ラ・フォンテーヌ 「女に姿を変えた雌猫」 La Fontaine « La Chatte métamorphosée en femme » 自然なままで

猫は人間にとってとても近い動物なので、様々な文学作品に出てくる。
ラ・フォンテーヌの寓話の中にも、「女に姿を変えた雌猫(La Chatte métamorphosée en femme)」がある。

この寓話は、イソップの「猫とヴィーナス」が下敷きになっている。

  猫が若い素敵な男性に恋をした。そこで、ヴィーナスに自分を人間の女に変えてくれるようにとお願いした。ヴィーナスはその願いを承知すると、彼女を美しい娘に変えてやった。
  こうして若者は、娘に一目惚れすると、彼女を家に連れ帰ってお嫁さんにした。ヴィーナスは姿を変えたネコが、性質も変わったかどうか知ろうとして、二人が寝室で横になっているところにネズミを放した。今の自分をすっかり忘れてしまったネコは、ネズミを食べようと寝椅子から跳ね起きネズミを追い掛けた。ヴィーナスはこの様子に大変失望して、ネコをもとの姿に戻した。
  悲しいことだが、生まれ持ったものは変えられない。

この話をラ・フォンテーヌはどのように変形し、17世紀のサロンや宮廷のエスプリに溢れたものにしたのだろうか。

Un homme chérissait éperdument sa Chatte ;
Il la trouvait mignonne, et belle, et délicate,
            Qui miaulait d’un ton fort doux.
            Il était plus fou que les fous.
        Cet homme donc, par prières, par larmes,
            Par sortilèges et par charmes,
            Fait tant qu’il obtient du destin
            Que sa chatte en un beau matin
            Devient femme, et le matin même,
            Maître sot en fait sa moitié.
Le voilà fou d’amour extrême,
            De fou qu’il était d’amitié.

自分の雌猫が情熱的に好きな、一人の男がいた。
可愛くて、美人で、繊細だと思った。
猫は、とてもやさしい声で、ニャーニャーと鳴く。
彼は、どんな気狂いよりももっと気がおかしかった。
そこで、祈り、涙を流し、
呪いをかけ、魔法を使い、
いろいろしたおかげで、運命から得たもの、それは、
雌猫が、ある朝、
女になり、その朝のうちに、
愚か者先生が彼女を妻にするということだった。
こうして彼は、極端な恋に気がふれるようになった。
その前までは、友情のために気がふれていたのだった。

ラ・フォンテーヌは、この寓話の中で、17世紀の価値観の中で否定される特質をはっきりと名指している。
「極端なこと(extrême)」。
ルイ14世の宮廷社会の中で重視されたのは、「中庸」であり、「礼儀正しく、人と合わせること(convenance)」だった。
そこで、極端な愛で飼い猫を愛する男を形容するために、何度も、狂人、気狂い(fou)という言葉が使われ、愚か者先生(Maître sot)とまで名付ける。

彼が運命(destin)に懇願して猫を人間の女に変える方法も、ただ祈り(prières)や涙(larmes)だけではなく、超自然な呪い(sortilèges)や魔法(charmes)まで使う。

当時の宗教思想の中で、人間が魂の救済を得るため、人間の力、努力が意味を持つと考えるイエズス会的な考え方と、救われるか救われないかは予め決まっていて、人間の行為で変えられると思うのは傲慢だと考えるジャンセニスム的思考が対立していた。

もし男の懇願を運命が聞き入れ、雌猫を人間の女に変えたとすれば、イエズス会的な考え方に則って、寓話が語られていることになる。

詩句は、最初の2行が12音節。その後、8音節が連続する。
韻に関して見ていくと、最初は平韻(AA)が連続し、物語が軽快に展開する。

Marc Chagall

「女になる(Devienne Femme)」から始まる最後の4行では、交差韻(ABAB)になり、平韻との違いから、アクセントが付けられる。
さらに、音色の点でも最後の4行は際立ち、[ m ]の音が至る所に配置されている。
femme, matin, même, Maître, moitié, amour, extrême, amitié.
このようにして、猫が女(femme)になったことで、男の抱く感情が、友情(amitié)から愛情(amour)に変わり、それが極端な愛(amour extrême)であることが、韻と子音反復(アリテラシオン)によって、見事に表現されている。

Jamais la dame la plus belle
            Ne charma tant son favori
            Que fait cette épouse nouvelle
            Son hypocondre de mari.
            Il l’amadoue, elle le flatte ;
            Il n’y trouve plus rien de chatte,
            Et poussant l’erreur jusqu’au bout,
            La croit femme en tout et partout,
Lorsque quelques Souris qui rongeaient de la natte
Troublèrent le plaisir des nouveaux mariés.
Aussitôt la femme est sur pieds :
            Elle manqua son aventure.
Souris de revenir, femme d’être en posture.
        Pour cette fois, elle accourut à point :
            Car ayant changé de figure,
            Les souris ne la craignaient point.

世界一美しい女性も、決して、
愛人をこれほど魅了することはなかった。
それほど、この新しい妻は、
夫を変てこにしている。
夫は妻を猫可愛がりし、妻は夫を気持ちよくする。
夫は妻の中に猫的な部分を何も見つけない。
その間違いを最後まで押し進め、
彼女を全ての部分、あらゆる箇所で、人間の女だと思う。
ネズミが数匹現れ、壁の織物をかじり、
新婚夫妻の喜びを乱した時、
すぐに女は立ち上げる。
彼女は企てをしくじった。
ネズミたちが戻ってくる。女は姿勢を整える。
今度は、走り寄って、間に合った。
姿が変わっていたので、
ネズミたちは彼女を怖がらなかったからだ。

ここでも再び、「極端な愛(amour extrême)」が、詩句によって浮き彫りになる。
最初の4行の韻が交差韻(ABAB)に置かれた後、平韻が2回続き(AABB)き、jusqu’au bout / partoutで終わる。
その最後の行の韻(partout)の直前に、en toutが置かれ、[ ou ]の音が反復されることで、この2行の詩句にアクセントが置かれている。

意味的には、夫が間違い(l’erreur)を最後まで押し進めた(pousser au bout)、つまり極端なまでに愛したので、変身した雌猫を隅から隅まで人間の女だと思い込んでしたった、というのである。
ラ・フォンテーヌはこの夫の変人さを示すため、hypocondreという言葉まで使っている。憂鬱質で、幻想に取り憑かれたような変人。

その後、12音節の詩句が2つ続き、新しい展開が行われる。
ネズミが部屋の壁の織物をかじるために姿を表し、夫婦の楽しみを掻き乱す。

次の展開が、この寓話の焦点になる。
8音節の詩句で軽快に物語が進むが、一カ所だけ、12音節の詩句が挟まる。

8音節で語られるのは、ネズミを見て妻が立ち上がり、ネズミを捕まえようとする姿。
最初は、女は立ち上がる(la femme est sur pieds)と、femmeという言葉があえて使われる。
足を意味する言葉も、人間の足を指すpiedが使われ、動物の足(patte)ではない。
人間の姿をしていることが、単語のレベルで強調されていることがわかる。

彼女は、ネズミを捕まえる企て(l’aventure)に失敗する(elle manqua)。

2回目でも、再び femmeという言葉が使われ、彼女は身構える(en posture)。
そして、今度は時を逃さず、時間に間に合い(à point)、ネズミを捕まえることができるところまで走っていく(elle accourut)。

この2回の狩りを語る8音節の詩句の中間に、口調のいい12音の詩句が配置されている。
Souris de revenir, // femme d’être en posture.
ネズミは戻る//女は姿勢を取る。
その12音節の詩句は、6/6のリズムでネズミと元雌猫の行動が対照的に描かれ、非常にリズミカルで、思わず口ずさみたくなる。

最後の2行になると、ラ・フォンテーヌのユーモアと皮肉屋の資質が表れる。
ネズミたちは、女を恐れない。その理由は、猫の姿でないから。
猫の姿をしていたら、ネズミを捕まえることができた。そんな風に思うと、この寓話が発散するエスプリの効いた笑いを実感できる。

物語の展開はここで終わり、次に、14行に及ぶ教訓的な詩句が続けられる。

Ce lui fut toujours une amorce,
            Tant le naturel a de force.
Il se moque de tout, certain âge accompli.
Le vase est imbibé, l’étoffe a pris son pli.
            En vain de son train ordinaire
            On le veut désaccoutumer.
            Quelque chose qu’on puisse faire,
            On ne saurait le réformer.
            Coups de fourche ni d’étrivières
            Ne lui font changer de manières ;
            Et, fussiez-vous embâtonnés,
            Jamais vous n’en serez les maîtres.
            Qu’on lui ferme la porte au nez,
            Il reviendra par les fenêtres.

彼女にとって、それが常にきっかけになる餌だった。
それほど、ありのままの性質には力がある。
人がある年齢まで達すると、本来の性質が全てを揶揄する。
瓶には水がたまり、布には皺がよった。
元来の性質のいつもの振る舞いを、
習慣ではなくそうとしても、無駄に終わる。
人がどんなことをしようと、
その形を変えることはできないだろう。
農具のピッチフォークや馬具の紐で叩いても、
そのやり方を変えさせることはできない。
あなたが棒で武装していたとしても、
決して、生来の性質を支配することはないだろう。
鼻先で扉を閉じても、
窓から戻ってくるだろう。

猫はネズミを見ると、捕まえたくなる。
人間の女に変身した雌猫も、ネズミを見た事がきっかけ(amorce)、つまり、それが餌(amorce)となり、猫本来の性格が戻ってしまう。
ラ・フォンテーヌは、そこで、ありのままの性質、自然のまま、天然などを意味する« le naturel »という言葉を取り上げる。

その言葉が明示された後からは、最後まで、ありのままの性質(le naturel)についてのコメントが様々な視点から行われる。

1)若い間は元来の性質を別な風に見せることができる。例えば、猫が人間の女性に変身するように。
しかし、ある年齢以降になると、どんなに装ってみても地が出てくる。
それが、全てを揶揄する(se moquer de tout)という詩句の意味。
瓶(le vase)の性質は水をためること(imbibé)。
布(étoffe)には自然に皺(pli)がよる。

2)本来の性質は習慣になっているので、いつもの進み具合や様子(train)を習慣ではなくそう(désaccutumer)としても無駄(en vain)。
どんなに形を変えよう(réformer)としても、変形できない。
農具(fourche)や馬のくつわを吊すコード(étrière)で叩いても、振る舞い(manières)は変えられない。

4)「棒で武装する(être embâtonné)」という言葉は、17世紀においてすでに古い言葉で、滑稽な(burlesque)雰囲気がした。
従って、棒で武装し、棒で叩いても、生まれながらの性質を支配することはできないと、棒(bâton)をイメージさせながら、面白可笑しく綴ったのだといえる。

5)鼻先で扉を閉めても(Qu’on lui ferme la porte au nez)、窓から戻ってくる(il reviendra par les fenêtres)という最後の2行は、映像が目に浮かんでくる。と同時に、非常に口調がいい。
この寓話を締めくくり、ありのまま(le naturel)は変えられないという教訓を、人々が口ずさむのに、最適の詩句だといえる。

ラ・フォンテーヌという詩人にとって、自然にしていること、無理をしないこと、あるがままでいること、ものごとの成り行きに任せるといった姿勢が、17世紀後半の貴族社会で生き抜く知恵だったのだろう。
「樫と葦(Le Chène et le Roseau)」でも、「狼と犬(Le Loup et le Chien)」でも、見栄を張らず、自然のままで生きることが、一番の「知恵」だ。
https://bohemegalante.com/2020/04/11/la-fontaine-chene-roseau/
https://bohemegalante.com/2020/05/19/la-fontaine-le-loup-et-le-chien/

そうした姿勢は、宗教的な面から見ると、運命が全てを決定し、人間の力は無力だと考えるジャンセニスム的思考と並行関係にあるといえる。
ただし、ラ・フォンテーヌは、何もせず、投げやりに運を天に任せるという、おざなりな姿勢を取っているわけではない。
寓話を通して、多様な人間のあり方を示し、その中でどのように考えることが可能か、素晴らしく工夫された韻文を駆使して、読者に提示しているのである。

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