バルザック 知られざる傑作 Honoré de Balzac, Le Chef-d’œuvre inconnu 芸術論 5/5

フレノフェールはさらに彼の芸術論を展開し、絵画が何を表現すべきかポルビュスに伝える。

La forme est, dans ses figures, ce qu’elle est chez nous, un truchement pour se communiquer des idées, des sensations, une vaste poésie. Toute figure est un monde, un portrait dont le modèle est apparu dans une vision sublime, teint de lumière, désigné par une voix intérieure, dépouillé par un doigt céleste qui a montré, dans le passé de toute une vie, les sources de l’expression.

形体は、様々な姿をしているが、私たちの内部にあるものなのだ。つまり、考えることや感じることをお互いに伝え合う代弁者であり、広大なポエジーだといえる。どんな姿でも一つの世界であり、一つの肖像画なのだ。そのモデルが崇高なヴィジョンの中に姿を現したときには、光に彩られ、心の声に指名され、天上の指で不純なものを払われている。天の指は、一つの生全体の過去において、表現の源を示したのだった。

絵画は視覚に訴えかける芸術であり、描かれているものの形が全てだといえる。
フレノフェール(バルザック)は、その形体が単に目に見える形象というだけではなく、思考や感覚を伝える時、ポエジー(詩情)の源になると考える。

そのためには、描かれる対象の本質的な姿を捉える必要がある。フレノフェールの言葉を借りれば、「崇高なヴィジョン(une vision sublime)」。
その時、モデルとなる対象は、光輝き、内的な声(une voix intérieure)によって指名され、汚れを払い落とされている。

汚れを落とすのは、天上の指、つまり人間を超えた力。
その指は、生全体(toute une vie )の流れの中で、表現(expression)の源を明らかにしたと、フレノフェールは言う。

こうした言葉は抽象的にとどまり、生命(vie)や表現(expression)という言葉の重要性は伝わっても、理解するのは難しい。
そこで、フレノフェールは、具体的な例を挙げて、さらに説明を加える。

Vous faites à vos femmes de belles robes de chair, de belles draperies de cheveux, mais où est le sang, qui engendre le calme ou la passion et qui cause des effets particuliers ? Ta sainte est une femme brune, mais ceci, mon pauvre Porbus, est d’une blonde ! Vos figures sont alors de pâles fantômes colorés que vous nous promenez devant les yeux, et vous appelez cela de la peinture et de l’art. Parce que vous avez fait quelque chose qui ressemble plus à une femme qu’à une maison, vous pensez avoir touché le but, et, tout fiers de n’être plus obligés d’écrire à coté de vos figures, currus venustus ou pulcher homo, comme les premiers peintres, vous vous imaginez être des artistes merveilleux !

お前たちは、自分の描く女性像に、美しいドレスのような肉体や織物のような髪を与える。しかし、血液はどこにあるのだ。落ち着きや情熱を生み出し、独自の効果を生み出す血液はどこだ。お前の描いた聖女は褐色の髪をしている。しかし、ここは、哀れなポルビュスよ、ブロンドではないか! お前たちの描く姿は色を塗られた朧気な亡霊にすぎない。その亡霊を私たちの目の前に展開し、それを絵画だとか芸術と呼ぶ。女性の姿に似ていて、家の姿には似ていない何ものかを描き、目的に達したと思い込んでいる。その姿の横に、ラテン語で「優雅な馬車」とか「魅力的な男」などと書くことを強いられないと自負している。最初に画家になった人間と同じように、自分たちを素晴らしい芸術家だと思い込んでいる。

フレノフェールは、形が生命感も持たない絵画の批判から始める。

素晴らしく美しい女性像でも、血が通っていなければ、芸術とはいえない。
褐色の髪だからといって、褐色だけで描いては、血の通った人間にはならない。ブロンドの部分もあるのだ。

血が通っていない女性像は、形が家と違うというだけにすぎない。
絵画の横に、馬車の絵とか、男の絵と明記しなくても、それが何かわかるということで自負しても、意味がない。

Ha ! ha ! vous n’y êtes pas encore, mes braves compagnons, il vous faudra user bien des crayons, couvrir bien des toiles avant d’arriver. Assurément, une femme porte sa tête de cette manière, elle tient sa jupe ainsi, ses yeux s’alanguissent et se fondent avec cet air de douceur résignée, l’ombre palpitante des cils flotte ainsi sur les joues ! C’est cela, et ce n’est pas cela.

あー、あー、我が勇敢な同胞たちよ、お前たちはまだ目的に達していないのだ。目的に行き着く前に、もっと多くの筆を使い、多くの画布を塗りつぶさなければならない。女性の頭は確かにこんな風だし、スカートをこんな風に持ち上げる。物憂げな目をして、少し諦めたような穏やかな様子と溶け合っている。睫毛の影も、こんな風にピクピクと頬の上で動く!こうなのだ、でも、こうではない。

実物そっくりに描かれている絵画は、確かに現実を模写しているのだが、それでは足りないものがある。

Qu’y manque-t-il ? un rien, mais ce rien est tout. Vous avez l’apparence de la vie, mais vous n’exprimez pas son trop-plein qui déborde, ce je ne sais quoi qui est l’âme peut-être et qui flotte nuageusement sur l’enveloppe ; enfin cette fleur de vie que Titien et Raphaël ont surprise.

何が欠けているのか。本当に何でもないもの。しかし、その何でもないものが全てなのだ。お前たちは生命の外観を描いている。しかし、生命からあふれ出るものを表現してはいない。何かわからないが、たぶん魂そのものであり、魂を覆うものの上をフワフワと漂っているもの。一言で言えば、それは生命の花であり、それをティツィアーノとラファエロは捉えたのだった。

目に見える形を超えてあふれ出す生命感。それこそが、絵画が捉えるべきもの。
それをフレノフェールは、生命の花(cette fleur de vie)と言う。

その花は、すでに語り手が口にしていた花と対応する。

Il existe dans tous les sentiments humains une fleur primitive, engendrée par un noble enthousiasme […).
人間の全ての感情の中に、一本の原初的な花が存在している。その花は、高貴な熱狂によって生み出される。

その花を捉えた画家の代表としてフレノフェールが名前を挙げるのは、ティツィアーノとラファエロ。

Titien, Vénus d’Urbin
Raffaello Sanzio, La Fornarina

En partant du point extrême où vous arrivez, on ferait peut-être d’excellente peinture ; mais vous vous lassez trop vite. Le vulgaire admire, et le vrai connaisseur sourit. Ô Mabuse, ô mon maître, ajouta ce singulier personnage, tu es un voleur, tu as emporté la vie avec toi !

お前たちが到達することを目指す最終の地点から出発すれば、素晴らしい絵画を描くことができるかもしれない。しかし、すぐに早く飽きてしまう。世間は賞賛するが、本当の目利きは微笑むだけだ。おお、マビューズ様、我が師よ、と、この奇妙な人物はさらに言葉を継いだ。あなたは盗人です。生命を持ち去られたのです!

Jan Gossart, Autoportrait (?)

マビューズとは、ベルギーの画家ヤン・ホッサールト(1478年頃ー1532年)の別称。
フレノフェールは彼を師として仰ぎ、神話のプロメテウスが神から火を盗み、パンドラに命を与えたように、生命を持った人物を描いた画家としている。

ティツィアーノは1448年か1450年に生まれ、1576年に死亡。
ラファエロは、1483年に生まれ、死んだのは1520年。

生命の花を表現したとしてここで名前が挙がっているのは、3人ともルネサンスの画家。
そして、ティツィアーノとラファエロはイタリアの画家。マビューズはベルギーの画家。つまり、南にも北にも、理想に達した画家がいたことになる。

— À cela près, reprit-il, cette toile vaut mieux que les peintures de ce faquin de Rubens avec ses montagnes de viandes flamandes, saupoudrées de vermillon, ses ondées de chevelures rousses, et son tapage de couleurs. Au moins, avez-vous là couleur, sentiment et dessin, les trois parties essentielles de l’Art.

それをのぞけば、お前のこの絵は、あのろくでもないルーベンスの絵よりも価値がある。ルーベンスのは、フランドル的な肉が山のように盛り上がり、朱色が降りかかっている。赤毛の髪がにわか雨のように降りかかり、どぎつい色が混沌としている。お前の方には、少なくとも、色、感情、デッサンという、芸術を構成する3つの主要な要素がある。

フレノフェール(バルザック)は、ルーベンス(1577−1640)を悪しき絵画の代表として攻撃する。

『知られざる傑作』の冒頭で、マリー・ド・メディシスの寵愛をプロビュスから奪ったのがルーベンスだとされていた。
実際、アンリ4世とマリー・ド・メディシスの婚礼を描いた連作は、ルーベンスの手による。
そこで、物語的に、ルーベンスがポルビュスの敵対者として語られることは、当然のなりゆきといえる。

ポルビュスに絵画の本質を教えるフレノフェールにとっても、ルーベンスの絵画は悪い例であり、その問題点をここで数え上げている。
肉の塊、乱れきった髪、とりわけ混沌とした色彩(tapage de couleurs)。

ルーベンスの絵画を一目見れば、その指摘が当たっていることがわかる。

Rubens, Le Débarquement de la reine à Marseille

バロック絵画の代表であるルーベンスは、ルネサンス絵画の調和を乱し、混沌させたように見える。

興味深いのは、バルザックと同じ時代を生きたドラクロワは、ルーベンスの弟子とも言える画家であり、形体のねじれ、色彩の混沌を特色としている。

Eugène Delacroix, La Barque de Dante
Eugène Delacroix, Nature morte aux Homards

フレノフェールのルーベンス批判は、そのままドラクロワにも当てはまる。そして、ドラクロワを誰よりも高く評価したのが、詩人のボードレール。

バルザックは、フレノフェールの口を通して、ドラクロワを批判しているのだろうか。
そして、19世紀前半に古典主義を代表する画家と見なされたアングルを評価しているのだろうか。

Ingres, Roger délivrant Angélique

『知られざる傑作』の最後、プッサンの恋人ジレットをモデルにしてフレノフェールが描く「美しき諍い女」には、混沌とした色彩の洪水に溺れた一本の足しか残っていなかった。

その皮肉な結末を知るとき、絵画の本質は生命の表出(expression de la vie)という主張の実現は可能かどうかという疑問が湧く。
しかし、その結末があることで、不可能を追求することが芸術家の使命であるという、バルザックの主張が浮かび上がる。
真の芸術家は、線と色と感情を通して、生命の花を描く試みを続けるしかない。

フレノフェールは、色彩、線(デッサン)、感情が、絵画の三要素であると繰り返し、彼の絵画論を終える。

その後、フレノフェールは、自然の中に輪郭線は存在せず、自然の生命は色彩によって表現されると強調しながら、しかし絵画においては素描の必要性も主張する。

[…] notre art est, comme la nature, composé d’une infinité d’éléments : le dessin donne une squelette, la couleur est la vie, mais la vie sans squelette est une chose plus incomplète que le squelette sans la vie.

我らが芸術は、自然と同じように、無限の要素で構成されている。デッサンは骨格であり、色は生命だ。しかし、骨格のない生命は、生命のない骨格よりも不完全なものだ。

フレノフェールの描く絵画「美しき諍い女」は、絵具の山でしかなく、まさに骨格のない生命だということになる。

バルザックは、『知られざる傑作』にこうした結末を与えたことで、何を表現しようとしたのだろうか。

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