
チャーリー・チャップリンの「街の灯(City Lights)」は、1931年の初演以来、名作中の名作として90年近くの間、人々を楽しませ続けている。
白黒で無声。それだけで、古いとか、分かり難いと思ってしまうかかもしれないが、全くそんなことはない。
むしろ、カラー作品ではなく、無声だからこそ、映画の最も基本的な要素を浮かび上がらせる。そして、それぞれの要素の質の高さが名作映画を作るのだ、ということを教えてくれる。
私たちが映画を見る時、あらすじを追ってしまうことが多い。その結果、映画について話す時、あらすじを話題にすることが多かったりする。
ネタバレという言葉は、要するに、あらすじを最後まで明かすという意味で、それがあたかも映画の面白さを失わせるような印象を与えることもある。
確かに、あらすじはある程度重要だが、映画にとっての一つの要素でしかない。

「街の灯」のあらすじといえば、ありふれたラヴ・ロマンス。
一人の浮浪者が目の不自由な花売りの女性と偶然出会い、彼女と恋に落ちる。浮浪者は、富豪からお金を盗んだ罪で刑務所に入れられるが、その間に女性は彼からもらったお金で目を治し、花屋を開く。最後に、浮浪者が花屋の前を通りかかり、彼女と再会する。
こうしたあらすじを追っても、「街の灯」の映画としての素晴らしさを語ることにはならない。
この映画の最良の要素は、俳優の顔の表情や体の動き等、つまり演技の質、そして、俳優たちを捉えるカメラワーク、カットとカットのつながりにある。
一つの例として、浮浪者(チャプリン)と花売り娘(ヴァージニア・チェリル)が出会うシーンを取り上げてみよう。
最初、浮浪者は娘の目が不自由だとは気づかない。
娘が花を手から落とし、それを拾おうとしても拾えない。浮浪者が花を拾い、彼女の目の前にかざす。それでも彼女は気づかない。その時、彼女の目が不自由なことに気づく。
この時のチャップリンの仕草は、そのことを気づいたと悟られないようにしながら、しかし帽子で少し合図し(彼女が見えないにもかかわらず、礼儀正しく振る舞うところに、浮浪者の人柄が表現されている。)、その後、お金を渡すシーンで、彼女の手の中に硬貨をしっかりと握らせてあげることで、すでにわき始めた愛情を示している。
その後、お釣りを渡そうする彼女の仕草、高級な車が走り去っていく音から自分をお金持ちだと思わせようとする浮浪者、彼女の横に座り見とれていると彼女に水をかけられるコミックなシーンなど、観客を映画の世界に引き込む演技が続いていく。

こうしたラヴ・ロマンスと並行して、ドタバタ・コメディーの場面が展開する。
浮浪者が命を助けた富豪は、夜には彼と親友のように振る舞い、昼のしらふの時には彼のことを完全に忘れている。その二人のやり取りの面白さが、観客の笑いを誘う。
花売りの女性と浮浪者の間でも、コメディーの場面がいくつかある。
もっとも大きな笑いの場面は、愛する女性のためにお金が必要になった浮浪者が、ボクシングでお金を稼ごうとするシーン。
このボクシングのシーンは何度見ても楽しいし、解説の必要もない。とにかく、リズム感が素晴らしい。
ラスト・シーンは、目の見えるようになった女性が、浮浪者に花とお金を上げようとし、彼が手術前にあこがれた男性だったと気づくシーン。
惨めな様子の浮浪者が、見覚えのある薔薇の花が道に落ちているのを見つける仕草。
何も知らない花売りの女性が、浮浪者を見て、母と面白がるシーン。
次のシーンでは、女性の後ろ姿が見え、正面に浮浪者が立ち、彼の顔が真正面から見える。そして、花売りの女性が愛した人だと気づく。その時の驚きと喜び、自分だと彼女にわかってしまったらどうしようという困惑、そうした複雑な感情を表現するチャップリンの演技。
カットが代わり、女性が母親の方を振り返り、I’ve made a conquest.と言って、再び面白がるシーン。
バラ一輪とお金を上げるという女性に対して、大急ぎで逃げ出す浮浪者。
それを追いかけて、チャップリンの手を握るヴァージニア・チェリル。
そして、彼女は、その手の感触を通し、彼が愛する人だと理解する。
この時の、二人の俳優の手の動きや顔の表情は、言葉に言い表せないほど素晴らしい。何度見ても感動する。
ここで取り上げた以外にも、数えられないほどの名シーン、名演技が、「街の灯」には詰まっている。
社会批判とか、映画制作時の裏話など、目の前に展開する映像と関係のないことにとらわれず、ただ画面を見つめていれば、見る度に新しい発見がある。