パスカル 考える葦 Pascal Roseau pensant その2 

「人間は考える葦である。」や「クレオパトラの鼻がもっと低かったら、世界の歴史も変わっていたであろう。」という言葉を通して、日本でもよく知られているブレーズ・パスカル。
彼の考えたことを少しでも理解したいと思い、『パンセ(Pensées)』を読んでも、なかなか難しい。

『パンセ』が、キリスト教信仰のために書かれたものだというのが、大きな理由かもしれない。
神のいない人間の悲惨(Misère de l’homme sans Dieu)
神と共にいる人間の至福(Félicité de l’homme avec Dieu)
そう言われても、キリスト教の信者でなければ、実感はわかないだろう。

想像力(imagination)や好奇心(curiosité)は人を過ちに導くという考えは、現代の価値観とは違っている。

パスカルと同じ17世紀の思想家デカルトと、「考える(penser)」ことに価値を置く点では共通している。
https://bohemegalante.com/2020/05/15/pascal-pensees-roseau-pensant/
しかし、パスカルには、デカルトの考え方は許せないらしい。デカルトは役に立たず(inutile)、不確かだ(incertain)と断定する。(B. 78)
その理由は、理性(raison)について価値判断の違いから来ているようだ。

こうしたことを頭に置きながら、パスカルの書き残した断片を読んでみよう。

神と人間

パスカルは熱心なキリスト教信者であり、神の絶対性は彼の中では揺るがすことができない事実である。
その神に対して、人間は何ものでもない。

21世紀の日本でこうしたことを目にすると、それだけで反発する人がいたりする。
そんな場合には、神を運命と言い換えてみると、理解しやすくなるかもしれない。
運命が変えられないと考えている人たちにとって、運命は絶対的なものだと感じられる。その運命を神という存在に置き換えると、人間と神の関係に対する反発は和らぐに違いない。

[…] qu’est-ce que l’homme dans la nature ? Un néant à l’égard de l’infini, un tout à l’égard du néant, un milieu entre rien et tout. Infiniment éloigné de comprendre les extrêmes, la fin des choses et leur principe sont pour lui invinciblement cachés dans un secret impénétrable, également incapable de voir le néant d’où il est tiré, et l’infini où il est englouti. (B. 72)

自然の中における人間とは何だろう。無限に対しては虚無。虚無に対しては全体。そして、虚無と全体の間の中間的存在。両極を理解するところからは無限に遠くにいる人間にとって、事物の終わりも原則も、決して知ることができない秘密の中にしっかりと隠されている。人間は、自分が引き出されて来る虚無も見ることが出来ないし、自分が呑み込まれる無限も見ることが出来ない。

人間とは、虚無(le néant, rien)と無限(infini)という両極(extrêmes)の中間(milieu)に存在する生き物であり、決して虚無も無限も知ることができない。人間にとって、虚無と無限は不可知の秘密(un secrèt impénétrable)であり続ける。

無限を神と考えれば、神は人間をはるかに超えている。人間は弱く小さく、あらゆる面で限定された存在。
従って、神を理解することはできない。
だからこそ、無条件に神を信じること。(信仰)
反対に、理解できないからという理由で神を信じないとすれば、不遜な態度ということになる。

自分の小ささ、弱さを自覚し、不可知なもの(神)を信じること。
パスカルの人間観、信仰の根本はここにある。
信じることができれば至福((Félicité de l’homme avec Dieu))であるし、信じることができなければ悲惨((Misère de l’homme sans Dieu))なのだ。


想像力、好奇心、虚栄心、自己愛

17世紀は、「外見の文化(culture de l’apparence)」の時代。
サロンや宮廷では、服装や見かけ(apparence)が重要な意味を持ち、実質(être)と同等か、それ以上の力を及ばしていた。
そうした中で、パスカルは、人間が真実に近づくために害になるものを列挙する。

(1)想像力

現代では、想像力は人間にとって肯定的な価値を持つものと考えられている。しかし、パルカルは、古代から続く思考と同じように、想像力を批判する。

L’imagination. – C’est cette partie décevante dans l’homme, cette maîtresse d’erreur et de fausseté, et d’autant plus fourbe qu’elle ne l’est pas toujours […].
Cette superbe puissance, ennemie de la raison, qui se plaît à la contrôler et à la dominer, pour montrer combien elle peut en toutes choses, a établi dans l’homme une seconde nature. (B. 82)

想像力。ーー 人間の中にあり、人を欺く部分。間違いと偽りを生み出し、いつでも悪賢いというわけではないために、ますます悪賢いもの。(・・・)
 この絶大な力は、理性の敵。理性をコントロールし、支配するのを好みむ。あらゆる事柄においてどれだけのことができるか示すために、人間の中に第2の性質(nature)を作り上げた。

想像力は人を欺く。それは、古代から続く基本的な考え方。
その理由は何か。
想像力、つまりimaginationは、イメージ(image)を作り出す力。
イメージとは、本物に対するコピーの一種であり、現実を変形した偽物と見なされる。
そして、コピーは本物と似ているために、人は本物とコピーを混同する可能性がある。つまり、コピーでありながら、本物だと思い込む。

パルカルは想像力に対して、騙す(décevant :decevoir は17世紀には人を騙すことを意味していた。)、間違い(erreur)、偽り(fausseté)、悪賢い(fourbe)と、人を欺く傾向を強調する。

その力は、人間の中に、第2の性質(nature)を作るところまでいくという。
人間の本来の性質は不変であるとしても、それ以外の性質といえる傾向を作り出し、理性(raison)を支配するところまでいくだけの力を持つ。
想像力はそれほど強力な力であり、人は欺かれても容易に気づかない。そのために、実質(être)と外見(paraître)の区別がつかなくなってしまう。

(2)好奇心

好奇心も、想像力と同じように、現代では肯定的に捉えられる。
他方、古代から、好奇心は人間を破滅に導く悪い感情だと考えられてきた。

[…] la maladie principale de l’homme est la curiosité inquiète des choses qu’il ne peut savoir ; et il ne lui est pas si mauvais d’être dans l’erreur que dans cette curiosité inutile. (B. 18)

人間の最も重い病気は、自分の知ることができない事柄を不安に思う好奇心である。人間は、過ちの中にいる方が、無益な好奇心の中にいるよりも、まだましである。

好奇心が悪いものという考え方は、日本人であれば、鶴の恩返しのような民話を思い出せばすぐに理解できる。知らなくていいことはそのままにしておけばいいのに、夫は禁止を破って妻である鶴の姿をのぞき見る。そのために、幸福が飛び去ってしまう。
ヨーロッパでは、パンドラの神話がこれに当たる。禁止されたパンドラの箱を好奇心に負けて開けると、全てが逃げ去る。しかし、最後に悪だけは残り、世界に悪が広まる。

パルカルは、好奇心は、誤りよりも悪いと記す。
誤りをもたらすのが想像力だとすると、それよりももっと悪い。
なぜなら、人間が知らなくていい究極の存在は神であり、神は知るのではなく、信じるもの。神を知ろうとすることは、自分を神の位置にまで高めることにつながり、自分の小さな、無力さを自覚しないことになる。

楽園でエヴァが蛇に誘惑されて食べるのは、知恵の実。
その知恵のために、アダムとエヴァは自分たちが裸であることを恥ずかしいと思い、神の禁止に違反したことが発覚し、楽園を追放される。

こうしたキリスト教の世界観を理解するのは私たちには難しかもしれないが、自分の知識に対する謙虚さを持つという言葉に置き換えてみると、少し理解に近づくかもしれない。

パスカルの表現で言えば、人間は弱い葦にすぎない、無力な存在なのだ。その自覚を持つことを、彼は求めている。

(3)虚栄心 ーー クレオパトラの鼻

謙虚さと対極にあるのは、虚栄心。
虚栄心は現代でも否定的な感情と見なされるので、誰にもわかりやすい。

Qui voudra connaître à plein la vanité de l’homme n’a qu’à considérer les causes et les effets de l’amour. La cause en est un Je ne sais quoi. Corneille. Et les effets en sont effroyables. Ce Je ne sais quoi, si peu de chose qu’on ne peut le reconnaître, remue toute la terre, les princes, les armées, le monde entier.
Le nez de Cléopâtre s’il eût été plus court toute la face de la terre aurait changé. (B. 162)

人間の虚栄心について完全に知りたいと思う人は、恋愛の原因と結果を考えてみるだけでいい。その原因は「私にはわからない何か」(コルネイユ)。その結果は、恐るべきものである。その「私にはわからない何か」は、認識できないくらい僅かなことでも、地上全体を、王を、軍隊を、世界全体を揺り動かす。
 クレオパトラの鼻がもっと低ければ、地球の表面全体が変わっていただろう。

有名なクレオパトラの鼻は、虚栄心(vanité)に関している。

人間の行動は、ほんの些細なことが原因だとしても、大きな結果につながることがある。その最もいい例が恋愛だと、パスカルは言う。

人に恋をする理由は、ほとんど理由にもならないことかもしれない。
例えば、クレオパトラの鼻。
しかし、その鼻のおかげで、シーザーが彼女に恋し、アントニウムが彼に続いたのかもしれない。
もし彼女の鼻がもう少し低かったら、二人は恋をしなかったかもしれない。としたら、古代ローマの世界像は大きく変わっていた可能性がある。
クレオパトラがそのように考えたとしたら、それは彼女の虚栄心だ。

(4)自己愛 ーー 嫌悪すべき自己

自己愛も現代ではできる限り避けるべき感情と考えられることが多いので、パスカルの言葉も比較的理解しやすいだろう。

L’Amour-propre. — La nature de l’amour propre et de ce moi humain est de n’aimer que soi, et de ne considérer que soi. […] Il veut être grand, et il se voit petit. Il veut être heureux, et il se voit misérable. Il veut être parfait, et il se voit plein d’imperfections. Il veut être l’objet de l’amour et de l’estime des hommes, et il voit que ses défauts ne méritent que leur aversion et leur mépris. Cet embarras où il se trouve produit en lui la plus injuste et la plus criminelle passion qu’il soit possible de s’imaginer. […] il (le moi) met tout son soin à couvrir ses défauts et aux autres et à soi-même, et qu’il ne peut souffrir qu’on les lui fasse voir ni qu’on les voie. (B. 100)

自己愛。ーー 自己愛と人間的な「私」の性質は、自分しか愛さないこと、そして、自分のことしか考えないこと。(・・・)自分は大きくありたいが、小さく見える。幸せでいたいが、惨めに見える。完璧でありたいが、不完全さがたくさんあるように見える。人々から愛され、尊敬されたいと望むが、自分の欠点が人々の嫌悪や軽蔑の対象になっているように思う。自分の置かれたこうした困惑する状況のために、自分の中に想像しうる限りで最も不正で罪深い情念が生み出される。(・・・)自分の欠点を他人や自分自身に対して隠そうと配慮し、それを人から自分に見せられることにも、自分でそれを見ることにも、耐えることができない。

パスカルはここで自己愛について、「望み」と「自己認識」との差によるものと説明する。

自分が「望む(veut être)」姿と、自分の目に「見える(se voit)自分」の姿が違っている。そのずれが生み出す困惑(embarras)のおかげで、自分の中に不正(injuste)で罪深い(crimielle)情念(passion)が生まれると、パスカルは考える。
その情念に動かされて、自分の欠点を人に対して隠そうとするだけではなく、とりわけ自分自身に対して隠そうとする。そして、それを誰かに指摘されることも、自分自身で気づくことにも耐えられない。

こうしたメカニスムのために、自己愛は自分自身に対する愛でありながら、自分を憎しみの対象にしてしまう。

Le moi est haïsable. […]
En un mot, le moi a deux qualités. Il est injuste en soi en ce qu’il se fait centre de tout ; il est incommode aux autres en ce qu’il les veut asservir, car chaque moi est l’ennemi et voudrait être le tyran de tous les autres. (B. 455)

「自己」は憎むべきもの。
一言で言って、「自己」には二つの性質がある。自己は、全てのものの中心になるという点で、それ自体において不正である。他者を従属させようとする点で、他者に対して気持ちのいいものではない。なぜなら、それぞれの「自己」は全ての他者の敵であり、暴君になろうとするからだ。

パスカルはここで、自分に対する(en soi)自己(le moi)と、他者に対する(aux autres)自己(le moi)という二つの側面を考えている。

自己に対する自己は、不正(injuste)。
なぜなら、全ての中心になろうとする(il se fait centre de tout)から。

他者に対する自己は、不快(incommode)。
なぜなら、他者を従属させようとする(il veut les asservir ; le veut asservirは17世紀の語順)から。

パスカルは、他人が「不快さ」を取り除くことはできるが、「不正さ」を取り除くことはできないと言う。
従って、本当に憎むべきは、自己に対する自己。すべての中心になろうとする自己だということになる。

自己愛(amour-propre)に関する文では、自分しか愛さない(n’aimer que soi)、自分のことしか考えない(ne considérer que soi)と表現した自己。
パスカルの中では、こうした地位を占めていいのは、神だけだろう。
人間は、神を中心とした世界の中で、虚無と無限の中間に位置する小さな存在にすぎない。永遠を前にして、恐怖する存在。

Le silence éternel de ces espaces infinies m’effraie. (B. 206)

この無限の空間の永遠の沈黙が、私を恐れさせる。

想像力、好奇心、自己愛、憎むべき自己に関するパスカルの人間観は、外見の文化の中で真実に到達するための、前提となるものである。


考えること(penser)

パスカルは、弱い人間の行動として、考えることに価値を置く。

L’homme est visiblement fait pour penser ; c’est toujours sa dignité et tout son métier ; et tout son devoir est de penser comm il faut. (B. 146)

人間は明らかに、考えるようにできている。考えることが、人間の尊厳であり、人間のなすべきことでもある。人間の義務は正しく考えることである。

人間は葦(roseau)のように弱い存在であるが、考える(penser)ことで人間としての尊厳(dignité)が生まれる。
憎むべき自己(moi haïssable)であることを自覚するからこそ、考える行為が価値を持つとパスカルは考える。

Roseau pensant. – Ce n’est point de l’espace que je dois chercher ma dignité, mais c’est du règlement de ma pensée. Je n’aurai pas davantage en possédant des terres : par l’espace, l’univers me comprend et m’engloutit comme un point ; par la pensée, je le comprends. (B. 348)

「考える葦」ーー 空間から、自らの尊厳を求めるべきではない。それを求めるべきは、自らの考えの秩序からである。土地を所有しても、それ以上を得ることはない。空間を通して、宇宙は私を包み込み、私を一つの点として呑み込む。考えることによって、私が宇宙を包み込む。

物質的に見た時、私の存在は、宇宙(univers)という広大な空間(espace)の中にある極小の一点(un point)にすぎない。
しかし、宇宙について「考える」時、私の中に宇宙が含まれる(je le (=univers) comprends)。
そうしたパスカルの思考は、考えることの価値を私たちにわかりやすく伝えている。

しかし、考えるとは、どういうことか。
パスカルは、彼と同じように考えることを人間存在の中心においたデカルトを批判し、無益(inutile)で不確か(incertain)だと断罪する。(B. 78)
その理由を、デカルト哲学は神なしで済ませるから(se passer de Dieu)、としている(B. 77)。
しかし、決してそれだけではない。

もっとも大きな違いは、理性(raison)に対する評価の違いから来ている。
パスカルにとって、理性は真理に導く一つの道であるが、感情(sentiment)の働きも同様の重要性を持つ。

Nous connaissons la vérité, non seulement par la raison, mais encore par le cœur ; c’est de cette dernière sorte que nous connaissons les premiers principes, et c’est en vain que le raisonnement qui n’y a point de part essaie de les combattre. […] Et c’est sur ces connaissances du cœur et de l’instinct qu’il faut que la raison s’appuie, et qu’elle y fonde tout son discours. (B. 282)

私たちが真実を知るのは、理性を通してだけではなく、それ以上に、心も通してである。心を通して、私たちは最初の原則を知る。理論的な思考はそこにほとんど関与していないので、それらの原則と戦っても無駄である。(・・・)心と直感による知識に理性は支えられており、理性が論じることの全ては、心と直感による知識に基礎を置いている。

デカルトは全ての思考のベースに理性(raison)を置いた。
それに対して、パスカルは、理性以上に、心(cœur)が知識の基礎であると言う。
さらに、直感(instinct)も付け加える。
同じ考えることにしても、デカルトとパスカルはこれだけ違っている。

パルカルは、人間の思考パターンとして、幾何学の精神(esprit de géométrie)と繊細の精神(esprit de finesse)の二つをあげた。
繊細の精神とは、理性の上に心と直感を置いた思考法だと言っていいだろう。

空間を測るためには、理性だけで十分かもしれない。しかし、心を知るためには、理性だけでは不足であり、直感の力も必要になる。むしろ、直感の方が正しい答えに導いてくれるかもしれない。

パスカルはこうした思考を積み重ね、神への信仰へと人々を導くためだけではなく、サロンや宮廷の中での人間のあり方を考え、その振る舞いをどのように理解すべきか、彼なりに考えていのではないだろうか。

Nous ne nous contentons pas de la vie que nous avons en nous et en notre propre être : nous voulons vivre dans l’idée des autres d’une vie imaginaire et nous nous efforçons pour cela de paraître. Nous travaillons incessamment à embellir et conserver notre être imaginaire et négligeons le véritable. Et si nous avons ou la tranquillité ou la générosité et la fidélité, nous nous empressons de le faire savoir afin d’attacher ces vertus‑là à notre autre être, et les détacherions plutôt de nous pour les joindre à l’autre. Nous serions de bon cœur poltrons pour en acquérir la réputation d’être vaillants. (B. 147)

私たちは、私たち自身の中や私たち自身の存在の中での生活に満足しない。私たちが生きたいと望むのは、他人の考える想像上の生活であり、そのために、外見を取り繕うことに努める。想像上の実在を絶え間なく美化し、保存しようとし、真実の存在をなおざりにする。もし穏やかさ、寛大さ、忠実さを持っているのであれば、大急ぎでそれを人に知らせ、そうした美徳を私たちの別の存在と結び付ける。それを別の存在に加えるためであれば、私たち自身からそれらを引き離しかねない。勇敢であるという評判を得るためであれば、喜んで臆病になりもする。

パスカルはこの断片の中で、外見(paraître)とありのままの姿=実在(être)を対比させる。

自分自身の中にある生活というのは、あるがままの自分の生。それは、少し後になると、真実の存在(le véritable (être))と言い換えられる。
それに対して、他者が思い描く生は、想像上の存在(être imaginaire)。それは、言い換えれば、自分の別の生(autre être)とも考えられる。

人間は、しばしば、自分自身の生に自足せず、他者が思い描くイメージの生にあった自分の外見を作ろうとする。つまり、そのように見せようとする(paraître)とパスカルは考える。
こうした考えは、「外見の文化(culture de l’apparence)」の世界観を反映している。

そうした文化の中では、他者の視線が生み出すイメージが重視される。
少しでも自分に美徳があれば、それを他人の持つイメージ=別の私に結び付け、いかにもそれらしく振る舞う。
もう一歩進めば、たとえ自分が臆病ではなくても、勇敢に見られるのであれば、臆病の振りをすることも厭わない。つまり、自分とは違う役割を演じて見せることもある。例えば、わざと自分を臆病に見せ、他の人から、実はあなたは勇敢だと言われることで、自分を勇敢だと思わせようとする。

サロンや宮廷に集う人々に対するこうした観察は、現代の社会でも通用する。
他者が期待するように行動しようとしたり、自分をわざと悪く見せようとすることもある。一言で言えば、他者との関係の中で自分を装う傾向。

パスカルは17世紀の貴族社会で行われる「ふり」を分析し、次のような結論に達する。

Grande marque du néant de notre propre être, de n’être pas satisfait de l’un sans l’autre, et d’échanger souvent l’un pour l’autre ! Car qui ne mourrait pour conserver son honneur, celui-là serait infâme. (B. 147)

一方がないと他方に満足できないこと、頻繁に一方を他方と交換すること。そうしたことは、私たち自身の存在が虚無であることの明確な印である! 自分の名誉を守るために死のうとしない人間がいるとしたら、恥知らずということになる。

常に他者の目に映る自分の姿を考え、本来の自分とは違う自分に見せようとすることは、パルカルの視点からすると、本来の自分(propre être)が虚無(néant)であることの印だということになる。

自分を臆病に見せ、他者からそんなことはなくて実は勇敢だと見えるような行動をする人間がいるとする。本来の存在は臆病でないにもかかわらず、臆病に見せること。そんな人間は、自分の名誉を守らない恥ずかしい存在だと、パルカルは結論付ける。

理性だけを働かせるのではなく、心や直感に導かれ、社交界の人々の行動について考えること。こうしたことが、パスカルの「考えること(penser)」だったといってもいいだろう。

私たちは、そうした考えを読むことで、自らの知性と感性を用いて「考える」という行為に導かれる。
パスカルは決して、人々の行動をどのように読み取るかというマニュアルを書いたわけでも、人生の教訓を書いているわけでもない。
彼自身の思考を開示することで、私たち読者に、考える過程を示したのだ。
パスカルの言葉に従えば、彼の思考を辿ることで、読者も「洗練の精神(esprit de finesse)」を養うことができる。少なくとも、その道が示されている。

パスカル的思考が、17世紀フランスの一つの精神性を代表していると考えてもいいだろう。


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