デカルト 『方法序説』 我思う、故に我在り Descartes Discours de la méthode « Je pense, donc je suis.» 1/2

René Descartes

デカルトという名前と、「我思う、故に我在り」という言葉は、誰でも知っている。しかし、1637年に出版された『方法序説(Discours de la méthode)』を実際に読む人はそれほど多くない。

17世紀以降の合理主義、科学主義のベースにあるデカルトの思想を知ることは、現代においても有益に違いない。

『方法序説』は、次の文で始まる。

          Première Partie

Le bon sens est la chose du monde la mieux partagée; car chacun pense en être si bien pourvu, que ceux même qui sont les plus difficiles à contenter en toute autre chose n’ont point coutume d’en désirer plus qu’ils en ont.

               第1部

良識(よき感覚)は、この世でもっともよく分かち持たれているものである。なぜなら、それぞれの人間が、良識を十分に与えられていると思っているので、他のことでは満足させるのが難しい人たちでさえ、自分が持っている以上に良識を持ちたいと望む習慣を持たないからである。

朗読(1分36秒から)

bon sensは良識という日本語に訳されるが、フランス語をそのまま理解すると、「よき/感覚」あるいは「いい/センス」。
sensの動詞はsentir(感じる)。
デカルトのように、一人一人の人間がいいセンス(感覚、方向性、知覚、勘、判断力)を持っていると言えるかどうかは別にして、誰もが「感じる力」を持っているということには同意できるだろう。

なぜ全ての人が「感じる力(sens)」を持っていると言えるのか。
その理由は、自分がすでにそれを持っているので、それ以上は持ちたいと思わないからだと、デカルトは言う。

Michel de Montaigne

この論理は、実は、16世紀の思想家モンテーニュから借りてきている。モンテーニュは『エセー』(II, 17)の中で、自然が人間に与えてくれたものの中で、もっとも正当に分かち持たれているのは、「感覚(sens)」だとしている。
« On dit communément que le plus juste partage que Nature nous ait fait de ses grâces, c’est celui du sens, car il n’est aucun qui ne se contente de ce qu’elle lui en a distribué ! »
(よく言われるように、自然が私たちに分け与えてくれる恩恵の中で、もっともよく分け持たれているのは、感覚である。なぜなら、自然が分配したもので満足しない人はいないからである。)

この後、デカルトは、「良識、よき感覚」がどのようなものであるか的確に説明し、それが「理性(raisono)」と呼ばれることを読者に伝える。

En quoi il n’est pas vraisemblable que tous se trompent: mais plutôt cela témoigne que la puissance de bien juger et distinguer le vrai d’avec le faux, qui est proprement ce qu’on nomme le bon sens ou la raison, est naturellement égale en tous les hommes ;

そのことに関して、全ての人が間違っているということはないだろう。むしろ、それが証明しているのは、正しく判断する力、真実と偽りを区別する力、それがまさに良識あるいは理性と呼ばれるものだが、その力は全ての人間に生まれつき平等に分け与えられているものである。

デカルトは、良識(bon sens)とは、正しく判断する(bien juger)力、噓(le faux)と誠(le vrai)を区別する(distinguer)力であるとし、それが理性(raison)と呼ばれているという。

このようにして、理性とは正しい判断力であるということが、『方法序説』の冒頭で明らかにされる。

興味深いことに、モンテーニュは『エセー』の「子供の教育について」という章で、教育の目的は判断力を養うことであるとしていた。そして、「一杯に詰まった頭(tête bien pleine)」ではなく「よくできた頭(tête bien faite)」を養わなければならないと主張した。

このことは、デカルトが決して独自の哲学を突然作り上げたわけではなく、16世紀から続くフランスの思想を受け継ぎ、さらに発展させたことを示している。

ところで、もし全ての人が良識を持っているとしたら、なぜこんなに違った意見があるのだろうか。デカルトは、そのことについては、こんな風に述べている。

et ainsi que la diversité de nos opinions ne vient pas de ce que les uns sont plus raisonnables que les autres, mais seulement de ce que nous conduisons nos pensées par diverses voies, et ne considérons pas les mêmes choses. Car ce n’est pas assez d’avoir l’esprit bon, mais le principal est de l’appliquer bien.

私たちの意見の相違は、ある人々が別の人々よりも理性的だということから来るのではない。私たちが自分の考えを様々な道によって導き、同じものを考察しているわけではない、ということから来ている。よき精神を持つだけでは十分ではない。大切なことは、よき精神をしっかりと応用することである。

デカルトは、みんなが良識を持っていると言えば、そんなことはない、良識を持たない人もいて、理性的に考えることができず、変な行動をする人たちがいるという反論が来ることは予想している。

彼によれば、そうした違いは、理性(良識、よい精神)を持たないことから来るのではなく、その使い方からくるのだと言う。
そのことは、よい(bon)という言葉をとり、感覚(sens)だけで考えると、納得がいく。
誰しも何かを感じる感覚は持っている。同じものでも、違う感じを抱くのは、感じ方の違いによる。
デカルトは、理性も、使い方によって、違う意見(opinions)を生み出すということで、誰しもが理性を持っているという主張を正当化する。

こうした考え方は、デカルト自身の経験によるのだろう。
彼は若い頃、多くの旅をし、違う場所には違う習慣があることを見聞きした。一つの場所の常識は、別の場所では非常識に見えることもある。
そんな時、次の様に考えた。
「我々と全く反対の考えを持つ人々も、みんな野蛮で粗野なのではない。我々と同じくらい、あるいは我々以上に、理性を使っているのかもしれない。」

全ての人が理性を持つが、理性の使い方が違う。それが、デカルトが至った結論だった。

Georges de la tour Saint Jérome lisant

デカルトの展開した論理は、17世紀のヨーロッパだけではなく、21世紀まで続く常識的な考え方の礎となった。
その中心にあるのは、「我思う、故に我在り」。
次に、この有名な表現が出てくる一節を読み、デカルト哲学理解への、最初の一歩を踏み出してみよう。(続く)

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