ラ・フォンテーヌ 影のために獲物を逃す犬 La Fontaine « Le Chien qui lâche sa proie pour l’ombre » 想像力について

17世紀のフランスにおいて、想像力(imagination)は、人を欺く悪いものだと考えられていた。
例えば、ブレーズ・パスカルは『パンセ(Pensées)』の中で、「人間の中にあり、人を欺く部分。間違いと偽りを生み出す。(C’est cette partie décevante dans l’homme, cette maîtresse d’erreur et de fausseté […]. B82)」とまで書いている。

ラ・フォンテーヌは、わかりやすい寓話の形で、その理由を教えてくれる。
その寓話とは「影のために獲物を逃す犬(Le Chien qui lâche sa proie pour l’ombre)」。
獲物(proie)が実体(être)、影(ombre)が実体の映像=イメージ(image)と考えると、イメージを作り出す力である想像力(imagination)が、人を実体から遠ざけるものと考えられていた理由を理解できる。

Le Chien qui lâche sa proie pour l’ombre

Chacun se trompe ici-bas.
On voit courir après l’ombre
Tant de fous, qu’on n’en sait pas
La plupart du temps le nombre.

影のために獲物を逃す犬

この世では、誰でも間違えることがある。
影を追いかけて走る
多くの愚か者を目にすることがあり、
たいていの場合、その数さえわからない。

この寓話では、物語の前に教訓が置かれている。
「この世では(ici-bas)、誰もが間違える(chacun se trompe)。」

わざわざ「この世では」と付け加えているのは、地上の越えた世界には間違えない人もいるという、言外の意味を伝えるため。
地上に生きる人間であれば誰でも間違えることがある、ということになる。

次に、間違えるとは、影を追って走ること(courir après l’ombre)とされ、そうした行為をする人々を、ラ・フォンテーヌは「愚か者(fou)」と呼ぶ。

fouというのは、17世紀においては、良識(sens)や知性(esprit)を失った、というのが最初の意味。
そこから派生して、理性(raison)に反してなされること、情念(passion)にとらわれすぎ、信じやすく、単純、不注意、浅はかな、等を意味した。

従って、ラ・フォンテーヌは、この教訓を通して、人間誰しも理性から外れ、間違えることがある、と伝えていることになる。

ただし、なぜ間違えるのかは、まだ明かしていない。

Au Chien dont parle Ésope il faut les renvoyer.
Ce Chien, voyant sa proie en l’eau représentée,
La quitta pour l’image, et pensa se noyer ;
La rivière devint tout d’un coup agitée.
A toute peine il regagna les bords,
Et n’eut ni l’ombre ni le corps.

イソップの話す犬に、そうした人々を、差し向けなければならない。
その犬は、自分のくわえた獲物が水に映っているのを見て、
獲物を放し、映像に向かい、溺れそうになった。
小川は突然大きく波打った。
とても苦労して、犬は岸にたどり着いたが、
影も、獲物の体も、持っていなかった。

ラ・フォンテーヌはここであえて、寓話の出典であるイソップに言及している。

イソップの「犬と肉」は次のような寓話。
犬が肉をくわえて橋を渡ろうとしている。その時、川の中に見知らぬ犬がいて、自分よりも大きな肉をくわえているように見える。そこで、より大きな肉が欲しくなり、自分の肉を口から放して、相手の犬に飛びかかる。しかし、どちらも失ってしまう。もう一匹の犬は、水面に写った自分の姿だった。
教訓。欲張ると、元も子もなくす。

このイソップ寓話を読者が知っていることを前提にして、ラ・フォンテーヌは、最初から種明かしをする。つまり、犬が見ているのは、口にくわえている肉の映像だと明示する。
その時に使われる用語は、映る(représenter)と映像(image)。
re/présent/erという動詞は、「再び(re)」と「存在する(présent)」から構成され、あるものの存在を前提にして、それを「再現する」ことを意味する。
その再現されたものが、映像=イマージュ(image)。

犬は、実際に食べることができる本物の獲物(proie)を、水に映ったイメージのために失ってしまう。
従って、教訓で記された「間違える」ことの原因は、本物とその映像を取り違えることに由来する、ということになる。

イソップの教訓が「貪欲を慎むこと」だとすると、ラ・フォンテーヌは同じ物語から、「想像力(imagination)に用心すること」を教訓とする。

本物ではないのに本物のように思わせるイメージは、人を惑わせ、本物を見失わせる。
それは、理性(raison)や良識(bon sens)、知性(esprit)に反する行動へと人々を導き、人々を愚か者(fou)にする。
こうした思考は、17世紀後半のフランス、ヴェルサイユ宮殿を中心にした宮廷社会を支配した思想だといえる。

ラ・フォンテーヌの詩句の巧みさも、理性の反映といえるかもしれない。
物語部分の最初から4行は12音節の詩句で綴られ、交差韻(ABAB)。
水に映った映像のために(pour l’image)、獲物を口から離し(quitta sa proie)、小川に飛び込んで、溺れそうになった犬(le chien pensa se noyer : penserは「しそうになる」の意)。
犬が飛び込んだために、川の水が突然(tout d’un coup)波打つ(agitée)様子が、生き生きと語られている。

最後の2行は、10音節の詩句から8音節の詩句へとテンポが速まり、一気に結論に向かう。
12/12/12/12/10/8
最後の8音節で、影(ombre)も、肉(corps)もないと一息で語られ、影のために実態を失う虚しさが表現される。
リズムと意味の対応は、ラ・フォンテーヌの詩法の見事さを証明している。

17世紀フランスは理性の時代だとしばしば言われる。
ラ・フォンテーヌの庇護者だったニコラ・フーケ枢機卿が建造させたヴォー=ル=ヴィコント城と庭園を眺めると、整然と整った規則性の美しさが目に飛び込んでくる。
この時代は、インスピレーションに打たれ、自由な想像力を駆使して芸術作品や建築物が創造されるのではなく、全てが理性的に構想され、技術(art)を磨き上げて作られた。

「影のために獲物を逃す犬」は、そうした時代にあって、想像力の作り出す罠の原理を、簡潔にわかりやすく語っている。

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