バルザック 知られざる傑作 Honoré de Balzac, Le Chef-d’œuvre inconnu 芸術論 3/5

「エジプトの聖女マリア」に、解剖学的な正確さはあるが生命感が欠けている、というフレノフェールの指摘に対して、ポルビュスとプッサンは反論しようとする。

— Mais pourquoi, mon cher maître ? dit respectueusement Porbus au vieillard tandis que le jeune homme avait peine à réprimer une forte envie de le battre.

ーー でも、どうしてですか、ポルビュスが老人に尋ねた。一方、若者は、老人に反論したいという強い気持ちを抑えるのに苦労していた。

しかし、フレノフェールは二人にほとんど口を挟ませず、すぐに自分の説を再び展開する。

バルザックは、登場人物たちの会話という形式は取りながら、ほとんどを老画家の言葉だけにしてしまい、自分の芸術論を開陳する。
彼が小説の中のフィクション世界の中にしばしば顔を出す印象があるのは、こうした語り口のためである。

— Ah ! Voilà, dit le petit vieillard. Tu as flotté indécis entre les deux systèmes, entre le dessin et la couleur, entre le flegme minutieux, la raideur précise des vieux maîtres allemands et l’ardeur éblouissante, l’heureuse abondance des maîtres italiens.

  ーー ああ! こんな感じだ、と小柄な老人が言った。お前はどちらとも決めきれず、デッサンと色の間で揺れていた。もっと言えば、昔のドイツの巨匠たちの、細心の注意を払った冷静さや正確なカチッとした感じと、イタリアの巨匠たちの、まばゆい熱気や幸福な豊穣さの間で、揺れていた。

ここでバルザックは、北方(ドイツ)と南方(イタリア)の絵画の特色を指摘している。
北方の絵画は、線で描かれるデッサンが重視され、細部まで綿密に(minutieux)描かれるために冷静沈着(flegme)で、きちっとしていて(précis)生硬(raideur)な印象を与える。
南方の絵画は、地中海の太陽に照らされたように(éblouissante)熱気(ardeur)があり、ゆったりとした豊かさ(abondance)がある。

次に、フレノフェールは具体的な画家たちの名前を挙げていく。
この部分は、バルザックによる絵画史の講義のようだ。

Tu as voulu imiter à la fois Hans Holbein et Titien, Albrecht Dürer et Paul Véronèse. Certes c’était là une magnifique ambition ! Mais qu’est-il arrivé ? Tu n’as eu ni le charme sévère de la sécheresse, ni les décevantes magies du clair-obscur.

お前は、ハンス・ホルバインとティツィアーノを、アルブレヒト・デューラーとパオロ・ヴェロネーゼを同時に真似ようとした。確かにそれは素晴らしい野望だった!しかし、それで何か起こったのだろう?生硬さから来るきりっとした魅力もないし、明暗法によって人の目を眩ます魔術もない。

北方の画家としてあげられるのは、ホルバインとデューラー。
南方の画家は、ティツィアーノとヴェロネーゼ。
南と北の違いは、実際に絵画を見ると、違いをすぐに実感できる。

Hans Holbein, Les Ambassadeurs
Titien, Le Concert champêtre
Albrecht Dürer, Autoportrait à la fourrure
Paul Véronèse, Le portrait d’un gentilhomme en fourrure

バルザックは、ドイツとイタリアの絵画が作り出す効果を教えてくれる。
ドイツ絵画は、「生硬さから来るきりっとした魅力(le charme sévère de la sécheresse)」。
イタリア絵画は「明暗法によって人の目を眩ます魔術(es décevantes magies du clair-obscur)」。(décevant(失望させる)は、ここでは人を欺く、つまり明暗によって奥行き感、立体感という幻想を産み出す、という意味。)

この二つの様式を折衷したら、どちらのよさもなくなってしまうというのが、フレノフェールの主張。
その結果が以下で語られる。

Dans cet endroit, comme un bronze en fusion qui crève son trop faible moule, la riche et blonde couleur du Titien a fait éclater le maigre contour d’Albrecht Dürer où tu l’avais coulée. Ailleurs, le linéament a résisté et contenu les magnifiques débordements de la palette vénitienne. Ta figure n’est ni parfaitement dessinée, ni parfaitement peinte, et porte partout les traces de cette malheureuse indécision.

ここでは、溶けたブロンズが弱々しい型を裂いてしまうように、ティツィアーノの豊かな金色が、アルブレヒト・デューラーの細い輪郭を破裂させてしまっている。そこに金色を流し込んだからだ。あちらでは、輪郭線が、ヴェニスのパレットからたっぷりと流れ出す色に抵抗し、押さえ込んでいる。この女性の姿は、形も完全にデッサンされていず、色彩も完全ではなかった。至るところで、不幸な迷いの跡を留めている。

ある場所では、デューラー的な輪郭線からはティツィアーノの色がはみ出し、別の場所では、ヴェニスの画家ヴェロネーゼの色をホルバインの輪郭線が押さえ込んでいる。
その結果、輪郭線に基づいた絵画としても、色に基づいた絵画としても、不完全に留まる。

Si tu ne te sentais pas assez fort pour fondre ensemble au feu de ton génie les deux manières rivales, il fallait opter franchement entre l’une ou l’autre, afin d’obtenir l’unité qui simule une des conditions de la vie. Tu n’es vrai que dans les milieux, tes contours sont faux, ne s’enveloppent pas et ne promettent rien par derrière. Il y a de la vérité ici, dit le vieillard en montrant la poitrine de la sainte. —— Puis, ici, reprit-il en indiquant le point où sur le tableau finissait l’épaule. —— Mais là, fit-il en revenant au milieu de la gorge, tout est faux. N’analysons rien, ce serait faire ton désespoir.
  Le vieillard s’assit sur une escabelle, se tint la tête dans les mains et resta muet.

もしお前が、対立する二つの様式を、自らの天才の炎で溶かし、一つのものにできるだけの強さを自分の中に感じないのなら、思い切ってどちらか一方を選択すべきだったのだ。そうすれば、人間の生の条件の一つと似た統一感を得ることができただろう。お前が真実であるのは、その中間でだけ。輪郭は偽りだし、その内部が感じられないし、後ろに何かがあるようにも思えない。ここには真実があるが、と老人は聖女の胸を指さしながら言った。ーー そして、ここ、と彼は、画布の上で肩が終わろうとしているところを示しながら言った。ーー でも、あそこ、今度は胸の真ん中を指して言う、全て噓っぽい。
全てを分析するのは止めておこう。そんなことをしたら、お前は絶望するからな。
  老人は小さな足かけに座り、手で頭を抱え、何も言わなくなった。

線と色の対立という絵画の基本的なコンセプトに基づきながら、フレノフェール(バルザック)は、自己の芸術観を一歩前に進める。

もし天才であれば、線と色を融合し、調和させた絵画を制作することができる。つまり、天才は、理論を超える。
これはバルザック流の天才の定義だといえる。

しかし、天才でないのであれば、どちらか一方を選択する必要がある。
そのもっとも大きな理由は、1枚の絵画には「統一感(unité)」が必要であること。
この「統一感」があることで、絵画は、「人間の生の条件の一つ(une des conditions de la vie)」を感じさせることができる。つまり、生命が生まれるのである。

逆に、二つの様式を中途半端に使うと、例えば、デッサンは、その中に含む厚みがなく(les contours ne s’enveloppent pas)、裏側に何かがあるように感じさせず(ne promettent rien par derrière)、薄っぺらな感じしか与えない。

このように、「エジプトの聖女マリア」にはいい部分もあるが、命を感じさせない偽りの部分も多いと、フレノフェールは指摘する。
それを受けて、ポルビュスは、決定的とも言える本質的な質問をすることになる。(続く)

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