古典が失われた時代 Perte de la culture classique

個人的な感想になるが、とりわけ2000年を過ぎた頃から、古典とか過去の名作が顧みられなくなってしまったように思われる。

文学的な古典作品、フランス文学で言えば、フロベールやバルザックを読もうとしないし、手に取ったとしても読めないという若者が多い。
新しく高校で国語を教え始めた先生が、夏目漱石の小説を抜粋以外で読んだことがない、つまり一冊を通して読んでことがない、という例まで耳にしたことがある。

こうしたことは文学に限ったことではなく、映画でも同じこと。
映画好きだと自称する若者でも、小津安二郎の名前を知らなかったり、「東京物語」や黒沢の「7人の侍」さえ見たことがないという。

自分の好きな俳優の新作が出ると映画館に行く。あるいは、話題になっている映画を見に行く。
監督の名前も、メディアで流通すれば、是枝監督という名前は耳にする。
しかし、過去の名作や監督に関する知識はゼロに等しい。知っていたとしても、わざわざ見るところまで興味がわかない。
ジブリの映画は好きで何度も見ているけれど、とくにアニメの内容について考えたことがない。等々。

私の周りでこうした現象が起こり始めたのは、2000年前後。
知識とは、今の話題を収集することに集約され、それ以上のものをあえて求めようとはしなくなった時代。

なぜこうした時代になったのだろう。
個人的な印象としては、2つのことが原因だと思う。

1)一般的にいいと言われるものよりも、
あなたがいいと思うものが、あなたにとっては大切。

日本がバブルの時代、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われ、世界をリードするような言葉が流通した。
日本人が海外に出た時、自分の意見を明確に言えないので、自己主張が出来るようにならないといけないと言われることも多かった。
コミュニケーション能力とは、発信力であり、自分の意見を言葉に出して言うことが大切だという風潮。

一般論に合わせるのではなく、自分の考えをしっかり持つこと。正しい答えを暗記して反復するのではなく、自分なりに感じ、考えたことが大切なのだという言葉が多く流通した。

いい物に触れることでいい物とは何かが分かるという考え方から、いい物はあなたが決めるものだという考え方への移行。

こうした中で、過去の名作や古典に触れることの意義が見失われたのではないかと、今になってみると思う。

かつてフランス映画が好きだという人間であれば、誰もが「天井桟敷の人々」を見、「大いなる幻想」を見ていた。見ていないと恥ずかしかったし、見てわからなければ、わからない自分をわかる自分に変えるために、本を読み、友だちと話し、理解する努力をした。
名作、傑作と言われるものを自分の上に置き、自分の感受性や理解力を高めようとした。

しかし、ある時期から、上下はない。あなたが面白くないのであれば、無理にわからない映画をいいと思う必要はないという風潮が強くなったように思われる。
こう言ってよければ、平等主義がいきわたり、上下などと言うのはもってのほか。
そうした中で、自分の価値観を反省することなく肯定する傾向が出来上がっていった。
(ただし、そうした平等主義が実は自己肯定を難しくすることになる。)

このような傾向の中で、すぐに自分の感性に訴えかけてこない古典、過去の傑作を無理に読み、見、理解する努力をする必要が感じられなくなったのではないか。

2)デジタル化

デジタル製品の進歩は著しい。
誰もがパソコンを使うようになり、スマートフォンなしの生活は考えられなくなりつつある。
私たちは、デジタル製品の進歩の早さを実感する時代に生きている。というよりも、古い製品は使い物にならないと感じ、無意識的に新しい製品への買い換え圧力を受けている。OSが古くなったら、パソコンは使えなくなる。OSを新しくしないとウイルスに侵入される危険性が高くなる。等々。

デジタルの世界では、古いものは使い物にならず、新製品は性能がいい。これが常識だし、確かにスペックは上がっている。

こうしたデジタルの世界は、科学的な世界観の最新ヴァージョンに他ならない。新しい発見が科学を前に進ませ、新しいものほど進歩したものだと見なされる。

時に過去を振り返ることがあるとしても、過去の実験結果や製品が最新のものよりも優れていて、そのまま使える、というわけではない。
これまでの過程を検証しなおし、最新の結果をさらに前に進めるための作業として、過去の検証は行われる。

科学の世界では当たり前である進化や進歩の思想が、デジタル化された社会の中で、私たちの実感として定着したということができる。
その結果、新しいものほど優れているという意識が、生活実感として定着したのではないかと思われる。

もちろん、芸術の分野に目をやれば、例えば、レオナルド・ダ・ビンチの絵画よりも、新しい絵画の方が優れているということはない。
反省的に考えてみれば、新しいものが古いものよりも価値があると断言できないことは、誰にもわかっている。
しかし、現実生活の実感としては、デジタル化された世界観が自然なものとなっている。

以上の二つの点(一般的価値より私の価値が大切、デジタル化)を通して今の時代を考えると、古典、過去の傑作を顧みなくなっている現状が理解できるだろう。

個人的には、こうした傾向は軌道修正すべきだと考えている。
その理由は、次の点にある。

1)自分がいいと思うものだけを求めていると、常に同じ傾向に留まり、自分の考え方や趣味の範囲が広がらない。

2)古典作品や過去の傑作を理解する努力をすることで、物事の価値を判断できる基準が自分の中にできてくる。
根拠無く思い込むのではなく、自分の好きなものの根拠を知り、そこから生まれる基準に従って物事を判断できるようになる。

ネット上で、opinionsが飛び交い、何が正しく、何がフェイク・ニュースかわからない時代こそ、過去の優れた価値に接し、それを理解することが必要なのではないか。
たとえ、反時代的な営みだとしても。


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