見逃す、という条件付きだけれど。結局のところ、ウィーンで‘飾り気のない舞踏会’と呼ばれているものだ。
  そんなに自慢するものでもない。そこにいる女性たちは他の女性と同等。男たちに関して言えば、アルフレッド・ド・ミュッセがトルコの回転僧に関して書いた詩句を真似て、こんな風に言うことができる。
  彼等の邪魔をするな。でないと彼等は君を犬と呼ぶだろう・・・。
  彼等を侮辱するな。なぜなら、彼らは君と同等なんだ! 社交界で同じ位の活気を見つけてほしいくらいだ。部屋は大きくて、黄色に塗られている。立派な人達は柱に背をもたれかけている。禁煙中。胸には踊り手たちの肘が当たることもあるし、足はギャロップやワルツに熱中したステップで踏まれることもある。ダンスが終わると、テーブルに人だかりができる。11時頃、労働者階級の女たちは出ていき、芝居小屋やカフェ・コンセール、娼館から出てきた人たちに場を明け渡す。オーケストラは、新しい聴衆のために再び活気付き、夜中の12時くらいまで演奏を止めない。

9.シャンソン酒場

  ぼくたちは12時まで待たなかった。奇妙なポスターがぼくたちの注意を引いたのだった。シャンソン酒場の規則がその部屋の中に張り出されていた。

       吟遊詩人たちの音楽サークル
会長 ビュリ。歌唱指導 ボヴェ、等等。
第一条:政治的な歌、宗教や風俗を傷つけるどんな歌も厳禁。
第二条:‘ほのめかし’が認められるのは、会長が相応しいと判断するときのみ。
第三条:サークルの秩序を乱す状態で参加しようとする者は、入室が拒否される。
第四条:秩序を乱し、一晩で二度の警告を受け、それを無視する者は全て、即座に退室することが求められる。
                           承認済み、等等。

  ぼくたちもこうした措置はいいことだと思う。吟遊詩人たちの音楽サークルは、ちょうどいい具合に、昔のアテネの正面にある。でも、今夜は集まりがない。別のシャンソン酒場がこの一角の、別の中庭にかつては存在していた。唐草模様の四つの街灯が入り口の扉のマークで、その上には金の定規が置かれていた。
  切符切りがボトル代金(6スー)を払うように言う。一階に着くと、ドアの後ろに‘秩序監視係’がいる。「建物会員ですか。」と彼。「そうです。建物会員です。」と友人が答えた。
  二人は決められたやり方で手を触り合い、部屋に入ることができた。
  ぼくはそこですぐに昔の歌を思い出した。生まれたばかりの‘子オオカミ’(遍歴職人たちの用語で、親方の息子の意。)の驚きを綴った歌。とても気持ちのいい人々の集まりに行き、その会を祝うという内容。「目が眩しい」と ‘子オオカミ’が言う。「この囲いの中で、何が見えるだろう。

     木工職人たち! 家具職人たち!
     建築請負業者たち!。。。
     花束みたいだ、
     たくさんのいろんな色で飾られている!」

  実際、ぼくたちは‘建物’に属していた。――その言葉は、精神的な意味でも使われる。‘建物’は詩人を排除しないのだから。―― アンフィオンも、リラの音色に合わせて壁を建てたので、‘建物’に属していた。―― 画家や彫刻家といった芸術家も同じこと。 ‘建物会員’たちの甘やかされた子どもだ。
  ‘子オオカミ’と同じように、ぼくも室内を一目見て、その輝かしさに目が眩んだ。‘秩序監視係’がぼくたちテーブルに座らせてくれたので、それぞれのパネルに相応しく配置された記念品に目をやることができた。驚いたことに、当然書かれているはずの、あの短いフレーズがなかった。「女性を尊重すること!ポーランド人に名誉を!」伝統がこんな風にして失われていく!
  逆に、事務机は赤い布で覆われ、とても堂々とした役員三人が座っていた。彼等はそれぞれ自分の前にベルを置いている。会長が、正式な木槌を三度打ち下ろした。仲間の‘母’が机の足元に座っている。その横顔しか見えないけれど、優美で、威厳に満ちている。
  ――「愛しい友達よ」と会長が言った。我らが友の***が、これから、新しく作った曲を歌ってくれます。曲の名前は「柳の葉」です。」
  その歌は、他の多くの曲ほど悪くはなかった。わずかではあるが、ピエール・デュポンの曲調を真似ていた。歌ったのは若い二枚目の男。長い黒髪がふさふさしていたので、頭の周りに一本の紐を回し、髪を巻き付けているに違いなかった。声は穏やかで、響きがとてもよかった。みんなの拍手喝采は、二人に向けられていた、―― 二人とは、 ‘作曲者’と‘歌手’。 会長が、一人の女の子を暖かい目で見てやってくれるようにとみんなに告げる。その子の初めての歌が、これから‘仲間たち’の前で始まろうとしていた。三度木槌を振りおろし、会長が神経を集中させた。そして、みんなが静まりかえる中、若い声が聞こえてきた。その声には、幼さから来る荒々しさがまだかなりあった。しかし、(我々の近くにいた一人の使った言葉を使うと)、少しづつ‘脱皮し’、最後にはとても大胆な‘表現’と装飾音に達した。イントネーションの新鮮さや声を出す器官の純粋さ、感動が生み出す震える声といったものが、古典的な音楽教育によってまだ損なわれていなかった。それらを持っているのは、フランス音楽院のレッスンをまだ受けていない、才能ある人間だけだ。

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